2016年8月4日木曜日

「助けはいずかたより 来たるか」(哀歌第3章21節-33節)

説教「助けはいずかたより 来たるか」(哀歌第321-33節)
                    飯田教会牧師 渡辺賢次
 哀歌第321節から33節までが、今日のみ言葉として与えられています。21節は、「再び心を励まし、なお待ち望む」と新共同訳聖書ではつながりの分かりにくい出だしとなっていますが、直訳すると「このことを私の心に向かって思い起こし、私はなお待ち望む」となります。このこととは、前節を受けて、さらに19節からの「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを、決して忘れず、覚えているからこそ、わたしの魂は沈み込んでいても、」となりますが、すぐれた旧約学者の左近淑先生は、この「わたしの魂」というのは、神ご自身を指し、神がそのご自分の魂を沈み込ませるほどに、忘れず、覚えていて下さるから、と理解しておられます。
 「哀歌」という旧約聖書の1巻であるこの書物は、何年か前に、カトリックの作家の曽野綾子さんによって同じ題名の小説が毎日新聞に連載されましたが、そこではアフリカのフツ族とツチ族でしたか、ケニアかどこかの内紛に巻き込まれた日本のシスターを主人公とする物語になっていました。
 哀歌第3章は、哀歌のほかの部分以上に時代背景や、ここの嘆きの歌を歌っている詩人がだれなのかなど、多くの問題を抱えているようです。この記事は直接、紀元前587年のバビロン捕囚の時の出来事を歌ったものではないようです。第3章の始めを見ますと、私は神によって打たれた者であるといった言葉が目に付きます。自分の罪のために、神が敵となって、自分を襲い、苦しめているのだと嘆いています。これは、イスラエルの体験であると同時に、神の前に罪を犯した人間の深い苦悩と嘆き、没落であると共に、それをあざ笑う敵どもへも同じような苦しい目に会わせて下さいとのこの詩人の思いをそのまま、神に訴えるものとなっています。しかし、そのような中で、この詩人は、人は若い時にくびきを担うのは良いことである等と歌い、人は塵の中に口をつけよ、そうすれば、あるいは望みがあるかも知れないからと目覚めていきます。そして、神が私たちに悩みを与え、苦しみを与えても、それは、み心からではないからと歌い、神からこそ助けが来ることを、信じ告白するに至っています。

 神の前に、よりすぐれた方の前に、屈辱と服従の姿勢をとるだけでなく、自分が心から崩れ、心折れていくときに、助けが恵みとしてやって来るのであります。この詩人は、自ら味わった悲痛な体験を通して、やがて来たるべき十字架のメシア、イエス・キリストを既に仰いでいたのではないでしょうか。バビロン捕囚という出来事は、歴史的事実として起こった悲惨な出来事でありました。しかし、そのような不条理とも思える歴史・闇・現実を通して、後に来たるべき我らの主に、この詩人は既に出会っていたのであります。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿