2019年5月26日日曜日

生ける神に立ち帰る(お話の抜粋)

復活後第五主日礼拝(白) (2019年5月26日)
使徒言行録14:8-18 黙示録 21:22-27 ヨハネ14:23-29

 本日はヨハネによる福音書14章23節から始まります。14章自体の書き出しは「心を騒がせるな」。そして本日、共に読みました27節にも「心を騒がせるな」とあります。「心を騒がせるな」という言葉は「動揺するな」と訳すことができます。イエス様はこれから起こることで弟子たちが心を騒がせることをご存知で、あえて繰り返し言われたように思われます。
 イエス様の弟子たちは、3年半に渡ってイエス様と苦楽を共にしてきました。だからこそイエス様を失った時、大切な人を失った苦しみに耐えきれず、未来への一切の希望を失いました。いい年をした大人の集団でありながら、まるで突然親を失った子どものように、心細さに嘆き悲しんだのです。
 イエス様は彼らがそうなることがわかっておられました。だからこそ十字架にかかられる前の夜、ヨハネ福音書の14章18節において、弟子たちに向かって「わたしは、あなたがたを みなしごにはしておかない」と語られたのです。この時、弟子たちはこの御言葉の意味するところを悟ることはできませんでした。イエス様が十字架にかかって死なれるなどと思ってもいなかったからです。しかしそんな彼らも、のちにその意味を知っていくわけです。

 私たちが苦難の時にしばしば見せるやせ我慢や開き直り、つまり『私の悩みや苦難は、よそ様に比べたらちっぽけなもので、イエス様にすがるなんておこがましい』という態度は、イエス様の対してよそよそしい距離をとるようなものです。
 そうではなく、こんなにちっぽけで失敗ばかりの私でさえ、神は顧みてくださり、励ますために共にいてくださっているのだ、と信じられれば、苦難の中にもイエス様の言葉が響いてきて、慰めの言葉になるのです。そのために、心のうちに豊かにみ言葉を蓄え、主がともにいてくださるという信仰をこそ神様に祈り求めていきたいのです。

 ところで、復活祭の後、礼拝では第一の日課として使徒言行録を読み進めています。使徒言行録は、イエス様の弟子たちが、神の言葉を携えて、異邦人のいる町へも、ユダヤ人のいる町へも、導かれるままに宣教に出かける姿を記録しています。
 しかし、宣教を進めていけばいくほどに、民衆の間で意見の食い違いが起き、分裂が生じて行きます。彼らがいく先々で、イエス様の言葉を信じる人と信じない人に分かれてしまうのです。
 本日読んでいただいたところは、リストラという町での出来事です。パウロとその一行は、生まれつき足の不自由な男性と出会います。この人が熱心にパウロの話を聞くのを見て、癒されるのにふさわしい信仰があると認め、奇跡の業を行うのです。それを見ていた人々から、その地方で信仰されている別の神々が起こした奇跡だと勘違いされ、大騒ぎになってしまいます。なんとかその場を収めることができたものの、パウロたちの宣教を快く思わないユダヤ人達が何も知らないその町の群衆を抱き込み、ひどい迫害を行なったのです。
 使徒言行録によれば、このような迫害はどこへ行っても起きたようです。喜んで御言葉を受け止め、キリスト教に改宗する人々がいるかと思えば、使徒達を口汚く罵り、石を投げ、命を奪おうとします。
 このような体験をしても、キリスト者たちは宣教することを決してやめませんでした。彼らは迫害されることすら喜んだのです。それは苦しみの中にあって、生きたイエス様の言葉が彼らを支えたからです。

 今の日本は目に見える迫害はほとんど無いようにも見えます。しかし、み言葉を守って日曜に礼拝を守ろうとする人々にとっては、優しい社会ではありません。何かと言うと日曜日に行事が入るのが日本社会だからです。自分たちがそういう社会に生きていることを肝に命じていないと、いつの間にかイエス様を知らない人々の方に引きずられていき、証しできなくなり、宣教も伝道も絵に描いた餅になってしまうのです。
 教会学校やこども園を通して、子ども達とだんだん親しくなってくると、彼らは無邪気に「先生はなぜ毎週の日曜日に礼拝するの?」と尋ねてきます。私はその時に、「先生、忘れるねん。神様が、イエス様がお前は大事な存在だよと言われても。阿保だから肝心な時に信じられなくなる」と。
 「阿保」は余計かも知れませんが、せっかく今の時代にキリスト者として召されたのです。世間から多少変人扱いされても、嫌われ者になっても、ただ、いい人ねで終わる人生よりも、生きた神を証するために、キリストに従って歩むほうが永遠の幸せだと「阿保」と言われるほどに信じているのです。
 この教会は日本のプロテスタント教会の中でも長い歴史を持っている方ですが、その中でも、キリストにある情熱が喜ばれたり、その情熱がもとで対立があった歴史を持っています。それもまた生きた証なのです。
 どれほど心が騒ぐときも、生ける神・イエス・キリストに立ち帰り、従って参りましょう。


所用で駒ヶ根に行って来ました。美しい風景が広がっていました。

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