2020年6月22日月曜日

殉教しても伝えること(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2020年6月21日)
エレミヤ20:7-13   ローマ6:1b-11 マタイ福音書10:24-39

 私たちはつねごろ大自然の美しさに心惹かれますが、時には自然の驚異を目の当たりにして愕然とするときもあります。また、人間同士が仲良くしていくことは素晴らしい、戦争はいけない、死刑は反対と主張している人が、自分の大切な人が誰かに殺されてしまった時、同じことが言えるかというと、ものすごく難しい問いかけになってしまいます。

 世界には理想だけではどうにもならない悲しさや不条理が数え切れないくらいあります。そのような中で、キリスト教は長い歴史の中で「人はどうやって神を信じていけば良いのか」というテーマに真剣に取り組んできますた。時には教会そのものが堕落して、とんでもなく回り道をしますが、不器用なりに、現在に至るまで真剣に取り組んでいます。なぜ教会が歴史の中から消えなかったのかといえば、やはりイエス・キリストの存在とその教えが人を惹きつけ続けるから、ということに尽きるでしょう。

 かつて人間は神様がどこか遠い空の上から人間を見下ろしている、近寄りがたい存在、というイメージを持っていました。それを180度覆したのがイエス様だったのです。
 イエス様は数々の奇跡も行われましたが、それ以前に平凡な人間の生きざまの中にグイグイ入ってこられ、自分はダメだと思い込んでいる人々の心に寄り添い、新しく生き直せるように導かれました。
 イエス様の教えは、究極に言えば「神の愛」というところにつきます。神の愛は全ての人に平しく注がれていて、誰かが特別に神様に愛されているように思えても、この世に存在する命、全ての命は神様にとって平等な愛の対象なのだと教えられのです。

 この教えをイエス様が2000年前に語り始められた時、誰もがパッと受け入れたわけではありません。何と言っても、そこには権力者の都合というものがありました。権威によって他人を支配しようとする者たちにとって、誰でも平等に神様に愛されている、どの命も大切だ、という教えは都合が悪く、排除すべきものだったのです。
 何しろ2000前の出来事です。戦争によって占領された国の民が「私たちの命もきちんと尊重される権利がある」と言い出したら収拾がつかないと権力者たちは思ったはずです。
 しかしイエス様は、強引に権利を求めるようお教えになったわけではありません。力づくで自由や愛を獲得しようとしたら、それは自分を苦しめている権力者のやることとなんら変わらない、と言われるのです。声高に権利を主張するのではなく、どんなに虐げられても苦しめられても、「神の愛は平等に注がれている」という教えを信じ、どのような時にもひたすら伝えていくことを、ご自分の弟子たちには「敵をも愛せよ」とまでお命じになったのです。

 イエス様からその教えを告げ広めていく使命を与えられた弟子たちは、武器を持って戦うよりも大変な人生を歩むことになりました。誰もが神様の前に平等だ、と思おうとしても、憎い相手、嫌いな相手、自分を迫害してくる相手に神様の愛が注がれていると信じ、教えを伝えるのは非常に困難です。壁にぶつかるたびに自分がどれほど心の狭い人間か思い知ることになってしまうのです。
 それでも彼らは必死になって耐えながら、がむしゃらに宣教していきました。そもそも違う神様を信じている人ばかりです。その上、言葉も肌の色も価値観も違う相手です。しかし、弟子たちはそのような人々の中にも、神様の救いを求める心があることを見出し、時には激しく、時には穏やかに、イエス様から託された教えを伝えていったのです。
 その過程で、無理解な権力者によって弟子の多くが命を落としました。殉教です。しかしそれでも教えは次の世代へと確実に伝わり、世界に広がっていったのです。

 だからと言って、あなたも世界中に出て行って死に物狂いで伝道し、殉教しなさい、というつもりは全くありません。殉教は目標ではなく、そうならざるを得なかった、という結果です。私たちが神様の愛を伝えた結果として何が待っているのか誰にもわかりません。
 しかし確実に言えることは、神様からいただいた使命を貫く時、何者にも代えがたい魂の平安が得られるのです。だからこそ数え切れないほど多くのクリスチャンが、自分の置かれた場、導かれた場で、今日も福音を伝え続けているのです。



密を避けつつ
礼拝堂とSkypeで
共に礼拝



でも少しお楽しみもなくては、と
礼拝の後で一曲だけ「父の日特別演奏」😁
全てのお父さんに感謝を込めて
(もちろん父なる神様にも感謝)
即席バンドで「男はつらいよ」
Skypeで何度も見て
楽しんでくださった方もおられたとか
ありがとうございます

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