2020年1月6日月曜日

神の豊かな恵み(日曜のお話の要約)

降誕後第2主日礼拝・聖餐式(白) (2020年1月5日)
エレミヤ31:7-14  エフェソ1:3-14 ヨハネによる福音書1:1-18

 本日与えられたました福音書は、ヨハネによる福音書です。著者のヨハネは12弟子の一人で、イエス様に愛された弟子と自称しています。またキリスト教が大迫害にあった時も、殉教せずに生き延びた弟子と伝えられており、かなり長生きしたようです。

 ヨハネは当時の思想の中心だったギリシャ哲学も学び、様々な学問にも触れ、影響も受けています。しかし彼は、そういったことをいくら学んでも、永遠の命や罪からの救いはない、と言い切ります。イエス様こそすべてであり、全てはイエス・キリストご自身に帰って来ると心から信じ、そう述べているのです。

 本日のヨハネ福音書の1章1節「初めに言があった」という書き出しを目にして、ピンと来る方も多いでしょう。これは旧約聖書の創世記の書き出しと同じです。創世記には「初めに、神は天地を創造された」と書かれています。ヨハネは意識して創世記の書き出しと揃えているのです。

 ヨハネを含めて、ユダヤ教を信じる人々は、神様から遣わされた救い主が自分たちの元にやって来る日を何百年も待ち続けていました。しかし実際に世に来られたイエス様と多くのユダヤ人が抱く救い主のイメージとの間にはギャップがあり、ついには完全に否定して十字架にかけて殺してしまったのです。
ヨハネはイエス様が処刑されるとき、十字架のそばで見守りました。それは胸が張り裂けそうな体験だったことでしょう。しかし確かに息を引き取り墓に納められたはずのイエス様は3日目に蘇り、ヨハネたち弟子の元に戻って来てくださったのです。

 それまでヨハネは「イエス様とは神様から遣わされた特別な存在」と信じてはいましたが、この出来事を境に「イエス様御自身が神様である」ということに気づくのです。その思いを表わすために、ユダヤ人なら誰でも知っている創世記の1章1節の御言葉と重ね、イエス様こそすべての初めである、と書き出したのです。
 
ヨハネの書き出しはギリシャ哲学に影響されているので、抽象的で回りくどく思うところがあります。ですから、いっそこの「言」ことばと書いてあるところを全部「イエス様」と置き換えて改めて読んでみたら理解の助けになるかもしれません。

 「初めにイエス様があった。イエス様は神と共にあった。イエス様は神であった。このイエス様は、初めに神と共にあった。万物はイエス様によって成った。成ったもので、イエス様によらず成ったものは何一つなかった。イエス様の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
少し飛んで、10節です。
イエス様は世にあった。世はイエス様によって成ったが、世はイエス様を認めなかった。イエス様は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、イエス様は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
この「自分を受け入れた人」(イエス様を受け入れた人)と言うのはわたしたちのことを指しています。
イエス様は神様でありながら、肉体を持って、つまり人間となってわたしたちの間に住んでくださり、神様の想いの全てを伝えてくださったのです。私たちはそれを信じ、受け入れたので、平凡な人間でありながら「神様の子」、神様に愛される存在となったのです。

 「ローマ皇帝こそ神である」と崇めたてまつる社会の中で、イエス様だけが神だ、と口にし、迫害されてもなおそれを書き記す事は信仰と勇気の試されることであったはずです。しかしヨハネは信仰を持ってやり通し、のちの時代に伝えたのです。
 それは今の日本も同じです。日本社会の中で、イエス様こそ私の神なのから、他の神様に腰を屈めることはできない、とはっきりと自覚すると、毎日の生活の中で不都合なことはたくさん出て来ます。

 日本でも、西洋のこよみに倣って日曜が休みの職場はたくさんありますが、それは神様を礼拝するためではなく、学生なら部活の練習であったり、大人なら自分の趣味や家族サービスといったことに用いられるのが普通です。そこをあえて教会に礼拝に行くといえば、周りから変人扱いされかねませんし、人間関係がぎくしゃくすることもあるでしょう。これが今の日本社会における「見えない迫害」なのです。

 しかし、神様は私を、私たちを愛してくださり、関わりをもってくださり、必要なものは全て与えてくださいます。神様が私という小さな一人を選び、信仰に生きよとこの小さな群れに招いてくださいました。この世の闇に流されながら生きるのではなく、踏みとどまって光に生きよと示してくださったのです。一人一人がその御声に従い、神の豊かな恵みの年となりますように。私たちが一つのチームとなり、試練の時も仲間を信じ、神様の愛に信頼して、私たちの手でキリストの体である教会をこの地に与えられたキリストとして作り上げて参りましょう。


1月1日の新年礼拝では高校生のNさんがアコライトを
務めてくれました



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