2016年7月30日土曜日

「律法は廃棄されない」(ローマ3:27-31)

ローマの信徒への手紙第327-31節、20160729、聖研・祈祷会

 ローマ327-31 

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。


メッセージ「律法は廃棄されない」(ローマ327-31

パウロは、今日の説き明かしにおいて、信仰による義という主張をより明瞭にしていく。キリストの死によって、無代価で、一方的に、神からの贈物として私たち全人類の罪は赦されている。私たちはそのことを信じることだけで、救われる、神はそれだけで、私たちのありのままの状態で、弁明してくださるというのである。
 では、かの誇り、自慢するということは、どの場所にありうるのだろうか。もはや、それは閉じ込められ、締め出されているというのである。
 私たちは、自分の行いを自慢するものである。それができなくなると、絶望してしまうのである。その浅はかな繰り返しの中に、信仰生活がなかなか進展しない現実に悩まされている。
 ところが、パウロは、「かの誇り、自慢すること」は、もはや締め出されていると言い切るのである。
 そして、私たちは、律法の行いによるのではなく、信仰の法則によって、私たちが義とされる。そのままで、キリストの十字架の死という贈り物によって、私たちは弁明されているというのである。
 信仰による義ということ、信仰のみによって、唯一の造り主である神の側から、既に弁明されているというのである。
 それなのになぜ、そこからはみ出て、罪を犯すことを繰り返してしまうのだろうか。それはまだ、信仰という法則、信仰という律法に生きているからだと、パウロは言おうとしているのだろうか。日ごとに、罪に死んで、信仰、既に救いを成し遂げ、弁明してくださった神にゆだねきって生きていくしかないのであるが。
  パウロは、割礼の民、ユダヤ人にも、無割礼のわれわれ異邦人たちにも、同じ唯一の神がおられ、信じるすべての者に、信仰の法則、これらはいずれも、信仰の律法という同じ言葉が当てられているのだが、神の選ばれた民として自慢することはできないし、異邦人であった私たちも、自慢することは、一切、追い出されているという。
 しかし、キリストを誇り、主を誇ることは否定していないし、自分の弱さを誇るとは、なお言っているのである。
 そして、最後に、それなら、律法は無用となったのかと、再び問い、そんなことは決して成ってはならないと断言する。むしろ、信仰という法則(律法と同じ言葉)によって、律法を擁護し、支持することになるのだと言うのである。この辺に、信仰生活の奥義と言おうか、秘密が隠されているのであろうか。信仰のみによって、既に救われているのであるが、その私が日々どのように生きていけばよいのか、パウロはその鍵となる事情を、この辺りに、示してくれているように思われるのである。アーメン。










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