2019年5月12日日曜日

善きわざについて(お話の抜粋)

復活後第三主日礼拝(白) (2019年5月12日)
使徒言行録13:26-39 黙示録 7:9-17 ヨハネ10:22-30



 イースターをお祝いして以来、私たちはルカ福音書を通して、復活されたイエス様と、それをなかなか信じられない弟子達の様子を見てまいりました。本日は少し変わりまして、ヨハネ福音書から、別のメッセージを聞いてまいります。
 イエス様が「私は良い羊飼いだ」と言われたことは、イエス様ご自身が民を守る神だとおっしゃっているのに等しいのです。
 多くのユダヤ人にとって、この言葉は驚きでした。ある人々は「まともな人間ならこんなことは言えないはずだ」「イエスは悪霊に取り憑かれて気が変になっている」と怒り出しました。
 しかし、イエス様のなさった奇跡を知っている人々は、少し前にイエス様が生まれつきの盲人の目を癒されたことを引き合いに出し、「あのような立派なわざのできる人が、悪霊に取り憑かれているわけがない」と反論します。ユダヤ人たちの混乱ぶりが伺えます。

 神殿奉献記念祭という冬の祭りの日、イエス様が神殿の南の端のソロモンの回廊とを歩いておられると、祭りで気持ちが高揚したユダヤ達がぐるりと取り囲み、強い口調で「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と問い詰めるのです。
 イエス様を取り囲んだ人々は、別の聖書では「ユダヤ人権力者達」と訳されているようで、国会議員に当たる人々だったと思われます。議員達はファリサイ派と祭司達の2種類の人々で構成されていました。日頃は意見が対立しがちな彼らでしたが、ことイエス様に関しては、手を組んで立ち向かったようです。
 彼らはイエス様がメシアなのかそうでないのか、そんな論争にはうんざりしていました。イエス様が「私はメシアだ」と宣言すれば、人間が神様を名乗るなんてとんでもない、神様への冒涜は国を滅ぼすとんでもない行為だ、即刻死刑にしてやる。そう考えていました。どちらもイエス様を邪魔な存在とみなしつつも、心の奥に恐れがありました。もし万が一イエス様が本当にメシアなら下手に逆らったら大変だ、と考えていたからです。

 しかしイエス様は、ご自分に強い口調で迫る彼らの宗教行為や思想は何もかも正しくないことをご存知でした。彼らが「神様のために」と神殿にこだわり、あるいは神殿を保持したり利用したりすることに終始している、それらのわざは、決して善いものではなく、神様を悲しませるだけなのを知っておられたからです。
 イエス様は神様が人間に何を望んでおられるのか告げ知らせ、神様と人間の正しい愛の関係を取り戻すために地上に来られました。神様が私たち人間を徹底的に愛してくださり、その愛には揺るぎがないこと、人間が何度失敗しても何度でも赦して受け入れてくださる愛の姿を聖書から学び取るよう語られました。愛に満ち、力強い父そのものの神様の姿、神様の力強い業を、神殿ではなくご自分のわざから、そして聖書そのものから見るように促されたのです。
 この後、西暦70年にはユダヤの国はローマとの戦争に敗れ、神殿も完全に破壊されます。そしてその時と前後して、神様の愛はユダヤ人という一民族、一つの国の枠から飛び出して、世界の国へと広がっていきます。しかしイエス様を排除しようとした人々はそんな未来については全く予想もしていませんでした。彼らは自分達の古い考えの中に留まり続け、イエス様の言葉に込められた神様の愛の呼びかけに耳を塞いでしまったのです。
 あくまでもイエス様に強く迫る彼らを前にしながら、イエス様の眼差しはもはや彼らを見てはいませんでした。将来ご自分の羊となる世界中の、様々な国の人々を見ておられたのでしょう。ですからイエス様は彼らに向かって言われました。「あなた達はわたしの羊ではない。わたしの声を聞き分けるわたしの羊は他にいる」
 イエス様が見ておられた遠い未来の羊達の中には、今の私たちも含まれていたのです。
 幼子も青年も高齢者も、主の呼びかけを聞くことのできる人々は幸いです。初めの内、なぜ自分がイエス様の御言葉に反応するのか分からないかもしれません。時には「キリスト教は偽善的だ」と反発さえ覚える事もあります。それでも、なんとなく気になるなあ、なんか良いなあ、なぜか惹かれるなあ、といったところからスタートして、やがて神様が自分を呼んでおられるのだと気づき、イエス様の語られるその愛に引き寄せられて行くのです。そしてその「惹かれる」という思いが成長してイエス様を信じる信仰へと結びついて行くのです。
 マルチン・ルターは「良き業について」という書物を書き記しましたが、その冒頭で、『あらゆる尊い良き業の中で、第一の最高のわざは〈キリストを信じる信仰〉である』と述べています。
 日々の営みの中で、私たちは何が正解なのかわからないことに数限りなく出くわします。そんな時、イエス様の導きを信じて必死になって祈り、謙虚になって御言葉に聞きつつ、まず一歩踏み出すなら、そのわざを行う中で必ずイエス様のみ声が聞こえてきます。
 そのまま行くよう示されればそのまま続け、間違っていたのなら引き返す。イエス様の羊である私達にはにはそれができるのです。正解がわからないからと、なんのわざも行わないなら信仰の成長もありません。
 宣教111年を超えて守られ続けてきたこの教会は、今日も神様の愛と守りのうちにあります。100年前、羊達を導いてくださった神様は今日も私たちに変わることのない愛を注いでくださるのです。
 私たちは神様のみ声に耳を傾けながら「良き羊飼い」である主イエス・キリストと共に「良き業」をなし、信仰の喜びを分かち合って参りましょう。


今日は「母の日」
妻は教会学校のお友達から
可愛い手作りブーケをいただいて
ご満悦です

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