2019年6月9日日曜日

全ての人に聖霊を(日曜礼拝のお話・抜粋)

聖霊降臨祭・聖餐式(赤) (2019年6月9日)
創世記11:1-9 使徒言行録 2:1-12 ヨハネ16:4b-11

 今日は聖霊降臨祭、ペンテコステと呼ばれる日です。
 「聖霊降臨祭」と言いますのは、本日読んでいただいた使徒言行録にあるように、イエス様が天に帰られた後、聖霊なる神が地上の弟子達の元に降臨することによって、現在のキリスト教会が始まりましたので、このように呼ばれています。
 それまで「キリスト教」という呼び方はなく、ユダヤ教の一つのグループにすぎませんでした。しかしこの日を境にユダヤ社会からキリスト教が飛び出して、世界各国に広がっていくのです。「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」というのは有名な聖書の箇所で、キリスト教の、世界への広がりを象徴している御言葉でもあります。

 50日前、私たちはイエス様が復活されてめでたしめでたし、とゆで卵をもらったり、美味しいものを食べたりしてお祝いをしましたが、実はイースター以降の礼拝では、弟子たちがなかなかイエス様の復活を受け入れられず、お化けだ亡霊だ幽霊だと大騒ぎしたお話を何度かいたしました。
 それでもイエス様が根気強く彼らに寄り添い、ご自分が蘇られたことを証明し、その意味を語ってくださったので、彼らはようやく元気を取り戻します。そして、自分たちにはなすべき使命があるのだと考え始めることができたのでした。

 しかしイエス様は蘇られてから40日目に、天に帰って行かれたのです。弟子達が見守る中、天に上げられ、「聖霊なる神があなた方のところに来られるとあなた方は力を受ける」との約束を残して、見えなくなってしまわれたのです。なんと、弟子たちは再びイエス様と離れ離れになってしまったわけです。では、彼らは聖霊降臨祭までのこの10日間、どうやって過ごしていたのでしょうか。唯一分かるのは、その間ずっと「祈っていた」ということです。
 使徒言行録の1章12節からの記録によれば、イエス様が天に帰られてからのこの10日の間に、ペトロをはじめとする11人の弟子たちと女性の弟子達、そしてイエス様の母マリアや、イエス様の兄弟達も集まって、心を合わせて熱心に祈っていた、と記録されています。その数は120人にもなった、と書かれています。

 客観的に考えてみますと、ペトロ達とイエス様の母マリア達が一つとなって祈っていたことに、少し不自然さを感じます。と言いますのは、イエス様が十字架に掛かった時、男性の弟子たちはヨハネを除いてみんな逃げてしまったのです。母マリアが息子を失った悲しみの中にいた時、寄り添ってくれたのは数人の女性の弟子たちとヨハネだけでした。
 「蘇ったのだから、あのことは水に流しましょう」というほど人の心は単純ではないはずです。ペトロ達の心にマリアに対する負い目はなかったのでしょうか。また、母マリアの中に、十字架のイエス様を見捨てて逃げたペトロ達への恨みは無かったのでしょうか。
 ただ、聖書はそこにはあまり深くは触れず、彼らがわだかまりを超えて、一つとなって、共に祈り合っていたことだけを記すのです。
 イエス様は、十字架の上で憎しみや恨みではなく、赦しを祈られました。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」
 イエスを信じる人々はこの祈りを自分の祈りとして心に刻みました。そしてこの祈りに倣うことで、負の感情に取り込まれないで互いに受け入れあい、一つとなることを学んでいきました。その結果が本日の、人々の祈りの姿なのです。この心のあるところに聖霊は降ってくださり、キリストの教会が始まったのです。

 イエス様はその教えを、改めてわかるようにご自分の弟子達に伝えてくださいました。そしてさらにそれを引き継ぐものが、今日において全てのキリスト教会に集う者なのです。私たちは聖霊をこの場所で感じ、そして、この世を生きて参ります。教会を通して全ての人に聖霊が注がれることを祈りつつ、喜びと感謝に満たされてまいりましょう。



雨の合間に、玄関脇の色づき始めたアジサイの間から
カエルの歌が聞こえてきます


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