2020年6月29日月曜日

受け入れる人の幸い(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第4主日礼拝(2020年6月28日)
エレミヤ28:5-9   ローマ6:12-23 マタイ福音書10:40-42

 本日の聖書箇所は、受け入れるがテーマです。先ほどお読みしましたように「あなた方を受け入れる人は、私を受け入れる」と書いてあります。この意味は「イエス様の弟子、すなわちクリスチャンを受け入れた人は、イエス様を受け入れたのと同じです」という意味です。そしてまた「そういう人は神様から受け入れられていて、ふさわしい報いがある」とも書かれています。

 月曜日の午前中、この場所で幼稚園の合同礼拝を行なっています。イエス様や神様の話をじっと聞くことは4歳、5歳の子どもにとって楽なことではないでしょう。それでも月曜日の朝は、こども達と共にここで神様を礼拝しています。こうして何十年も続けてこられたのは、神様ご自身が子供たちを受け入れておられ、幼子が少々礼拝から脱線する様子すらも楽しみにしておられるからなのだ、と感じられてなりません。
 今、幼稚園に集う幼子たちの中にクリスチャンはほとんどいませんが、クリスチャンである私の話を聞き、神様の御言葉を受け入れているので、イエス様を受け入れているのと同じだ、という事になります。そしてそのような子どもたちは心の成長という恵みを受けているのかもしれません。

 ところで、本日お話ししている「受け入れる」というのは、クリスチャンでない人がクリスチャンを受け入れる、ということとクリスチャンが神様からの使命を受け入れる、という二つのことが含まれています。神様がひとたび誰かをお選びになったなら、こちらが根負けして神様の存在に向き合い、「私はお前を愛しているよ」というメッセージを受け取るまで呼びかけ続けてくださいます。
 そして受け取ったら、あなたが次に何をすれば良いのか、行動に移せるまで、神様は御心を送り続けるのです。それが厳しいご命令であっても受け取ってそのようにする。それがこの「受け入れる」という言葉の中に含まれているのです。

 神様から受け取った使命を果たすために、誰もが嫌がる苦しい道を歩んだ人々はキリスト教の歴史の中に無数にいます。「神様は愛です」「イエス様を信じましょう」この言葉を伝えるようとするだけで、多くの人が拒否反応を示すのです。
 そこで、直球を投げ込むのはやめて、少しソフトに「キリスト教主義」と名乗って「キリスト教精神ではこう言うことをしていますよ」と様々な社会問題に取り組み、この世において困っている人、助けを必要としている人のお手伝いをしたい、守っていきたいと、その手を差し伸べます。
 しかし、ここで気をつけないといけないのですが最初はキリスト教信仰から始まったことであっても、「キリスト教主義」と言う形だけが残って、そこで働く人々は日曜の礼拝など見向きもしない、と言うことが日本にはよくあります。
 ただ、だからと言って絶望するには及ばないでしょう。神様のご計画は壮大です。神ご自身がこの地に来られ、イエスと名のり、弟子たちを集められ、その働きを託されて、今日に至っており、その働きを今、私たちが飯田の地で受け継いでいるのです。この働きはこの世界が終わる時まで続きます。私たちはその途上にいるに過ぎず、神様が次に何を計画しておられるか知ることはできません。
 ですから、今日神の愛を否定し、日曜礼拝を鼻で笑った人が明日救われるかもしれない、ともにイエス様の御名によって働く、力強い仲間となるかもしれないのです。

 私たちは自分に与えられた時間の中で生きることしかできなくても、神様の国は完成に向かって前進しています。私たちは、今、そのただ中にいます。私たちが、こうして、離れずに、共に礼拝する仲間を思い、また、この世界が救われるために、キリストの名において、祈る人を滅ぼすことはありません。私たちには、イエス様によって、頂いた愛の心があります。この心を守るため、変わらないイエス・キリストの言葉を受け入れ続け、その魂を養い、神様の宮である、この場所に、礼拝に集まることを、人生の喜びとして、日々重ねて参りましょう。
 今日、私たちの働きに冷たい水一杯でも差し出してくれる人が、明日神様の招きを受け入れ、共にに神様の恵みに預かって生きると言う希望を持って歩んでいきましょう。





牧師館の物干し台から
(素朴な空間なのでベランダというには
ちょっと抵抗あり😅)
そこで育てている花とそこからの風景
本日は梅雨の晴れ間です
明日はまた雨の予報
隣の空き地でカエルが鳴いています
近くに田んぼも川もないのに
どこからやって来たんでしょう?

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