2016年7月10日日曜日

「日ごとに担う十字架」(ルカ9:18-26)渡辺賢次牧師

ルカによる福音書第918-26節、201673日(日)、聖霊降臨後第7主日(典礼色―緑―)ゼカリア書第127-10節、ガラテヤの信徒への手紙第323-29節、讃美唱119/5(詩編第11933-40節)

 ルカによる福音書第918節~26

イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

説教「日ごとに担う十字架」(ルカ918-26)渡辺賢次牧師

私たちは、主イエスと共に、多くのみ業や、主のみ言葉に与ってきましたが、今日のルカによる福音書の第918節以下は、ルカ福音書の分水嶺に当たると言われる部分であります。実にここから、主イエスはどんなお方であるのかが、示されていくのであります。
これまでも、しばしば、このお方は何というお方なのだろうかという疑問は起こされてきたのでありますが、今日のところで、いよいよそれが明らかにされるのであります。
今日の記事は、5千人への供食の奇跡のあとに記されています。どこで、今日の出来事が起こったのかは書かれていません。ただ、主イエスが独りで祈っておられるということが起こったと始まっています。一人で祈っておられるのに、弟子たちだけは一緒だったとあります。それは、弟子たちは一緒にいたけれども、主イエスの祈りに与ることはできなかったことを示しています。そして、主イエスは弟子たちに、ここで質問されるのです。「人々は、私について何だと言っているか」と。彼らは答えます。ある者は、洗礼者ヨハネが生き返ったのだと。ある者は、エリヤだと、また、別の者は、昔の預言者のある者が生き返ったのだと。それに対して、主は、「では、あなた方は、私をだれだと語るのか」と。ペトロが答えて言います。「あなたこそ、神から遣わされたメシアです」と。これは、もとの文では「神のメシア」となっています。他でもない、神が送られたメシアですと、ペトロは、主イエスの祈りに導かれ、聖霊の助けによって、こう答えたのです。この告白のためにこそ、主イエスは弟子たちと共に、これまで歩んできたのであります。

私たちは、頻繁に、祈り等も「主イエス・キリストのみ名によって祈ります」などと、ごく当たり前のように使っていますが、これは、「イエスこそ、メシア」救い主ですという信仰告白の言葉なのであります。今まで、このことのために、主イエスは、弟子たちを導き、旅を続けてきたのであります。しかし、弟子たちは、なお、それがどのような救い主であるのか、まだ分かってはいなかったのであります。それに続いて、今日の後半の部分がつながっているのであります。主は、不思議にも、このことを誰にも言わないように、警告しお命じになってから、言われます。「人の子は、多くの苦しみを受け、長老、律法学者、祭司長たちによって無用と宣告され、殺され、三日目に起き上がらされることになっていると」とここで初めて、受難予告と復活予告をなさったのであります。すべてが、受身形で書かれています。ご自分のことを、「人の子」と呼ばれ、救い主である御自分が、苦しまれ、拒まれ、殺され、最後に起き上がらされねばならないと予告なさったのであります。本当に主は、この言葉を生前に言われたのでしょうか。それは、ご復活の後になって、弟子たちが、ここで主に言わせた言葉なのでしょうか。後の教会が、主イエスがここで語ったことにしているのでしょうか。旧約聖書で約束され、預言されていたメシアが、苦しみを受け、その民によって拒まれるメシアであることは、イザヤ書53章などによって暗示されていました。主イエスは、御自分がそれであることを、知っておられ、しかも、捨てられたままではなく、神によって復活させられ、擁護されることを察知されていたことは、十分ありうることであります。主イエスは、それに続けて、皆の者に向かって言われます。「もし誰でも、私の後にやって来たい者は、自分を否定し、日ごとに自分の十字架を担い、私に従って来なさい」と。自己否定と、自己犠牲と、従順が主の弟子であるためには、そのすべての者に必要なのです。そして、そのあとの文は、いづれも、「なぜならば」こうだからだと、理由付けの主のお言葉となっています。なぜなら、自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のためにそれを失う者はかえってそれを救うからだ。なぜならば、人がたとえ全世界を手に入れても、自分自身を滅ぼしたなら、そして、損害を受け、自分を難破させるのなら、何の益が受けられようか、と言われます。人は財産によっては命を安全に確保することはできないのであります。そして、最後に、なぜなら、私と私の言葉とを恥じる者を、人の子も、彼と、その父と、その天使たちの栄光において来るときに、その者を恥じるであろうからだと主は言われ、ご自分が苦しみを受け、拒まれ、殺され、復活させられる道は、また、私に従うすべての弟子の道であるとここで示されているのであります。この日毎に私どもの十字架を担う生活とは、日常のささやかな生活において示されるものであります。それは、家庭で夫が妻に仕え、妻も夫に仕え、親は子に仕え、子も親に仕えるような、主イエスが教えてくださった道であります。アーメン。

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