2016年8月17日水曜日

「キリストが日常の中に来られる時」(ルカ12:49-53)

ルカによる福音書第1249-53節、2016814日(日)、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書第2323-29節、ヘブライ人への手紙第121-13節、讃美唱82(詩編第821-8節)

 ルカによる福音書第1249節~53

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
 父は子と、子は父と、
 母は娘と、娘は母と、
 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
 対立して分かれる。」


説教「キリストが日常の中に来られる時」(ルカ1249-53

 ある施設に住んでいます女性の信徒の方を月に一度ほど、家内と共に聖餐式の用具を持って訪ねていますが、その人は、デイ・サービスで来られるという、半身不随になっている老人の男性の方が、その不自由な手で、しかしとても達筆に書かれている、その人が書いたという次のような文章を壁に貼ってあるのに私は気づきました。
    
  娘  嫁  姑

うちの娘がよその嫁
よその娘がうちの嫁
三千世界を尋ねても
死水取るのはうちの嫁
たとえ嫁が悪くても
かわいい息子の妻じゃもの
なんで小言が言えようか
おかげでおかげで暮らしましょう
たとえどんなじゃけんな姑でも
主人を育てた親じゃもの
なんで粗末にできようか
あつい情で暮らしましょう

さて、今日の主イエスの語られているみ言葉は、そのような私どもの日常生活の中に、主イエスが来られる時、どのような結果がもたらされるのかを告げておられるお言葉です。
今、私どもはお盆の時を迎えています。家庭の中で、キリストを信じていますときに、どのような変化が起こるのか。
今日のみ言葉は、既に洗礼を受けているキリストの弟子のみならず、主イエスの言葉を聞いている群衆や、今ここに集められていますすべての人に向けても、語りかけられている言葉であります。
主キリストを信じ、受け入れている人が、国民のごく一部である私ども、この日本の国において、そして家族の者が一年に集まりやすいこのお盆の時期に、今日のイエスの言葉は、私どもが今一度耳を傾けるのにふさわしいみ言葉であると思います。
しばらくご一緒に、今日の福音の言葉から聴いていきたいと思います。
ルカ福音書は、エルサレムへ向かう「旅空を歩むイエス」と、あるルカ福音書の概説書には副題が付けられています。
そして今日の個所も、天に上げられる日が近づいて、それを目指し、また、十字架を目指してエルサレムに向けて旅立ちをするルカ福音書第951節以下に入っています。そのしゅイエスに従う弟子たちに向けて、また同じその群衆に向けて、目を覚まして人の子の到来に備えるように、また、メシアが来ているその時の徴を見分けるように、また、その方と知ったならいち早く和解するようにという脈絡の中で、今日の主の言葉は記されています。
主は、こう強く宣言されているのです。
「火を地に向かって投ずるために、私は来た、そして、その火が既に燃え上がっていればと何と私は欲していることか。」
また、「しかし、洗礼を、浸されるべき洗礼を、私は持っている、そして、どんなにか、私はそれが完了される時まで、それに閉じ込められることか」と。
受けるべき、浸けられるべき洗礼とは、苦しみと死を指しています。大水をくぐるとは、旧約聖書でもしばしば出てくる表現です。そのような苦しみに浸させるのは、神のご意志です。それが神によって果たされ、成し遂げられるまで、主イエスはその支配下に置かれると弟子たちに、また、付いて来ている群衆に、告げておられるのであります。
そして、主イエスは、火を投ずるために、私は来たのだと、ご自分の使命を、ここではっきりと宣言しておられます。ここで言われている「火」とは、どういう「火」でしょうか。
火には、いろいろな働きがあります。まず、神の裁きを表すような火です。ロトの住んでいた町、ソドム、ゴモラを襲ったような火です。
また、今日のエレミヤ書にもあったように、精錬し、清める神の言葉、「私の言葉は焼き尽くす火ではないか」といった、あるいは、殻を燃やし、穀物は
倉に入れるという正邪、正しいものと、間違ったものを篩い分ける働きがあります。
あるいはまた、神の霊、聖霊の働きを表す場合があります。ここでは、あとの脈絡からは、裁きの火、ふるい分ける火、あるいはそのためにもたらされる闘争を表す火という意味でしょうか。
主イエスは、それに続けて、「あなた方は、私は、平和を与えるために到来していると思うのか、否、言っておくが、むしろ分裂を、である」と言われます。
なぜ、不和、不統一が、主イエスの現在によって、与えられるのかというと、主イエスを受け入れる人と、拒む人が起こされるからです。たしかに、主イエスの誕生によって、地の上に平和が、と天使たちによって合唱され、主イエスも、罪ある女性にも、あなたの信仰があなたを救った、平安のうちに出て行きなさいと言われます。
しかし、同時に、誕生の時から、「この子は多くの人を倒したり、立ち上がらせたりし、また、反対を受けるしるしとして、定められている」と、シメオンによっても予告されているのです。
そして、主イエスは、ミカ書の預言を引用して語られるのです。
「今から後、ある家に5人いれば、3人は2人に敵対し、2人は3人に敵対する一団として分けられてあるであろう」。
「息子は父に反対し、父も息子に反対する。娘は母に立ち向かい、姑は嫁に立ち向かって、敵対する一団としてわけられてあるだろう」と。男よりも女同士の関係のほうがより難しい関係として、言葉が選ばれています。
最初に取り上げたエピソードにあった一文は、期せずしてそれをよく表していると思います。
親しい家族の絆が、主イエスを受け入れる者と受け入れないものとの間で試されます。しかし、主イエスを受け入れる者たちには、通常の家族関係を超える、新しい主イエスと父なる神を中心として、共同体が生まれる。「私の父母、兄弟とはだれか。父の御心を行う者こそが、私の兄弟姉妹である」と主イエスは言われます。
主イエスによってもたらされる分裂・不和・不統一を通してこそ、真の家族関係、兄弟姉妹ももたらされるのではないでしょうか。
主イエスは、私が来たのは、あなた方が予想するように、平和を与えるためではなく、まず、この地上に、神を神としてあがめるために、衝突が起こり、分裂と不和から生ずる闘争の火が燃やされねばならないと言われます。
そして、そのために、主イエスは神のお定めになった洗礼を受け、苦い杯を飲みほされることになっているのです。そして、その闘いの後に、初めて、真の平和が訪れるのではないでしょうか。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま。
このお盆という家族の絆を確かめ、身内の者と親しく交わりを与えられる時に、イエス・キリストが投じます火によって確かな信仰を今一度見極め、私どもの信仰の中心を見定める時としてください。
そして、死から命へと、全く新しい歩みをここから再び踏み出す時としてください。
キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


0 件のコメント:

コメントを投稿