2025年5月25日日曜日

「弁護者キリスト」(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2025年5月25日)(白)

使徒言行録16章9―15節(新 245)

ヨハネの黙示録21章10、22―22章5節(新478)

ヨハネによる福音書 14章23―29節(新197)


 現在、日本で人格形成の教育問題は、とても難しい時代に突入したと思います。もちろん日本だけの問題ではありませんが、特に日本社会においては生きるということは、自分の為とか、親の為、金の為、世の為、人の為ということでしか語られず、神の為、キリストの為に生きる、と言うと、何かカルトのように思われてしまいます。しかし、神に愛されている私たちは、コリント信徒への手紙10章にあるように、「私の人生は神の栄光を表すためにある」と堂々と言えるよう、そのような時が早くこないものかと思うのです。


 本日の福音書は最後の晩餐の食事の席上でイエス様が語られた長い長いお言葉の一部です。ここでは弟子たちが聖霊なる神について何もわかっていなかった時に、イエス様自らが聖霊について説明しておられるのです。


 この食事はもともと過越の祭りの食事で、種を入れないパンと小羊のローストを苦菜と一緒に食べます。弟子達はおいしいおいしいと食べたはずです。そんな雰囲気の中、イエス様は「私は去っていくが、また戻ってくる」と言われます。


 イエス様は、ご自分が十字架に掛かって死に、再び会うことはできないと思ったとしても「あなた方を孤児にはしない」とおっしゃいます。そして、さらには「あなたたちに弁護者を送る」と言われます。この「弁護者」とは「後見人」という意味もあり「助け主」とも取れる言葉です。


 ご自分が全ての役目を終えて天に帰られたあと、そのような存在を送ってくださる、だからあなたたちはひとりぼっちにはならない、と約束してくださるのです。本日はこの約束について見て参りましょう。


 イエス様はこれまで、貧しき者や、弱きもの、見捨てられた者に寄り添い、奇跡を行い、命を与える様々なことをされてきました。そしてそれが神様の御心なのだと言うこともきちんとお話しされてきました。


 イエス様はご自分が本当に力を奮ったなら、世界に良い影響を与えられることは当然お分かりでした。しかし世の中の人々は、カリスマ性のある人を尊敬しますが、その力を利用しようとする人も出てきます。イエス様はご自分が有名になるにつれてそれを利用しようとする人々が出てくるのをわかっておられましたから、その前に、語るべきことを全て語り、十字架にかかり、神様の究極の愛を伝えられました。それこそがイエス様が地上に来られた目的だったからです。


 昔から創業者がキリスト教信仰に基づく高い理想と共に始めた教育事業や社会福祉事業は数多くあります。しかし創業者の理念がどれほど熱い信仰によるものでも、それを何代にもわたって維持することは現実的にはできません。


 誠実に社会のニードを満たそうとすればするだけ、人手不足や資金不足に陥り、「キリストの心を持って働こう」とは言えても、競争社会の中で日曜礼拝すらままならないことも多くなります。


 個人で信仰を保って生き、同僚に良い影響を与える人もいますが、本気で苦しんでいる人に寄り添おうとすると、「なぜ、そんな無駄なことをするのか」「それは自分達の仕事だろうか?」「そこまでやるなんてあなたは馬鹿なのか?」などと否定されることもしばしばです。


 結局のところ、キリスト者というのは、信仰に基づいて善意で必死に働きながらも、ずる賢い人々に良いように利用され、気がつけば梯子を外されるという嫌がらせを何度となく受けてきた、そんな経験を持つ人々でもあるのです。


 キリスト者が今の時代において貧乏くじを引きやすい集団であることを理解しないまま、キリスト教への漠然とした憧れだけで信仰に入ってしまうと、自分に不利益なことが起こったり、頑張ってやってきたことを評価されなかったりすると、一気にやる気をなくして教会から離れてしまうこともあるのです。


 イエス様はそう言ったことが起こりうることを全てご存知です。だからこそ「みなしご、つまり孤独にしない」とまで言われるのです。信仰者が孤独に追い込まれることがあると知っておられるからなのです。しかし私たちの孤独は、神から役割を与えられ、神様の思いをこの世で実現しようとする時必ず経験する者です。だからこそ、働き人を決して軽んじることなく「弁護者を送る」、「後見人を送る」そして「助け主」を送る、と約束してくださるのです。


 この助け主はイエス様を信じる人々が信仰や希望、理想や愛を手放さないよう、いつも見守ってくださいます。そして仮に失敗して挫折を味わっても、天の御国に召された時には、神様の御前に共に立って「この者は私の言葉に従おうと必死でやったのです」と弁護してくださるのです。私たちはそのような心強い味方をすでに得ているのです。


 私が飯田に着任した時、聖壇左の物置の奥にギリシャ語で「カリス」と記されたステンドグラスを見つけました。カリスという言葉には恩恵や恵み、聖餐式の杯という意味がありますが、確か食卓という意味もあったかも、と呟きますと、誰かが「もう飯田教会には台所が無くなったのですよ」と言われました。


 飯田教会は幼稚園が生き残るために大きな犠牲を払い、食卓を囲んでの食事や、ゆっくり聖書を味わい学ぶ静寂の空間が失われてしまったのだと直感しました。けれども今、幼稚園は大きく盛り返そうとしていますし、私たちも今一度信仰者として自由に用いることのできる礼拝堂を取り戻すことができました。


 私たちはこれからも幼稚園と共に歩んで参ります。ほぼ未信者の先生ばかりの中、幼稚園がこの世の社会事業に引っ張られ、形だけのキリスト教主義に陥らないよう守っていかなければなりません。幼稚園が信仰的な業が展開できるように、私たちの群れは愛餐と信仰の分かち合いを大切にし、落ち着いて、迎え入れて、喜びの日々を送れますように、新たな歩みを始めてまいりましょう。


礼拝堂の内装の工事が終わり、行政の検査に合格すれば、5月30日には引き渡しになります。順調にいけば6月1日の礼拝は改修工事の終わった礼拝堂に戻って礼拝ができます。

集会室リリーで礼拝を始めてからちょうど1年です。

資材の値上がりの影響を受け、予算不足で変更になったところもいくつもありましたが、足りないところを数えるのではなく、神様から与えられた場所として、これからも大切に用いて参りましょう。


新しくできた教会専用の玄関です
三角屋根の下にルターの紋章の
看板を取り付けるはずでしたが
予算不足で今はつけられません
じっくりやりたいと思います


ルターの紋章とはこんな感じ
寄贈されたステンドグラスを
どこにつけようかと迷ったのですが
既存の建物に穴を開けるわけにいかず
新設の壁に嵌め込みました
変則的ですが、光が透けて綺麗です
今は壁紙が貼られてもっと綺麗に見えるはず

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