2016年8月27日土曜日

「共にいます神」(マルコ15:33-41)

マルコ15342016825日(木)鎌倉説教塾セミナーにて


マルコによる福音書第1533-41

 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長が
イエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をした人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムに上って来た婦人たちが大勢いた。

説教「共にいます神」(マルコ1533-41

 私事で恐縮ですけれども、私の母が洗礼を受けまして、地元の教団の礼拝に通うようになり、午後の婦人会の聖書研究会のことであったでしょうか、その牧師さんに、今日の聖書の中に出てきます「わが神、わが神、どうしてあなたは、私をお見捨てになったのですか」という主イエスの十字架上の言葉に接して、疑問に思い質問したそうであります。
 その牧師先生は、この言葉については、これから一緒に考え、深めていきましょうと、受洗したばかりの母を思いやってくださって、そこで続いた10年ほどの礼拝生活を導いてくださったのであります。
 神の子でありながら、主イエスはどうしてこの言葉を御自分の生涯の最後に言われたのでしょうか。この言葉は、直接には詩編22編の最初に出てくるダビデに因む歌の言葉であります。叫び声ではありましたけれども、むしろ、主は祈りつつ、この歌は歌ったのであります。
 そして、最後に大声を上げて、息を引き取ったと、マルコは記しています。それを、見て、その十字架に向かい合っていた百人隊長は、「この人はまことに神の子であった」と言葉を吐いたのであります。この百人隊長が、それまでどのような人生を歩んできたのかは、分かりません。しかし、午前9時に十字架に付けられてから、正午に至ると全地が暗くなり、それが、午後3時に至るまで続き、その最後に主イエスは大声をあげて、最後の息をはいたというのであります。主イエスは、その間どうしておられたのでしょうか。それを、百人隊長はしっかり見届けたのであります。そして、初めて、そこに神を見出したのであります。
 これまでの自分の生き方を根底から変えられる神がおられるという現実を見て、驚き、変えられたのであります。「私は神がいるということは、聞いてはいた。」しかし、この人は、ローマ帝国下の刑を執行する勤めを帯びていましたが、ここに見た、十字架上の人はかつて見たことのないお方であった。私たちの罪のために、神であられた方が人となって、私どもの罪のために、神にすべてをゆだねて、最後まで祈り続けられ、はっきりした意識を持って大声をあげて、父なる神にゆだね、最後の息を吐き出されたのを見たのであります。
 これまでの自分の人生の生き方とは全く違う、罪責のない神の子を見出して、この告白の言葉を、異邦人であったこの役人がしかと目にしたのであります。
 私共の信仰の原点がここにあるといっていいでありましょう。神は、十字架の死という形を取って、その真実を表されたのであります。
 そして、それを遠くから見ていた女性たちがいた。マグダラのマリアやサロメなどであります。12弟子たちは既に逃げてだれもいませんでした。このガリラヤから、主に仕えてきた者たちが、この場面を見ており、そして、そのあと、墓に納められるのも、見届けて、三日後の復活を知らされるのであります。
 私共はもう絶望することはありません。どんなに悲嘆にくれるような出来事にあっても、この十字架上の主の言葉によって、すべての人は、闇ではなく光のうちに歩むことが許されている。そして、世界は変わったのであります。全聖書はこのことを告げているのであります。あなたも、私も、罪から、今日の主の言葉によって解かれて、慰めと共に歩むことができるのです。主イエスの慰めがあなた方と共にありますように。アーメン。














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