2016年8月1日月曜日

「天の父に要求しなさい」(ルカ11:1-13)

ルカ福音書第111-13節、2016731日(日)、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)創世記第1816-33節、コロサイの信徒への手紙第26-15節、讃美唱138(詩編第1381-8節)

 ルカによる福音書第111節~13

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう祈りなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中に
その人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりw派耐える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


説教「天の父に要求しなさい」(ルカ111-13

 先週の必要なものは唯一つ、み言葉に聞き入ることであるとのペリコペーに続いての個所が、今日の福音として与えられています。信仰を与えられた私たちが、では、どのように祈っていけばいいのかが、今日の個所に記されております。
1朗読の創世記も、先週の個所に引き続いての記事で、二人の旅人を、天使とは知らないで心尽くしでもてなしたアブラハムに、今度は主なる神が現れて、実はロトの住んでいる町、ソドム、ゴモラを、その罪の大きさの故に滅ぼそうとしていることが示されます。それに対して、アブラハムが懸命に食い下がり、ソドムの町を救うためにとりなしの祈りをして、神に心を変えて下さるように願う。これも、神に対する祈りというよりも要求する姿を表しています。
私たちは、そのような強い祈りをしているのでしょうか。第2朗読の、これもほぼ通読されているコロサイ書の記事は、救われた我々が、主イエス・キリストにつながり、ふさわしい歩みをするように、その恵みがいかに大きなものかを諭し、キリストの割礼を受け、キリストと共に、十字架の死を死んで、洗礼を受けたものとして、世の偽りの哲学やこの世の空しい霊に迷わされることなく生きるように、私たちに奨めています。
まだ、礼拝の中では朗読されていませんが、今日の讃美唱、詩編138編も、主なる神に向かって、私をその力によって、どんなときにも敵から救い出し、命ある限り、支え導いてくれるようにとの強い祈りの言葉から成っています。

さて、今日の福音は、まさに、み言葉によって救われている私たちが、では、日常の中でどのように祈っていけばよいのかを教えている個所と言えましょう。ある人は、この個所を祈りの学校と呼んでいます。主イエスは、とにかく祈る人であったことを、特にルカは、ことごとに伝えています。今日の個所でも、先週のマルタ、マリアの記事に、そのまま引き続いて、そして、起こったことには、彼は祈っておられ、それをやめられたときに、弟子たちが、私たちにも、ヨハネのように、祈ることを教えてくださいと願い求めたことから、今日の記事は始まっています。
主は、それに対して、このように祈りなさいと教え始めたのです。父よ、み名が、聖とされますように、み国が来ますように、と。ルカによる主の祈りがここに記されています。
マタイに比べて、短く、より直接的で、父なる神に向かって、幼子のように、ただ単に、父よ、アバ、お父ちゃんと呼びかけ、祈り出すのです。言葉をしゃべり始めたばかりの子供が、父に、母に呼びかけるように、いきなり「お父ちゃん」と神と顔を合わせて語るかのように祈り始める。そして、先ず何よりも先に、み名があがめられますように祈れと主は言われます。これは、だれがそうするのかといえば、神ご自身とも考えられますし、我々地上に生きる信仰者たちによってとも考えられます。主のみ名が崇敬されることが、祈りの、そして私たち人間によってなされるべき最大の、そして第1の目的であります。
そして、次に、み国が来ますように、祈れと言われます。神の国が来るように祈る。これは、主イエスが初めて言い出されたことであります。旧約聖書でも、主の日が来るとか、主、ヤハウェが来られるとか、あるいは、主なる神が王となっておいでになるとか約束されていました。しかし、それに対して、主イエスは神の国、み国が一日も早く来ますようにと我々が日々祈るようにお求めになる。
続いて、パンを、私たちに、その日のそれを、日に従って与えてくださいと祈るように言われます。マタイ福音書の主の祈りの個所では、「我らに、日ごとの糧を今日も与えたまえ」とありますが、ここでは、いささか意味が難しくございます。私どもの新共同訳聖書では、私たちに必要なパンを、毎日お与えください」となっています。必要なパンなのか、今日の一日分のパンなのか、それは、文字通り物質的なパンなのか、霊的な意味での聖餐のパンなのか、十分に分からない、他のところでは殆ど使われていないことが含まれている。
しかし、ルカの神学から言えば、やはり生存を支えるその日一日分の生活の糧、パンそのものを、日ごとに、今日も明日も毎日与えてくださいとの強い呼びかけでありあす。
次に、私どもの罪どもをお赦しください、私どももまた、私どもに借りのある人を皆、赦しますからとあります。今、あなたのみ前で赦しますからという強い祈りであります。そして、最後に、私どもを試みに運び入れないで下さいとなっています。新共同訳では、マタイも、ルカも、誘惑に遭わせないでとありますが、父なる神は私たちを誘惑なさることはありません。せっかく、まことの神、主の十字架の死と復活による救いに与っている私どもを、信仰を捨てるような試練に遭わせないでくれるように祈れと言われるのであります。
それに続いて、主は、ある意味での譬え話をなさっておられる。これは、賀川豊彦牧師は、主イエスが実際に体験したことに基づいているのではないかと言っている物語であります。あなた方のうちである人が、友人を持っていたとする。ところがその人に深夜、別の友人が旅から着いたが、出すべきパンが残っていない。それで、その人は友人を訪ねて、パンを3つ貸してくれるように頼む。しかし、その友人は、中から、私を煩わさないでくれ、もう戸は閉めたし、子供たちも同じ床に入って寝入っている。あなたに起きてパンを貸すことはできないと答える。
しかしそこで、主は、私はあなた方に言っておくが、友人だからということでは断られるが、彼の厚かましさの故に、起き上がって、彼が求めるだけの分を出してくれるだろうと語られるのであります。これは、だれの「厚かましさ」の故なのか良く分からない言葉です。しかし、ここではむしろ、その家の中にいる人が、自分の恥への恐れから、起き出して友人の言うとおりにしてくれざるをえないと取ることが良く意味が分かるように思います。この寝ていた友人は、神さまをたとえているのかも知れません。友情というレベルではわざわざそうしないが、自分の面子がつぶれるのではかなわないからそうする、神さまもそうだと言われるのです。
そして、そこにあの有名な、「求めなさい、そうすれば与えられる。なぜなら、すべて求める者は与えられるからだ」などという主イエスの言われた言葉が来るのです。ここでは、求めなさいと訳されていますが、実際には要求しなさいという意味の強い言葉が使われている。今日の主イエスの祈り方は、いづれもあなた方は、天の父にあなた方の願いをそのまま強く「要求しなさい」というものであります。
そして、あなた方のうちで、息子が魚を求めるのに蛇をやる父親がいるだろうか、たまごを欲しがっているのに、さそりを渡す父がいるだろうか、と言われ、それゆえ、あなた方は悪い者でありながら、その子供たちには、見事な贈物を与えることを知っているのなら、ましてなおさら、父は、天からあなた方に聖霊を、その要求する者に与えてくださるとの強い約束、保障の言葉で、主イエスの祈りの学校と呼ばれる今日の部分は終わっています。
私どもも、主イエスのお言葉を信じて、幼子が親に願うように直接に、祈りが聞かれると信じて、要求する祈りを、もう一度、今日から願い求めていきたい。
お祈りをいたします。

天の父なる神さま。
私ども、倦怠期に陥りやすい信仰者の群れを、あなたのみ子主イエスの教えられたとおりに、幼子のようになって、あなたに向かって疑わずまっすぐに祈り求める者になさせてください。そしてそこから、聖霊を与えられるという無上の体験をして、愛の不足を補っていく者となさせてください。そして、この夏休みの時期を、ありのままで、しかし、み言葉に励まされつつ、精一杯、家庭で、職場で、また日常で出会うすべての人々に対して証ししていく者と成らせてください。キリストのみ名によって祈ります。


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