飯田市内で新型コロナ陽性者が数名出たため
ようこそ!飯田ルーテル教会は、プロテスタント・キリスト教会「日本福音ルーテル教会」に属する教会です。飯田で教会と幼稚園を運営して、皆様のために奉仕しています。ルーテル教会は世界中に広がる安心できる伝統的教会です。
2020年12月29日火曜日
新年礼拝中止のお知らせ
飯田市内で新型コロナ陽性者が数名出たため
2020年12月28日月曜日
シメオンの賛歌(日曜日のお話の要約)
降誕節第一主日礼拝(2020年12月27日)
イザヤ書61章10-11節 ガラテヤ4章7節 ルカ福音書2章25-33節
ルカによる福音書は、イスラエルはローマ帝国の圧政によりどんどん追い詰められ、最後にはローマとの戦いに敗れて神殿が崩壊した頃書かれたと言われています。著者ルカは、そのような厳しい時代の中でイエス様を育てることになったヨセフとマリアの貧しくとも信仰を大切にする姿を描きました。
夫婦が神殿に持ってきた捧げ物の鳩は、初子誕生の感謝の捧げ物としては一番ランクの低いものだったのです。これは夫婦の貧しさと神様への忠誠を表すエピソードなのでしょう。
そんなイエス様一家と神殿で出会ったシメオンは、ユダヤ教の神殿に集い、日毎神様に祈りを捧げる人でした。伝統的な解釈では高齢者であったとされています。経済的に裕福であったかどうかはわかりませんが、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼の上にとどまっていた。」と書かれています。また「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なないというお告げを聖霊から受けていた」のです。
シメオンについて書かれている「イスラエルが慰められるのを待ち望み」という言葉には重い意味がありました。こイスラエルというのは交通の要所にあり、古代から何度も侵略を受けました。また同じ土地を争って多民族との諍いが絶えず、北と南に国が分裂し、同じ民族同士の争いもありました。イスラエルはどれほど平安を望んでいたでしょう。
大抵の人間の心には理想郷的な平和な世界のイメージがあります。現代の心ある人々は人種や国境、貧富や差別もない世界を望むでしょう。しかし中には、自分の国が繁栄すればそれで良いと考える人がいるのも事実です。こうあれば世界はきっと素晴らしい、という理想への思いは一人一人が異なっているのです。ですからその主張がぶつかりあえば、素晴らしいものを目指しているにも関わらず、いつまでたっても世界は平和にならないのです。
神殿で長い間祈りを捧げてきたシメオンは、様々な人の考えに接し、様々な思惑を耳にし、様々な試練に遭いながら生きてきたのでしょう。だからこそ、神様がこの世界に直接介入してくださり、全てを平定してくださる時「イスラエルが慰められる」という約束に望みを置いたのです。
シメオンは2000年前のイスラエル人ですから、これまで彼の考えてきた祖国の慰めとは、自国のことだけに限定されていました。しかしイエス様に出会った時、シメオンはそれまでの自分の思いをはるかに超えた、素晴らしい未来を垣間見たのです。彼は言います。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光です」
神様の与えてくださる救いは、この幼子によってイスラエルの枠を超えてすべての民族に広がっていくのだ、とシメオンは知ったのです。そして同時に、そのためにこの幼子が通らなければならない苦しみをも理解しました。ですから、シメオンがマリアに告げた言葉は厳しい言葉でした。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
この子は約束された神の子だが、人は称賛するばかりでなく、それを信じず敵対する人々が必ず出てくる。神様から与えられた使命は重く、多くの苦しみを伴う。それを見守らなければならないあなたの心は剣で刺し貫かれるほどに激しく痛むだろう。シメオンはそう告げたのです。
数ヶ月前、天使ガブリエルが彼女の前に突然現れ、受胎告知を行いました。天使は「その子は偉大な人となり、いと高き方の子と呼ばれる」と宣言しました。マリアは必死の思いでそれを受け止めました。ところが、出産の時には飼い葉桶をベビーベットにする有様でした。
そして今またこの厳しい宣言です。生まれた時から大変な思いをした息子が、大人になっても苦しみに遭遇することを預言されるのです。「はいそうですか」と受け入れられるようなことではなかったでしょう。
しかし、シメオンは、母親として想像を絶する苦しみを味わうけれど、そこには神様から与えられた深い意味があるのだと伝えたかったのです。
昨今の伝統的な宗教は、苦しみや苦難について言わなさ過ぎたかもしれません。信じたら幸せになれる、というところばかりを強調しすぎて、いざ苦しみの中に置かれると乗り切る力がなく、信仰なんか何の意味もない、と思わせてしまうのかもしれません。今こうして世の中全体が、出口の見えない苦しみの中にある時、聖書は一貫して、苦難から救い出す神を描いています。世界には苦しみがある、しかしこの苦難の先に神様の愛がある、と伝えるのです。
本日のシメオンが「安らかにさらせてくださいます」と歌い上げることができたのは、世の中がパッと変化したからではありません。自分を取り巻く現実は何も変わっていないけれど、待ち望んできた救い主が生まれ、その方を我が腕に抱けたことに心から満足したのです。この方こそ、人々とありとあらゆる苦難を共にしつつ、救いに導く方であることを知り、未来に訪れる神の国を垣間見ることができたのです。
どれほど困難な状況であろうとも、私たちはキリストに繋がっていることで超えていけると確信し、新しく迎える一年も、やはりワンチームとなって、喜びと感謝を捧げつつ、日々の歩みを続けて参りましょう。
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会堂と通りの間の細長いスペースに 昨年から花を植えています 今はビオラとクリスマスローズですが 花盛りになるまで寂しいので ブリキの蛙が道ゆく人にご挨拶 年末年始は雪の予報 この傘で防ぎきれるかな? |
2020年12月25日金曜日
クリスマスおめでとうございます
みなさま、それぞれの場所で
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「やどやのむすめのクリスマス」 始まり始まり |
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寂しさ故にわがままで手のつけられなかった娘が 赤ちゃんイエス様と出会うことで 心に明かりが灯る そんなお話です |
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会衆席は間隔を保って |
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最後は園庭で めいめいにキャンドルを持ち 「きよしこの夜」を賛美しました 寒すぎなくてよかった! |
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手作りの竹灯籠、一番人気はうさぎ 来年はもっとたくさん作る予定です |
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のびのびと過ごせるクリスマスが 早く戻ってきますように |
2020年12月23日水曜日
クリスマス・イブ礼拝について
クリスマス・イブ礼拝を行います
コロナウイルス感染予防対策のため
礼拝堂の窓を開けて換気しながらの
暖かい服装でお越しください
また、会堂内での賛美はいたしません
リーベクワイヤのハンドベルの音色に
耳を傾けましょう
最後に園庭でキャンドルを灯し
きよしこの夜を歌う予定です
制限のある中ではありますが
2020年12月21日月曜日
イエス様のお誕生(日曜日のお話の要約)
待降節第三主日礼拝(2020年12月20日)
イザヤ書9章1節 テトス2章11節 ルカ福音書2章8~20節
いきなりですが、クイズです。クリスマスとはなんの日でしょうか?イエス様の誕生日?近いけど違います。答えは「イエス様のお誕生を喜んで、みんなで礼拝する日」です。
聖書には、イエス様が2000年くらい前にお生まれになったことや、どこでどんな風にお生まれになったかがちゃんと書いてあります。ところが何月何日に生まれたとは書いていないのです。イエス様のお誕生日がわからないとお誕生祝いができないので、昔の偉い人たちが話し合って「この日にしよう」と決めました。それが12月25日なのです。
教会ではみんなが集まりやすいように、クリスマスのちょっと前の日曜日にクリスマス礼拝をするようになりました。「クリスマス」とは「キリストの礼拝」という意味なのです。
ルーテル幼稚園では毎年クリスマス会で、聖書を基にした生誕劇をします。先ほど読んだ「ルカによる福音書」には、マリアさん、ヨセフさん、羊飼い、天使が出てきました。でも東の国の博士や導く星は出てきません。この人たちは「マタイによる福音書」の2章に出てきます。
劇には3人も出たのに、聖書には出てこない人がいます。それは「宿屋さん」です。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とだけ書いてあります。それで劇では、泊まる部屋のないマリアさんたちをかわいそうに思った3人目の宿屋さんが「馬小屋ならば空いてます」と言って案内したのだろう、と想像して、お話を作ったのです。
この時、ローマの皇帝の命令でたくさんの人々が税金を払うためにそれぞれ先祖の街に旅をしました。ヨセフさんの先祖の街、ベツレヘムはとても昔からある町なので、たくさんの人が戻ってきて宿屋に泊まりました。お腹の大きいマリアさんは急いで旅をすることができなかったので、町に着いた時にはどこの宿屋もいっぱいだったのでしょう。
やっと馬小屋に泊まれたけれど、そこは綺麗なところではありませんでした。馬小屋というのは馬やロバの寝るところです。だから馬やロバの食べ残しやウンチの匂いがします。
神様はなんでもできる方ですから、神様の御子イエス様のために立派なベッドを用意するのは簡単でした。それなのに、わざわざ汚い馬小屋で生まれ、馬の餌を入れる箱、飼い葉桶の中に寝かされたのです。それには大切な訳がありました。
イエス様はこの時はまだ赤ちゃんですが、大人になったら「救い主」、元々の言葉で言うと「キリスト」と呼ばれる人になることが決まっていました。救い主というのは、貧しい人や困っている人や仲間外れになっている人を助けるのです。普通の人は行きたくない危険なところや汚いところでも、自分から助けに行くのです。
でも、ちょっと難しいお話なのですが、人間が泣いたり悲しんだりするとき、心の中はいつも綺麗なわけではありません。例えば、仲良しの兄弟でも、どっちかが余計に褒められたりすると、やきもちを焼いて泣いたりたりします。わがままだと思ってもどうにも止まらないのです。お友達と喧嘩をしたとき、自分も悪いのに素直に謝れないこともあります。
小さい時は割と素直に「ごめんね」と言えるのですが、小学生、中学生、高校生と、大きくなると「ごめんね」ということがどんどん難しくなります。喧嘩した友達を許せなくて仲直りできなかったり、失敗しても「ごめんなさい」と言えなくて言い訳ばかりしたり、何かうまく行かないと全部周りの人が悪い、と怒ったりします。
大人になると、そんなことがどんどん増えるのです。頭では自分も悪いことや、人を憎んでも何にもならないこともわかっているのです。そんな自分の心の中は誰にも見せられないくらいドロドロぐちゃぐちゃで汚いなあ、私はひとりぼっちだなあ、と思ったりするのです。そんな気持ちのことを大人の人は「孤独」と呼びます。
ところが、そんな人のそばにもイエス様は来てくださるのです。ドロドロでぐちゃぐちゃで悲しくて寂しい心を持った人のそばに、全然嫌がらずに来て、「私はあなたの友達だ」と言ってくださいます。そして「私はあなたの友達だから、あなたの心の中を綺麗にお掃除する手伝いをしてあげよう」と言ってくださるのです。
では、なぜイエス様はどろどろのぐちゃぐちゃのところに平気で来ることができるのでしょう。イエス様は馬小屋で生まれたからです。泣いている人がいたら、どんなところでも気にせず行けるように、最初からぐちゃぐちゃどろどろのところでお生まれになったのです。
私たちは、でこぼこした道を歩かなければならない時、悲しい時、悪い誘惑を受ける時が必ずあります。そんな時は遠慮しないでイエス様にお祈りして、一緒にいていただきましょう。この教会はいつまでもみんなのものですから、お祈りの仕方を忘れたらいつでもきてくださいイエス様と一緒に待っています。みんなのためにイエス様が馬小屋でお生まれになったことを、どうぞ忘れないでいてください。
2020年12月14日月曜日
洗礼者ヨハネについて(日曜日のお話の要約)
待降節第三主日礼拝(2020年12月13日)
イザヤ書61章1節 Ⅰテサロニケ5章16-22節
ヨハネ福音書1章19-23節
本日はヨハネによる福音書を読んでまいります。ヨルダン川で洗礼を行なった「洗礼者ヨハネ」と、福音書を書いたヨハネとは別の人物です。紛らわしいので「福音記者ヨハネ」「洗礼者ヨハネ」と呼び分けることにします。
福音記者ヨハネは、イエス様の12人の弟子の一人で、もっとも若かったと言われており、イエス様に一番愛され、可愛がってもらった弟子であると自負しています。
ヨハネが福音書を書いた時代は、決して明るい時代ではありませんでした。イエス様を信じてクリスチャンになった人々はユダヤ教の指導者たちの迫害から逃れてイスラエルを離れ地中海沿岸や周辺諸国に生活圏を移していました。
故郷を追われた彼らは、新しく生きる街で、キリスト教の教えを伝えようとします。それが自分の使命と信じ、「神様から遣わされたメシアこそイエス様だ」と説明するのですが、ローマ文化圏の人々には旧約聖書の知識はほとんどありませんから「メシアとは何のことだ」と言われてしまいます。そこで旧約聖書を知らない人たちにキリスト教を伝えるため、ギリシャ哲学の思想や言い回しを学ぶ必要がありました。
「初めに言があった」の「言」は「ロゴス」というギリシア語が使われています。ロゴスは真理、真実、理性といった意味です。福音記者ヨハネは自分の信じるイエス様こそ神である、それが真理なのだ、と伝えるために、彼らの思考パターンに合わせて福音書を書いたのです。ここで使われている「言」とは「イエス様」と置き換えて読むことができるので試してみてください。
本日読みました19節からは、洗礼者ヨハネがヨルダン川で悔い改めの洗礼を開始した時のことが具体的に書かれています。ユダヤの人々は、彼のことを救い主だと考えました。そこでエルサレムから祭司やレビ人たちがやってきて、遠回しに「あなたがメシアなのですか?」と聞いたのです。
しかし洗礼者ヨハネは否定します。そこで相手は「あなたは一体誰ですか?エリヤですか?」と尋ます。エリヤとは旧約聖書の預言者の中でも大英雄で、信仰によって国を立て直した人物です。すると洗礼者ヨハネは、いやいや私はエリヤじゃない、しかしエリヤどころかもっとすごい方が間も無く現れる、自分はその方の登場のために準備を促しているだけだ、と言い切るのです。
洗礼者ヨハネが行なった洗礼は、ひとりひとりが自らの罪を認め、水で清めて頂くものでした。しかしイエス様が行う洗礼は「聖霊を授けること」ができる、と洗礼者ヨハネは言うのです。
洗礼によって聖霊なる神と一つにされ、父なる神様と直結した存在となり、イエス様が身代わりになってくださることで完全に赦されるのです。どんな生き方をしてきた者も、神に赦され、愛されているのだと信じ、神様に導かれて生きることが一番楽しい、と思えるようになるのです。聖霊なる神に心のうちに住んでいただき、主イエスと共に歩み、父なる神の御心を実現していくという壮大な使命が与えられているのです。
洗礼者ヨハネは新しい世界の始まりを告げるために、荒野で叫ぶ声となったのです。
「洗礼者ヨハネ」は芸術家にとって興味深いモチーフの一つだったようで、様々な画家がその姿をイメージして描いています。フランスのウインターリンデン美術館の「キリストの磔刑図」という絵は、十字架に架けられたイエス様を中心に、左側に卒倒する母マリアとそれを支える福音記者ヨハネ、マグダラのマリアが描かれ、右側には洗礼者ヨハネが描かれています。
ここに描かれた洗礼者ヨハネは、威厳を保って聖書を広げて持ち、贖罪のシンボルである仔羊とともに立って、人の罪を取り除く神の子イエスを力強く指し示しています。イエス様は今、十字架にかかっているけれど、必ず蘇るのだ、と告げています。
これとよく似た構図で、宗教改革者マルティンルターが、説教をしている様子を描いた絵があります。週報に挟み込んだ賛美歌のページに小さく載せてあります。
真ん中には十字架に架けられたイエス様の姿、右側にはルターが説教をしながら十字架に掛かったイエス様を指し示しています。イエス様を挟んだ左側には、学者風の人物から年配者、少年、女性、赤ん坊、まさに全ての人が十字架を見つめつつ、説教に耳を傾け、イエス様の受難の意味を学び、蘇りへの希望を抱いてています。
私たちは自分がなぜキリスト教を信じるようになったのか、なぜ洗礼を受け信者となったのか、今一度思い返す必要があります。
私たちは、この小さな町にいくつもある教会の一つに招かれました。なぜ他ではなくここだったのか、お一人お一人が神様と会話していただきたいと思います。そして愚直なまでに、神の御心に従い、殺伐とした世の中にあって、救い主であるイエス・キリストを示し、信仰から愛の業を行う勇気を受けつつ、感謝して毎日を過ごして参りましょう。
直前までコロナの関係で開始が危ぶまれましたが、今のところ飯田市では陽性者がいないということで(県北から飯田の病院に患者さんが搬送されてはいるようですが)
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生誕劇、無事終了です 「やりきった!」という表情が見せられなくて残念です |
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ささやかな飾り付けですが 飯田教会の小さな礼拝堂も すっかりクリスマスらしくなりました |
2020年12月7日月曜日
ここに始まる(日曜日のお話の要約)
イザヤ書40章3-8節 Ⅱペトロ3章8-9節 マルコ福音書1章1-8節
イエス様は、そのような混沌とした社会の中で、弱者の側にお生まれになりました。神の御力によって王族や大金持ちの家に誕生することも可能だったはずです。しかし、イエス様の誕生を伝える福音書は、権力者に虐げられ、翻弄される小さな家族の中にイエス様が誕生されたと記録するのです。
当時のユダヤの国は、大国ローマとの戦いに敗れ、その他の国々同様
属国として支配を受けていました。しかしユダヤの民は、幼い頃から聖書を学ぶことによって文字を読み書きができ、聖書を学ぶことによって教養を身につけてました。さらに、聖書の歴史から、かつて自分達を支配し占領していた大きな国々も時が来れば滅びると知っていました。ローマ帝国がどれほど強大でも、いつかは滅びると信じていたのです。
そして他の民族との決定的な違いは、自分達の信仰する神が自分たちを守り導くことを堅く信じ、容易には他の宗教を受け入れず、誇りを保っていたことです。武力で簡単に押さえつけられる民ではなかったのです。
しかし実際にユダヤの政治を行う祭司やファリサイ人たちは、ローマと正面衝突を避けて民衆をコントロールする必要があり、時には国民からどっちの味方なのだと失望されても、やむなし、というところもありました。
ローマ帝国の占領下で、神様に愛されていたはずのユダヤの国が、ボロボロになりながら喘いでいる。その国のさらに底辺に近い人々の間に、神の御子イエスが降誕されるのです。ルカによる福音書によれば、「宿屋には彼らの泊まる場所もなく、イエス様は飼い葉桶の中に寝かされた」とあります。しかし福音書は、この一見力なき幼子は神の子である、と記すのです。
本日読みましたマルコ福音書の最初に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記されています。これはローマ皇帝を「神」と崇める人々に喧嘩を売っているようなものです。現代のクリスチャンにとって当たり前である「神の子」という言葉は強大なローマ帝国に反旗を翻すほどの強烈な言葉だったのです。それでもキリスト教徒達は福音という言葉をローマ皇帝では無く、自分たちの信じ崇める神に対して使い、教会で読み継いだのです。
本日は洗礼者ヨハネが人々を悔い改めに導く出来事です。荒々しく厳しい世の流れの中で、洗礼者ヨハネは、絶望もせず、かといって武器を持つことも無く、神様がこの世界を救ってくださることだけを堅く信じ、そのためには一人一人の悔い改めこそが重要であると説きました。
ラクダの毛衣を着て腰に革の帯を締めたヨハネの姿は、ユダヤの人々のイメージする旧約聖書の時代の預言者そのものでした。彼の言葉は威厳に満ちて力強く、その呼びかけに従って多くの民衆が荒野に出向き、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を受けました。
洗礼は魔術ではありません。ヨハネとともに川に入り、全身を浸すだけです。しかしそこに込められたのは、今までの生き方を悔い改め、神様に従って新しく生き直す、という信仰でした。吹けば飛ぶような存在である私の人生にも神様の思いが働いており、それに応えようとする命が私の中にもあるのだという思いで満たされるのです。こうして、ユダヤの全地方とエルサレムの住人は皆、ヨハネの元に来て罪を告白し、彼から洗礼を受けたのです。
ただ、ヨハネが一人一人を悔い改めに導いた大きな目的は「こんな時代だけど新しく生きなおそうぜ」と励ますのではありません。間も無く神様から遣わされた神の御子がおいでになるから、自分本位の生き方はやめて、神様に心を向けていよう、という呼びかけだったのです。
洗礼を受けたからといってパッと人生が良くなる、というものではありません。最初に変わるのは受けた人の心です。不平や不満、悲しみだらけだと思っていた世界の見え方が変わります。自分が今ここにあるのは、イエス様に出会うためだったとはっきりわかった時、なにものにも代えがたい平安が与えられ、その人の人生は変わり始めるのです。
苦難や問題の多い人生であっても、その道を通らなければイエス様に出会えなかった、今までの出来事は全て自分の糧となる、そう信じて生きる生き方もあるはずです。
洗礼者ヨハネが呼びかけた言葉は、今も聖書を、悪い時代においても、良い時代においても、ひたすらに神の導きを信じて教会に集い、聖書に学び、キリストに仕えていく中に本当の平安があると、それがあなたの人生だと、私たち一人一人に語りかけているのです。
繰り返しになりますが、私たちの苦難や問題の背後には、神の思いが隠されています。イエス・キリストが味合われた十字架の背後に、神の思いがあり、復活や永遠の命を示されたように、私たちには、私たちの生き方があります。互いの人生を尊重しながら歩んで参りましょう。神様の支配されている教会の中で共に信仰に歩んで参りましょう。
12月5日は恒例の土曜学校でした。
クリスマス企画なので、小学生だけでなく
土曜保育の年少、年中、年長のお友達も参加しました
一緒に礼拝をした後
12月のお誕生会
大人、子ども合わせて12月生まれが
なんと8人!
ガラポンでプレゼントをもらってみんな笑顔です
そのあとは松ぼっくりツリーのクラフト
年長さんと小学生は大きなツリーに
それぞれ挑戦しました
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年少さん、年中さんはあらかじめ 松ぼっくりをツリーの形に組んだものに フェルトボールを貼り付けました 白い絵の具と木工ボンドを混ぜたものを 綿棒で松ぼっくりにちょいちょいと付け ボールを貼り付けていきます |
2020年12月1日火曜日
キリストの言葉(日曜日のお話の要約)
待降節第一主日礼拝(2020年11月29日)
イザヤ書64章3-4節 第一コリント1章8-9節 マルコ13章24-31節
いつの時代も子どもたちは正義のヒーローが大好きです。先日、園庭で正義のヒーロー同士が戦っていました。「私は仮面ライダー何々だ、お前は誰だ」「私も仮面ライダー何々だ」と同じ名前を名乗り、決闘の真似ごとが始まります。
子どもが他愛ないヒーローごっこをやっている間は良いのですが、年齢が上がるにつれてスポーツの世界などでヒーローを目指しても挫折を味わうことになります。ヒーロー願望は屈折してしまい、他者に対して優越感を持ちたいという思いだけが残り、身近にいる自分より弱そうな人間を引き立て役に利用したりいじめたり、という行動につながり、「弱きを助けて悪を挫く」ヒーローとはかけ離れてしまいます。人の正義というのは状況によって簡単に変化してしまうのです。
さて、イエス様がお生まれになったのはおおよそ2000年前です。祖国であるイスラエルはローマ帝国との戦いに敗れ、属国として支配を受け、重い税金を課せられていましたいました。
ユダヤ人の社会はユダヤ教の神殿を中心として宗教と政治を宗教国家でした。神殿で神様に仕える祭司と、神様の掟として与えられた律法を守り教えるファリサイ派が2大勢力でした。彼らはローマ帝国と渡り合って、自国の民を守る立場でしたが、長いものに巻かれるかのようにローマに妥協しました。その姿を見て、ユダヤの民は失望することも多かったのです。
そこで、民衆の中からもう2つの流れが出てきます。一つは権力にと結びついた宗教観を嫌って街を捨てて荒野に赴き、ひたすら神の言葉に従おうとする信仰者の群れ。
そしてもう一つは自由な国の再建を求めて戦おう、という「熱心党」と呼ばれる人の集団でした。彼らは非常に熱狂的で、ユダヤが独立した国家となるためなら手段を選ばず、自分の命を懸ける人々の集まりでした。イエス様の時代、ユダヤの人々の心はバラバラだったのです。
そんな混沌の中、次のように説く人物が現れました。「貧しかろうが豊かだろうが、神はみんなを救います。ローマ人だろうが、ファリサイ派だろうが、関係なく受け入れ、愛しなさい。神が平等にみんなを愛するように、みんなも神様を愛しなさい。そうすればやがて神の国に入れる。最後の審判のときに救われる」これは、世界史の教科書に載っている、博愛主義とも言われるイエス・キリストの言葉の要約です。
言葉だけなら、そんなことはただの理想だ、と思うでしょう。しかし、その日の生活にも困っているユダヤの民衆や、神の言葉に飢えている人々、暴力的な熱心党の人々までもがイエス様のもとに群がりました。それほどまでにイエス様の言葉には説得力が備わっていたのです。
このイエス様の働きは、ユダヤ社会のユダヤ社会の上層部の人々、祭司やファリサイ他人たちにとって都合の良いものではありません。社会の秩序が乱れると思った彼らは、当時ローマから派遣されていたローマ総督ピラトにイエス様を反逆者として訴えました。こうして裁判の結果、イエスは十字架にかけられ処刑されました。しかし、その後イエス様は復活します。イエス様が天に変えられた後は、弟子たちがその教えを広め始めます。
イエスから直接教えを受けたペトロたち、そして少し後には、もともとはファリサイ派でイエスの教えを迫害する側に立っていたパウロといった「使徒」と呼ばれる人たちが大きな働きをしていくのです。彼らの伝道の結果、地中海沿岸の様々な街に教会が生まれ、そこで洗礼を受けた信徒たちを教え導くために指導者たちはたくさんの手紙を書きました。「何々人への手紙」というのがそれに当たります。
そして、やがてイエス様と実際に行動を共にした弟子たちがイエス様の伝記でもある「福音書」を書き起こしました。手紙も福音書も始めのうちはかなりの種類があったようですが、後の時代に、読み継ぐにふさわしいものが選別され『新約聖書』が生まれたのです。
こうして「キリスト教」はみ言葉によって整えられていくのですが、その過程でユダヤ人たちは国内に住むキリスト教徒を迫害しました。そこでユダヤ人キリスト教徒はユダヤの地を離れ、各地に散らばることになります。
そのような折、西暦70年、ローマとユダヤの国の間に戦争が起こります。神殿は焼かれ、多くのユダヤ人たちは籠城した挙句に自ら命をたちました。しかしキリスト教徒たちはそれ以前にユダヤの国から逃げ出していたので、生き残ります。
最後まで残ったユダヤ人は戦いに負けてローマ人の奴隷になるくらいなら死を選ぶことを誇りと考えました。しかし、イエス様とその教えを信じた人達は厳しい戦が起こって神殿が壊されても剣を取ることはありませんでした。互いに愛せ、というイエス・キリストの言葉に踏みとどまり、その教えを広めていくことにその生涯をかけたのです。彼らが命を落とすのは、教えを捨てろと迫られた時だけでした。これが初期のキリスト教徒たちがイエス様から教わった正義だったのです。
誰にでも自分の信じる正義というものがあるでしょう。しかしそれが本当に正しいのかどうかは神様だけがご存知です。
人間の考える正義は時代や立場によって翻弄されてしまいます。だからこそ私達は、自分の心の中でキリストの御言葉に養われる正義の心が健全に育っていくことを望んでまいりましょう。
牧師館の物干し台で今年もネリネが咲きました
花びらがキラキラして美しく
「ダイヤモンドリリー」の別名も頷けます
もう15年以上のお付き合い
晩秋になると思い出したように咲いてくれる
ヒガンバナ科の球根植物です
牧師館の物干し台で今年もネリネが咲きました
花びらがキラキラして美しく
「ダイヤモンドリリー」の別名も頷けます
もう15年以上のお付き合い
晩秋になると思い出したように咲いてくれる
ヒガンバナ科の球根植物です
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礼拝堂でもクリスマスツリーがキラキラ |
2020年11月24日火曜日
永遠のキリスト(日曜日のお話の要約)
聖霊降臨後最終主日礼拝(2020年11月22日)
エゼキエル書34章11節 エフェソの信徒への手紙1章23節
マタイによる福音書 25章31節―46節
今日のお話に入る前に、少しキリスト教の「基本のキ」あたりをおさらいしておきましょう。イエス様は十字架の上で息を引き取られた後、墓に葬られましたが、三日目に蘇り、再び弟子たちにこの世の生き方を教え導かれました。しかしその日数は短く、40日であったと使徒言行録に記されています。40日の後「再び戻ってくる」と約束されて、御使とともに天の国に帰って行かれたのです。その時、再び地上に戻ってこられるのがいつになるのか、誰にも具体的には知らされませんでした。
ただ、イエス様はいつの日か戻ってこられて、ご自身を信じて生き、死んでいったた者たちを天の国に迎えてくださる。そしてその時、憎しみや戦いの絶えないこの世は終わりを迎える。その出来事を「再び臨む」と書いて再臨と呼びます。その約束を堅く信じた歴代のキリスト教徒たちは、イエス様の再臨の時まで、信仰のともしびを消さないように、次の世代へ次の世代へと伝道し続けたのです。
では、本日の聖書箇所に入りますが、最初の部分で、再臨されたイエス様が人々を右と左により分ける様子が描かれています。あらかじめお話ししておくと、ひとたびイエス様を信じて洗礼を受けた者は決して神様から見放されることはありません。洗礼を受けると言うことは、イエス様がその人を愛し、招かれた証しだからです。洗礼を受けた後、その人がちゃんとしたクリスチャンとして生きられなかったからといって、「永遠の罰を受ける」などと言うことはないのです。
父なる神様は、人間がもともと弱いと言うことを知り抜いておられます。なんといっても、イエス様を遣わしてくださったのは弱い私たちを支えるためでした。つまり、神様はそれほどまでに私たちの弱さに理解があり、放っておけない、救いの手を差し伸べなければ、と思ってくださる方であることを忘れてはなりません。
この「救い」と言う言葉ですが、今更かもしれませんが「キリスト」と言う言葉は日本語では「救い主」と言う意味です。「イエス」が名前で「キリスト」が苗字、ではありません。
ヘブライ語では「メシア」と言われるこの言葉は、本来は「油注がれた者」という意味です。イエス様のお国、イスラエルでは誰かを王様や何かの代表者に任命する時、香りのよい油を注ぎ「メシア」と呼びました。
聖書に描かれたユダヤ民族の歴史の中では、様々なピンチの時が描かれています。よその国で奴隷になったり、度重なる戦争によって国ごと消えそうになったり。しかしどのような時も、神様に導かれ、ピンチを脱出してきました。
私たちの一生においても、予想していなかった災難や不幸に見舞われ、用意した手立てが全く役に立たないとわかった時、人は絶望し、この世には神も仏もないのか、と嘆き悲しみます。しかし、人間に本当の救い主が必要なのはまさにその時なのです。
とはいえ、その救い主は、何かのヒーロー物語のように、スーパーマンが颯爽と登場して、助けてくれる、と言うのとは違います。私たちが「こうなれば良いのに」と思っている方向ではなく、全く違う、新しい道に導いてくださることがしばしばあるのです。救い主は「あなたにとって一番良い道がそこに用意されている」と語りかけるのです。
クリスチャンというのは、救い主キリストなしでは生きることのできない人のことを指します。自分がどれほど無力であるかを知り、救い主に頼るしかないと、生き方を変えた人です。
以前の私たちは、自分の弱さを認めたくなくて虚勢を張り、痛いところをついてくる人を突き放し、喧嘩しながら生きてきたかもしれません。しかしそのようなことをしても、弱さは決してなくなりません。私たちは、弱さを受け入れ、弱さを知りつつ、歩むしかないのです。イエス様は私たちに「強くなれ」とはお教えになりません。「自分の弱さを認め、私に頼りなさい」と言われるのです。
一人一人が決して強くないからこそ、同じ弱さを持った者と共に、憐れむ者として生きる必要があります。イエス様に促されるなら、誰かが飢えているときに食べさせ、喉が渇いているときに飲ませ、旅をしている者に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に尋ねる、と言う生き方を選びとれるはずです。
これは決して崇高でヒューマニスティックな理想を目指すのではなく、身近なところ、小さなところから始めたので良いのです。イエス様に日々従う生き方を心がけるならば、あなたが行動を起こすタイミングが来た時ピンとくるはずです。その時は迷わず行動できる勇気を願い求めれば良いのです。そうやって私たちはキリストの群れを形づくっていきましょう。頼るべき人には頼り、支える人は支え、嬉しいことも悲しいことも分かち合っていきましょう。
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園庭の銀杏です |
焼き上がりはこんな感じ
細切れにして
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いただきます! |
2020年11月16日月曜日
タラントの話(日曜日のお話の要約)
2020年感謝礼拝
(聖霊降臨後第24主日礼拝(2020年11月15日))
マタイによる福音書 25:14-30
ところが、今年の2月頃から目には見えない小さな新型コロナウィルスが世界中に広まってしまったのです。飯田では今までは、わずかの人しか、かかっていませんが、教会の「感謝礼拝」は毎年とても密になります。コロナを防ぐ一番簡単な方法は、全部やめてしまうことです。でも、やめるのは嫌だ、大人も子どももいっしょに神様に感謝する礼拝をどうしてもしたい、そう思って、何か良い方法はないか話し合いました。
そこで考えたのは「どんな人でも来てください」というのはやめて、一緒にお祝いしてくれそうな人に呼びかける、という方法でした。聖書には、イエス様がお弟子さんを集められたとき、ご自分から一人一人に呼びかけられた、と書いてあるので、それをお手本にしたのです。
さて、さっき読んでもらった聖書にタラントンというお金の数え方が出て来ます。日本のお金にすると、1タラントンは、4000万円から6000万円だろう、と言われています。
タラントンという言葉は、実はみんなの知っている言葉で「タレント」言う言葉と同じです。テレビに出ている人のことをタレントさんと言ったりしますが、もともとは才能や能力を意味する言葉です。
イエス様の例え話の中で、ご主人様から5タラントン預かった人は、それを使って商売をして、もう5タラントンをもうけたと書いてあります。2タラントン預かった人は、もう2タラントンもうけたと書かれています。
ところが1タラントの人は、ご主人様が厳しい方だと思い込んで、もし自分がこのお金を使って商売をして失敗して全部お金を無くしたら、厳しく叱られる、だから使わないで隠しておこうと思ったのです。
これは例え話なので、イエス様はここに出てくるお金を何かに例えています。わかるでしょうか。先生はこのタラントンは「神様からいただいた御言葉」だと思っています。
みんなも幼稚園や土曜学校で聖書の言葉を覚えますね。たくさん覚えられる人もいれば、ちょっとしか覚えられない人もいます。でも、大切なのは、その御言葉をどう使うかです。自分がピンチになったり嫌な気持ちになったりしたとき、御言葉を思い出せるかどうかです。
例えば、今年の幼稚園の一年間の御言葉は「喜びと平和とであなたがたを満たす。ローマの信徒への手紙15章13節」です。悲しいことがあったり、誰かとケンカしてイライラしたりするときも、神様はあなたに喜びと平和をあげよう、と言ってくださっているので、「神様、喜びと平和をください」とお祈りするだけでいいのです。神様はみんなを導いてくださいます。
教会や幼稚園で教えてもらった御言葉や賛美歌を、忘れてしまったらもったいないのです。たくさん覚えて、ピンチの時に思い出してお祈りするなら、どんなに困ったときも悲しいときも、神様の助けがもらえて、みんなは強くなれるのです。
みんなは今日、「フットプリンツ」という曲を歌い演奏し、辛い時もイエス様がいっしょに歩いてくださることを覚えました。「さあ、賛美しよう」を歌って、賛美するのは楽しいとわかりました。うまく出来た人も「もっと練習すればよかった」と思った人もいたでしょう。でも確かなのは、今回チャレンジし、歌の歌詞の中に込められた御言葉を覚えたということです。そしてそれを神様が喜んでおられるということです。
みんなは今日、タラントを上手に使うコツの最初の一歩を神様から頂いたのです。いただいたタラントをもっと増やしていくか、もうやめた、と言って、穴を掘って埋めてしまうかは、自分次第なのです。
ルーテル飯田教会、ルーテル飯田幼稚園がこの地に誕生して、110年以上の歴史があります。長い長い間に、戦争や大火事や、大変なことがいくつもありました。そして今はコロナ禍と言われる厳しい状況の中にあります。それでも、今日集まってくださった皆さんと共に神様に感謝を覚える時ができたのは、奇跡だと思っています。
この先、コロナに影響された私たちの社会がどうなるか、誰にも分かりませんが、神様はどんなときも私たちにタラントを与え続けてくださいます。それを無駄にしないで、自分の希望にし、そして誰かの希望になるように、いっしょに増やしていく努力をしていきたいと思います。
この教会と幼稚園は、みんなが、神様と共に歩むことを喜びとし、一人一人に与えられたタレントを十分に生かして毎日が過ごせるように、共に考え、お祈りしています。今日、こうして集ったお一人お一人に、豊かな祝福がありますように。
礼拝の中で、長年飯田教会を拠点に活動しておられるハンドベルチーム「リーベクワイヤ」と、今回新設された「こども聖歌隊」の特別賛美が行われました
まず子どもたちの写真をみてください!
慣れないフェイスシールドを付けながら頑張りました。
都合で、生き生きした表情をお見せできないのが残念です。
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こども聖歌隊デビュー賛美 |
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こちらは「リーベクワイヤ」の皆さん 今回「こども聖歌隊」と母娘共演を 果たした方もおられました 私の人生で一番辛い時 砂の上に残されていた一人分の足跡は 私を背負って歩いてくださった 主のものだった 有名な「フットプリンツ」を 手話付きで賛美している様子です |
2020年11月10日火曜日
「十人のおとめ」のたとえ(日曜日のお話の要約)
聖霊降臨後第23主日礼拝(2020年11月8日)
アモス5:20 テサロニケⅠ 4:13-14 マタイ25:1-13
本日の「10人のおとめのたとえ話」は、結婚式になぞらえて、イエス様がご自分の弟子達にお話をなさっています。当時のユダヤの結婚式は、私たちとはまるで違う方法で行われました。ある資料によると、まず式の当日、花嫁は嫁入り道具や付き添いを伴って華やかな行列で花むこの家に向かいそちらで髪型を整えました。
ところが、花嫁が花婿の家で身支度している時、花婿は留守です。彼は親類の家に長々と留まって、そこで夕食まで食べるのです。花婿が花嫁が待っている自分の家に向かって出発するのは、通常午後11時過ぎでした。
輝くトーチが花婿の行列を照らし、花嫁の付き添い人が花婿を待ち受けている家に向かって、ゆっくりと進んでいくのです。それは一大イベントで、町の人々は大興奮でそれを見守ったそうです。
花婿が家に近づくと周囲の人々は「花婿が来ます、花婿が来ます」と大声で知らせます。そこで花嫁の付添人「待ち受ける乙女たち」と呼ばれる女性たちは花むこの一行が入口に入りやすいよう、そこを明るくランプとろうそくで照らします。こうして花嫁と花婿が晴れて彼の家に揃うと、新婚夫婦は素晴らしく飾られた天蓋の下に一緒に座るのです。
主イエスは、花婿の一行を待ち受けて入口を照らす役の乙女たちの話をされたのです。乙女たち10人の内、5人は愚かで、5人は賢かったと言われました。賢い娘たちは自分の灯の他に、花婿が予想より遅くなることも考えて予備の油を用意しました。しかし愚かな娘たちは予備の油を用意しませんでした。
ユダヤの風習に則って考えるなら、花婿の到着が遅れるのは珍しいことではありません。この夜も花婿が来るのが遅れたので、10人の娘たちはうとうと眠り始めました。夜中になり「花婿が来ます、花婿が来ます」という大声で10人の乙女たちが目を覚ました時、愚かな娘たちは、自分の灯が油不足で消えそうになっているのに気づきます。そこで、賢い娘たちに「油を少し私たちに分けてください。」と頼みました。しかし賢い娘たちは「分けてあげるには到底足りません。お店に行き、自分の分を買うように。」と勧めたのです。
花婿が到着した時、5人の賢い娘たちは灯火を明るく掲げて入り口を照らして一行を迎え入れます。5人の乙女たちは花婿と共に披露宴会場に迎え入れられました。しかし愚かな娘たちが戻ってきた時、その家の戸は閉じられ、彼女たちはもう2度と入ることができなかったのです。
この話を聞いて「賢いといっても意地の悪い乙女達だなあ、少しくらい油を分けてやれば良いのに」と考えてしまうと、このお話の本質を見失います。イエス様が「意地悪の勧め」をなさるはずはないのですから、こちらも素直になってこの例えの意味を受け止めましょう。
ご自分がいずれ十字架にかかり、そののち天に戻られることを知っておられたイエス様は、弟子たちがどれほどの苦難の中で伝道していかなければならないかを知っておられました。
いつ天の国から戻ってこられるかわからないイエス様を待ち続けることは大変です。厳しい迫害の中、時には信仰が弱まったり、油断して誘惑を受けたり、伝道しの目的を見失いそうになったりするでしょう。だからこそイエス様は、結婚式の行列をご自身の再臨の時になぞらえ、遅れて到着する花婿にご自分を例えられたのです。
ご自分が再び地上に戻ってこられる再臨の時まで待つための備えは、他人にしてもらうのではない、一人一人が聖霊の力をいただきながら、自分の信仰の灯火が消えないように守っていかなければならない、と教えられるのです。一人一人が主イエスの再臨に備え、どれほど長く待たされようとも、いつか神の御前に立つために賢く備えをしなければならない、と教えられたのです。
愚かな乙女については「こうなってはいけない」という架空の人たちと捉えたら良いでしょう。あなたたちはこうなってはならない、いや、私が招いた愛するあなたたちなら、こうはならないはずだ、とイエス様は言われるのです。
ここに登場する乙女たちは、神様から大切なお役目を与えられた私たちそのものです。イエス様が再び戻ってこられる再臨の時まで、信仰の灯火を消すことなく、神様と人々との出会いの場である教会に立ち、集い続けるよう召されているのです
自分は愚かな乙女の方に入るかもしれない、などと考えるのはよくありません。過去はどうあれ、今の自分はちゃんと聖霊から信仰の油を継ぎ足していただき、灯火が消えないよう用意している、イエス様に愛される賢いおとめであるという自覚こそが、私たちの信仰生活の継続のために、大切な事のです。
教会は2000年の間、再臨の時を、イエス様が再び地上に来られる時を待ち望んでいます。私たち一人一人がこの世を去るのが早いのか再臨が早いのか、誰にもわかりません。それでも、だからこそ、信仰の灯火は次の世代へと引き継いでいかなくてはなりません。
日々、一人一人が自分の信仰の灯火を整えながら、共に神様に与えらた道を歩んで参りましょう。
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この白い動物、羊ではありません アルビノの狸のりゅうくんです 教会から幼児でも歩いて行ける距離に 市立飯田動物園があります なんと入場料タダ 今日は園児の付き添いで 牧師夫妻も動物園に行ってきました |
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これがマダガスカルオオゴキブリだ! |