2025年6月1日日曜日

「主イエスの祈り」(日曜日のお話の要約)  

復活節第7主日礼拝(2025年6月1日)(白)

使徒言行録16章16―34節(新 245)

ヨハネの黙示録22章12―14、16―17、20―21節(新479)

ヨハネによる福音書 17章20―26節(新203)


 「ただいま」「おかえりなさい」思わずそんな言葉が出そうになります。この1年、私たちは集会室リリーで礼拝を守ってきましたが、この期間、嬉しいことも悲しいこともありました。ここにおられるお一人お一人にもさまざまな出来事があったことと思います。みなさま本当にお疲れ様でした。


 私の着任前から、この礼拝堂の耐震については問題視されていたと聞きます。なんとかしなければ、と言う話が出てから、もしかしたら10年以上の歳月が流れたかも知れません。その間に日本各地で大きな地震が起こり、耐震基準はどんどん引き上げられました。


 それでもやっとのことで工事に漕ぎ着けると、今度は世界情勢不安が始まり、建築物資や人件費はその影響で上がりに上がり、3倍、4倍と、今では10倍とも言われています。


 そういう中ではありましたが、幼稚園も教会ても、なんとか建物の工事は終わりました。後は外回りで、スロープを整えたりフェンスを必要に応じて設置してついに出来上がりです。花壇なども少しずつ元のように整えていきたいと思います。


 建築員会で守り通したことは「祈り」ることでした。先が見えないからこそ祈り、解決方法が分からないこそ祈る。祈ることで道が開れ導かれていくと言う経験をすることができました。それは神様に招かれ、神様のものとなった人々が得られる特権です。


 1ヨハネの手紙5章14節には「何事でも神のみこころに敵うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これは神に対する私たちの確信です」と記されています。言い換えるなら、イエス様のお名前によって祈る祈りは全て神様が耳を傾けて聞いてくださっていて神様のお考えと一致した祈りならば必ず実現する、と言うことです。


 イエス様は私たちの心を整え、祈りが自己中心的なものにならないよう導いてくださいますから、ギクシャクした時も互いに祈りあい、困難な時も祈り続けることの積み重ねによって信仰そのものも養われていきます。主イエスの名によって、祈ることは、神様から命を与えられているものにとって大切なのです。


 本日、読みました福音書は、ヨハネによる福音書のクライマックスと言える箇所です。イエス様が最後の晩餐の席上で長い長いお話をされた後、締めくくりとして弟子たちのために父なる神様に祈られます。その祈りのお言葉の最後の部分です。


 イエス様が十字架の死を目の前にして、何を祈られたのか深く知ることは大切です。イエス様が、なぜ、どうしてこのように祈られたのかわかった時、イエス様がどれほど私たちのことを思っていてくださるか理解するのです。そして私たちと共にいてくださることが分かるのです。


 福音記者ヨハネの表現は難しく感じるかもしれませんが、よく読みますとこの祈りの中でイエス様は、どこまでも私たちのことを思いやってくださり、ついには「実はあなたがたは神の子だったんですよ」という種明かしが込められています。


 「神の子になる」というと何か怪しげな宗教のように感じる人もいるでしょうし、滝に打たれたり飲まず食わずで厳しい修行をしたり、訓練を重ねた末にようやく何かが見えてくる、悟りのようなものと思う方もいます。


 キリスト教でも確かに中世の修道院などでは信仰の徳を高める為に、苦しむことが信仰であるかのように教えていました。しかし、聖書からイエス様のお言葉を素直に受け取る時、「神の子」はそう言う存在では無いのだとわかってきます。


 人間は神様に愛されて生まれてきますが、この世に誕生したとたん闇や悪魔の力に引っ張られて自分を見失ってしまうことをイエス様は知っておられました。人間は生まれながらに悪い方へと引っ張られやすい、弱くて悲しい性質を持っているのです。そんな人間を救い、再び神様の方に向き直らせるため、イエス様はこの世に来られた、ということをこの祈りの中で明らかにされたのです。


 しかし最後の晩餐の時に至っても、弟子達は自分達の弱さにはまだ気づいていません。何があってもイエス様に従ってきた自分達を立派な弟子だと自負し、自分達には何かそれなりの能力があるから神様に選ばれたのだ、という思いを捨ててはいなかったのです。


 この段階での彼らの信仰は脆いものでした。彼らは自分達一人一人が神様に愛されていることをまだ実感していません。ですからこの後イエス様に危機が迫り、十字架にかけられたなら、見捨てられたと思い込み、三日後の復活を信じることができなくてすっかり心が折れてしまうのです。そのことをイエス様は知っておられました。だからこそイエス様は、明日には十字架にかかるという困難の中にあってもご自分のことなど顧みず、ただひたすらこの世に生きている「神の子たち」を思い命をかけられたのです。


 この世では、ただの理想と鼻で笑われるかもしれなくても、人と平和に過ごすこと、何事も分かち合うこと、信頼し、愛すること、これが神の御心として、神を証することとして、神様は、イエス様を礼拝する場所、中心とする場所として、キリストの教会を与え、弟子たちに託されたのです。


 教会は宣教の場所、伝道の場所ですが、まずなによりも、私達自身が養われる場所として用いられなければなりません。平日は空いているスペースだからと商業活用ばかりを考えて、結局牧師一人に任せたまま信者が自由に使えなくなる教会もありますが、そんな無責任なことは、これからはしてはなりませんし、園の遊戯室として用いられることはもうありません。その代わり、私達が失っていた台所や、牧師室、教会学校にしても、専用の物置が完備されて、それらをこころおきなく使いこなすことがこれからの私たちの使命であり、主イエスの御心、主イエスの祈りでもあるのです。



待ちに待った会堂のリノベーションが終わりました

スロープや駐車場などの整備は

6月10日ごろ終了となる予定で、まだ凸凹していますが

内部は綺麗になり、本日から早速礼拝です


集会室リリーからとりあえず必要なものを運び込み準備をしました

とはいえ、片付けはまだまだこれから

会堂の中はなんとも雑然としていますが、焦っても仕方ありません

みんなで整えていきたいと思います


いただいたものの飾る場所がなくて
お蔵入りになっていたステンドグラス
ギリシア語で「カリス」と読み、「神の恵み」という意味です
台所の壁に嵌め込みました




経年劣化が激しかった壁紙と天井
きれいに張り替えてもらいました
床は古いままですが
それも味ということで(^^;)

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