2016年8月30日火曜日

「神にお返しされる生き方」(ルカによる福音書14:7~14)

ルカによる福音書第147-14節、2016828日(日)、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書第922-23節、ヘブライ人への手紙第131-8節、讃美唱112(詩編第1121-10節)

 ルカによる福音書第147節~14

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


説教「神にお返しされる生き方」(ルカによる福音書14714

今日のルカによる福音書の出来事、そして、そこでなさった主イエスのお言葉、それは、「譬え」として言われたとなっていますが、それらも、ルカは、第951節以下に位置づけていますので、エルサレムへの十字架に向かっての旅の途上で起こったことだとしているのであります。
今日の個所の少し前、第14章の1節以下を見ますと、主イエスは安息日にファリサイ派のある議員の家に食事に招かれて、水腫の人を癒したことが記されています。 
どこかのシナゴーグでの礼拝のあとに、一般には敵対関係にもあった、そして、主イエスを十字架へと追い込んでいった勢力の有力な一部であったファリサイ派の家に呼ばれての出来事であります。
十字架に向かっての主イエスの旅である途上のことでありますが、それでも、我々は日常生活を送らなければならない。日々の現実の中でどのように生きていけばいいのかを、主イエスは、御自分の死に向かって歩まれる中でも、弟子たちに、そして、従って行く群衆に対して、あるいは、その時々に出会った人々すべてに向けて、救いを説かれる。
そして、その語られる福音は今もなお、福音書を紐解く、あるいは、礼拝に集うすべての人に向かって、差し出されているのであります。
さて、そのようにして、主イエスと、おそらく12弟子たちは、ファリサイ派の人の食事会に招かれていた。大勢の人が、自分の名誉の席を求めて争っているのを、主イエスはすぐに察知されます。そして、言われるのです。「あなた方が婚宴に招かれたなら、末座に場所を取って就いておくようにと。」私どもも、友人や身内の披露宴に列席することがあります。最近では、そのような華やかな結婚式というものがあまりはやらなくなっているようでありますが、それでも似たような経験は他にも色々と、大なり小なり経験しますし、特に日本人は、そのようなときのふるまいについて敏感だと思います。
そのような時に、もし、あなたが上席にあえて横になり、場所を取っていて、自分を招いてくれた人が、自分よりももっと高貴な人が招かれていたら、あなたのところに来て言うだろう。「友よ、場所を、この人に与えてください、譲ってください」と。すると、あなたは、恥と共に、末席に移ることになる。むしろ、あなたは、そのような場合には、末席に就いていなさい。そうすれば、招いてくれた人が来て、逆に、「友よ、もっと上の席にどうぞ」と言われるだろう。そして、主イエスは、よく繰り返して言われたように、自分をより価値があるとする人は、低くされ、自分を低くする人は、高くされると、同席している人々に、特に弟子たちに諭されたのであります。
また、今度は、自分を呼んでくれたファリサイ派の人に向けても、言われました。あなたが、宴会、レセプションをしようとする場合には、あなたの友人や兄弟、身内、近くの金持ちを呼ばないようにしなさい。彼らは、またお返しに、同じように、あなたに対してお返しとして、支払うことであろうから。
むしろ、そのような席に招くべきなのは、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の不自由な人を選びなさい、そうすれは、彼らは、経済的に、あるいは身体的のお礼の支払いをすることができないから、あなたは、終わりの日に、正しい人たちの起き上がりの日、復活の日に、お返しとして、神によって支払われるから、幸いであると。
主イエスは、私たちが公平無私の姿勢で慈悲を行うことを求めておられます。この方は、このあと、エルサレムで十字架に付けられ、罪なき神の子でありながら、死刑にされて、マルコによる福音書によれば、朝の9時に十字架に付けられ、昼の12時になるとぜんちが暗くなってそれが、午後3時まで続いたとあります。そして、ただ一言、その終わりの時に、「エロイ、エロイ、レマ・サバクタニ」、わが神よ、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と大声をあげて、最後の息を吐き出されたと記されています。
このお方を見届けた、十字架の下にいて、この刑を執行した百人隊長は、この成り行きを見て、「まことにこの人は、神の子だった」とこの主イエスにおいて、神を見出すのであります。この人には罪はなかった、自分のこれまでの罪責ある生き方を180度変えさせ、神がおられると、この死を、否、命をまっとうされた主イエスを見届けた隊長はさとったのであります。私たちもその主イエスを知っております。そして、今日、主イエスが語られたように、神がお返しとして支払われる生き方をするようにと招かれているのであります。アーメン。



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