2025年6月29日日曜日

「キリスト者の自由」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2025年6月29日)(緑)

列王記上19章15―16節、19―21(旧566)

ガラテヤの信徒への手紙5章1節、13ー25節(新349)

ルカによる福音書9章51―62節(新124)


 本日のお話のタイトルは「キリスト者の自由」といたしました。これはガラテヤ書5章の小見出しで、マルティン・ルターの著書としても有名です。「信仰によってのみ人は救われ、神の前に義とされる」という考え方です。ルターがこの結論を導き出したのはガラテヤ書の学びを通してですが、本日はルターの思いを心に留めつつ、ルカ福音書からイエス様のなさったことをご一緒に聞いてまいりましょう。


 本日の福音書は「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、」という書き出しです。これは十字架にかかる日が近づいてきた、という意味でもあります。苦難が待っているエルサレム目指して、イエス様は固い決意と共に出発されたのです。


 しかし、そんなイエス様を失望させるような出来事が立て続けに起こります。まず一つ目はサマリア人たちの態度でした。


 この頃、イエス様はユダヤ人の間で有名になっており、イエス様を熱狂的に支持する人もいれば、イエス様の働きを妨害しようとする祭司長やファリサイ人たちのような人々もいました。そこでイエス様一行は混乱を避けるために、多くのユダヤ人が利用する街道を避けて、サマリアを経由しようと計画し、泊まる場所を確保するために 使いの者を送られました。おそらく今までに交流のあったサマリア人の住む村に宿泊されるおつもりだったのでしょう。しかしこの村人はイエス様を拒んだのです。


 ヨハネ福音書と読み比べてみますと、この時エルサレムでは祭りが行われていたようです。サマリア人たちはイエス様がエルサレム神殿を目指しているので、自分達の信仰するゲリジム山が無視されたように感じて反発し、お世話することを拒んだのかもしれません。仕方なく一行は別の村に宿泊することにしました。


 しかし弟子のヤコブとヨハネはイエス様に「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」と提案します。自分達にそんな力はありませんが、非常に腹が立ったので、イエス様にやっつけてもらおう、と子どもじみた復讐心を燃やしたのです。イエス様は弟子たちの態度や考え方を悲しみ、強く戒められたのです。


 イエス様は武力によって人を従わせるようなことは一切望まず、神様の教えに従うことで隣人の良いところを引き出し、信仰を育てる心得を弟子たちに教えられました。仮にその先に待っているのが殉教であっても、それこそが御心に従うことであると教えられたのです。


 そんなイエス様を次に失望させたのは「覚悟の足りない人が弟子入りを志願する」という出来事でした。12名弟子と呼ばれる人々は、苦労を重ねながらも、イエス様を尊敬する先生と仰ぎ、共に旅をしてきました。一番弟子のペトロが「私たちは何もかも捨ててイエス様に従って参りました」と豪語しています。これはこの時点での弟子たちの偽らざる思いだったのでしょう。


 イエス様は、弟子たちにも人間的な弱さがあることを知った上で丸ごと受け入れ、愛を注いで教え導いてきました。堅い絆で結ばれていた彼らの前に、新たな弟子志願者が現れるのです。


 一人目は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いますが、イエス様には、この人が中途半端に見え、断りの言葉を語られます。そして別の人に「私に従いなさい」と語りかけます。


 するとこの人は「まず父を葬りに行かせてください」と答えます。イエス様はこれが単なる言い訳だと見抜かれました。そこで「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言葉をかけられます。「死んでいる者」とは「霊的な意味で死んでいる人」という意味で、あなたの本当の父は天におられる神様なのに、そのお方を優先させない人生は死んでいるのも同然だ、と言われたのでしょう。


 3人目の人物は、イエス様に声をかけられると「主よ、あなたに従います」と言いつつ、「まず家族にいとまごいに行かせてください」と答えます。イエス様はこの答えにも失望なさいました。


 イエス様はこの人も中途半端であると見抜き、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われます。どんな理由があろうとも、やりかけたことを早々に放り出す人は弟子にふさわしくない、そう言われたのです。


 この福音書の箇所では、サマリヤの人々を含めて、多くの人たちが「神の国にふさわしくない」と言われています。もし私たちが「ただの人」としてこの箇所を読むなら、イエス様とはずいぶん厳しいと感じるかもしれません。弟子志願者を自分のもとに縛り付け、自由を奪い、好き勝手な方向に行くことを許さない。「なんと傲慢な先生なのだろう」と思うかもしれません。


 しかしイエス様は全てを見通される神の御子です。そしてご自分の力の全てをご自分の元に来る人々に向け、命を捨てても良いほどに愛される方です。イエス様が「そちらへ行ってはいけない」と言われる方向は、人生を堕落させる方向です。「やってはいけない」ということは、人としての破滅の道です。


 ですから、もし私たちが「気が向いた時だけイエス様に従います」とか「クリスチャンと言っても、無理だと思うことは最初からしません」などと自分の都合ばかりを優先させるならば、大きく道を踏み外してしまうことになるのです。


 イエス様は私たちの自由を奪い取るように見えて、実は強い愛の力で守り、導き、真の自由をくださるのです。御言葉を通してイエス様の思いを学び続けるなら、イエス様の導いてくださる方向と、自分の心が喜ぶ方向は一致していきます。そして2度と「不自由に縛り付けられている」などとは感じなくなるのです。


 私たちはイエス様に導かれ、キリスト者として、イエス様の弟子として、ガラテヤ書の記す「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を一生涯かけて身につけていきます。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」にはならず、イエス様から与えられる自由と喜びを感じつつ、共に歩んでまいりましょう。



7月の土曜学校は12日に行います。

本来なら第3週、19日に実施するのですが、この日が幼稚園のお泊まり保育の二日目にあたっており、牧師の手が塞がっているので、一週繰り上げた次第です。

工作はフィギュアの金魚をガラス瓶に閉じ込めて、涼しそうな「瓶詰め(?)」を作ります。

やぶれにくいポイを購入して、金魚掬いをやってもいいかなと思っています

いつもに比べて準備時間が少ないのですが、子どもたちが楽しく安全に集えるよう手は抜けません(^^;)







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