2016年8月16日火曜日

「剣を打ち直して鋤とする日が来る」(ミカ書第4章1節~5節)

ヨハネによる福音書第159-12節、201687日(日)、平和主日(典礼色―赤―)、ミカ書第41-5節、エフェソの信徒への手紙第213-18節、讃美唱201(イザヤ書第22-5節)

 ミカ書第41節~5

終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。

説教「剣を打ち直して鋤とする日が来る」(ミカ書第41節~5節)

 毎年、私たち、日本福音ルーテル教会では、8月の第一日曜日の礼拝を平和を覚える主の日として、守っています。そして、毎年、毎年、同じ聖書日課、ペリコペーが読まれます。旧約聖書の日課は、ミカ書から、使徒書の日課は、エフェソ書から、福音書はヨハネ福音書から、それに加えて、まだ礼拝の中では朗読されていませんが、2017年の改革500年記念から作られようとしている新しい式文では、読まれることになる讃美唱としては、普通は詩編から選ばれる聖句が多いのですが、今日は、ミカ書の部分と殆ど重なるイザヤ書22節から5節が与えられています。
これは、毎週の主の日にも言えることですが、3年サイクルで読む聖書日課と同じように、毎年、平和の主日によむそれぞれの日課は、毎朝訪れる太陽のように、いくら読んでも新しく、私たちに命を与えるみ言葉であります。
イザヤ書とミカ書と、今日のほぼ同じ記事はどちらがオリジナルなのか、あるいは、それに近いものなのかなどと、今でも盛んに研究されているようです。
しかし、あえて、ミカ書の記事が、この日に読まれるのは、それだけ、私たちを感化し、行動へと促してくれる、深い内容となっているからであります。
今日のミカ書のすぐ前を読みますと、エルサレムの神殿は腐敗し、ユダの町々は不正と堕落がはびこっていたことが記されています。
しかし、今日の部分に入りますと、まったく新しい幻が、預言者ミカに与えられていることが分かります。
日々の終わりに、主の家の山は、堅くすえられ、どのまわりの峰峰よりも、聳え立ち、多くの国々の人が大河のように押し寄せ、流れ来たる。我々は、ヤコブの神の家へと登ろうと国々の多くの民が言うと言い、なぜなら、主の教え、律法と主の言葉は、シオンから出るからだと、彼らは知るのです。

そして、このヤハウェの神は多くの国々の争いをさばき、また、強く遠い国々をも戒めるとあります。これは、聖書の唯一の主なる神が、全世界の民を裁決し、あるいは調停するという意味です。そして、人々は彼らの剣を打ち直して鋤とし、その槍を撃ち変えて摘み取り釜とする。もはや、国は国に向かって剣をあげず、人々はもはや戦闘することを習わない。人はおのおのそのぶどうの木、いちじくの木の下に座って、彼は何ものをも恐れない。そして、これは万軍の主が語ったことであると言い、最後に、すべての国の民はおのおのその自分の神の名によって歩んでいるが、私どもは、主なる神の名において、とこしえからとこしえまで歩むとの強い決意で、今日のこのペリコペーは終わっているのです。終わりの日にとありますが、ルターは、これは、我らの主イエス・キリストの到来によって、実現したと言っています。しかし、私どもはいまだに世界平和、軍備の撤退を目にしていません。世界はますます混沌とし、混迷の一途を辿っているかに見えます。しかし、聖書を通してまことの唯一の神を知り、そのみ神のみ名によって、又主イエス・キリストのみ名によって、とこしえまで歩みます。身近な家庭から、あるいは地域で、私たちの社会の中で、罪と戦い、愛を全うして、生涯の終わりまで主に従いたいものです。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿