2020年6月15日月曜日

世人の救い(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第2主日礼拝(2020年6月14日)
出エジプト19:2-8a   ローマ5:1-8  マタイ福音書9:35-38

 本日の福音書「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」
 この箇所はマタイによる福音書の4章23節の「町や村を」のところを「ガリラヤ中を」に変えただけで、あとは同じです。4章の方では、イエス様がガリラヤ中を回ってありとあらゆる病気や患いを癒されたので、周辺地方から集まった人々は、イエス様に従った、つまりイエス様を信じた、とあります。
 イエス様はご自分に付いて来る人々を地の塩、世の光にたとえ、あなた方には価値があると教えられました。また、律法についても解き明かし、祈り方に至るまでしっかりと教えられました。

 その後、イエス様は再び様々な病人と出会って、次々といやしの業を行われます。その後で、9章で又同じような書き出しで、物語が再スタートする、という構造になっているのです。

 神様を信じるという単純な心を与えるだけなら、難しいことは何も教えず、いやしの業を続けられても良かったのかもしれません。しかし、イエス様の本来の目的は神様の愛を伝えることです。
 イエス様の願いは自分は神様のものなのだ、神様に愛されているのだ、ということをしっかりと捉えてもらうことですが、人々がそれをしないので、いつまでも苦しみと迷いの中にある。その様子は「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれている」ように見えたのです。イエス様はそんな彼らを可哀想に思わずにはいられませんでした。
 そこでイエス様は、真正面から明確に神の愛を証明する必要がありました。誰からも見捨てられた状況にあっても、絶望と敗北にしか見えない十字架の死に至るまで従順で、最後の最後まで父なる神を信じ続ける姿勢を貫かれ、神のご計画を信じて息を引き取られたのです。

 残念なことにこの様子を見ていた人々は、この時点ではまだなにも理解できませんでした。あれほどイエス様を慕ってた弟子たちはその多くが恐れをなして逃げてしまいました。
 人間は自分が一番可愛い。だから神の子を見捨て、罵り、それまでの関係などなかったことにしてでも自分の身を守りたい。しかしイエス様はそのような人間の弱さ、身勝手な罪を引き受けられました。彼らが罪深ければ罪深いほど、その心の中の苦しみや自己嫌悪は強く深いのだということを理解してくださっていました。
 そして、だからこそ、神様に愛されることを知り、救われて、神に従って生きなければならない。そして地上の命が尽きたのちは神の国、天国に迎え入れられることを知ってほしいと願われたのです。イエス様は最初から最後まで決してブレることはなかったのです。
 
 一方私たちはこの世で神様の業をなしていく時、つまり「世人の救い」のために働く時、自分や仲間の足りないところをあげたり、状況の悪さを理由にして、言い争い、やる気を失ってしまうことがあります。早い話がブレまくりです。
 しかしイエス様は最初から私たちに完璧を求めてはおられません。私たちもまた「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれた」状態を哀れまれ、招かれたのであり、人より優れているから招かれたのではないことを謙虚にわきまえなくてはなりません。

 イエス様は弟子たちに「収穫は多いが働き手が少ない」と言われました。収穫とはもちろん神様の愛を知って救われる人々のことです。もし私たちが互いに心の中で批判し続けるなら、十分に働くことはできません。収穫は少なく見えます。
 洗礼者が与えられない、二世が繋がらない、そんなことばかりが見えてしまうのです。しかしイエス様ははっきりと「収穫は多い」とおっしゃいました。そして「祈りなさい」と言われました。

 私たち一人一人が自分自身の欠けたところを神様に補っていただき、また互いに補い合い助け合えるよう祈り求め、御声に従うならば、伝道を担う働き人として少しずつ成長していきます。そして「世人を救う」ために自分が何をすれば良いかわかるようになります。喜びをもって働き、多くの収穫を上げることができるようになるのです。


梅雨の晴れ間の夕方
牧師館から見える山々は
息をのむほど美しいです
写真に撮ると電線が邪魔ですが(^^;)


赤石山脈というのだそうです
あれ、違ったかな?
少しずつでも山の名前を覚えていかなければ
勿体無いですね

0 件のコメント:

コメントを投稿