2025年10月19日日曜日

「祈りに生きる」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第19主日礼拝(2025年10月19日)(緑)

創世記32章23―32節(旧56)

Ⅱテモテの手紙3章14―4章5節(新394)

ルカによる福音書 18章1―8節(新143)


 本日の福音書のたとえ話は、イエス様がご自分の弟子たちに向かって「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と前置きしてお教えになった譬え話です。しかし、このお話は、すんなりと分かるお話ではありません。


 この話は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が「社会的立場の弱いやもめを救う」内容です。結論だけに注目すると、未亡人は願いを聞き入れられ、助かったのだから「良い話」とも言えます。しかしこれは「悪い奴もたまには良いことをする」といった人情噺ではなく、祈りについてのお話です。


 この時、イエス様はエルサレムに向かって旅をしている途中でした。今までも祭りに参加するためエルサレムに行かれたことはありましたが、今回はただの巡礼の旅ではありません。十字架にかかるために旅をしておられるのです。


 私たちは時折、勘違いすることがあります。イエス様は神様で死んでも復活できるのだから、十字架なんか少しも怖くはないのだ、と思ってしまうのです。しかしイエス様はマリアから肉体を受けて人となって生まれたことで、福音書にあるように、疲れたとかお腹がすいたとか、喉が渇いたとか眠いとか、人間が味わう辛さを一つ一つ経験して来られました。ですから福音書にはありませんが、怪我をしたら痛いとか、熱が出たら辛いとか、そういった経験もされたはずです。それは神様の御子なら本来は経験する必要のなかった痛みでした。


 しかしあえてそれを経験されたイエス様は、これから後、ご自分が十字架で死なれる時の壮絶な苦しみを予想することができました。だからこそ十字架にかかる前の夜、ゲツセマネで神様に祈られ、この苦しみから逃れたいと思っていることを告白されたのです。


 一方弟子たちは身勝手にも、そのようなイエス様の苦しみを知りません。イエス様から「私は十字架にかかる」と聞かされても、なんのことやら、イエス様は王様になるんだ、と信じて疑わず、意気揚々とエルサレムを目指していました。そんな弟子たちの態度はさらにイエス様を苦しめ孤独に陥らせたことでしょう。


 さて、お話を福音書に戻しましょう。不正な裁判官のところに現れたやもめは、この裁判官に断られれば後がありませんから、死に物狂いで、脇目も振らずにお願いし続けました。それはもう、常識はずれなほどの熱心さとしつこさで頼み続けたのです。根負けした裁判官は、ついにやもめのために裁判をすることに決めます。しかしそれはやもめの境遇に同情したからでは決してありません。追い払っても追い払っても付きまとってくる彼女を黙らせるには、助けてやるしかない、と諦めたのです。彼はどこまで行っても不正な裁判官だったからです。


 こういう具体的な事柄と人物像を描き出した後、イエス様はおっしゃいました。「不正な裁判官でも、つきまとってくるものの必死さに根負けして助けの手を差し伸べるのだ。まして神様は、助けを求めるご自分の民の声をいつまでも無視したり放っておくようなことはあり得ない。」


 ここに登場するやもめは、初めのうちは自分を助けてもらう手段をあれこれ考え、友人や親戚に頼んだかもしれません。しかし結局、自分を助けることができるのは、不正な裁判官一人だと信じた時、他人まかせにしないで自ら出かけていき、脇目も振らずに自分の願いを言葉にして伝え続けました。


 彼女のように、自分の願いを自分の言葉で祈る、進んで祈ることは、神様に必ず届くのです。この姿勢、この態度を放棄しては何一つ得ることができないのです。


 本日読んでいただいた旧約聖書では、イスラエルの先祖の一人であるヤコブが神様の使いと格闘をします。これは信仰の証としてよく取り上げられます。自分の願いを神様に申し上げておきながら、一方で「こんなことは叶えられない」という強い不信仰が湧き上がってくる時、ヤコブがやったように無心になって主の使いと格闘し、自分の不信仰をねじ伏せる、という意味で証されることが多い箇所です。


 小さなお前が祈っても何の変化もないだろう、と周りから揶揄われたり馬鹿にされたりするかもしれません。しかしそれに惑わされてはいけないのです。


 神様の御心は、自動販売機にコインを入れてボタンを押したら望んだ商品がガチャンと出てくる、というような安易なものではなく、もっと大きな視点からあなたの祈りの言葉を叶えるために計画をしてくださるのです。人の目には何も変わっていないように見えても、神様はすでに働いておられます。ただそれを信じ抜くのに、信仰が必要なのです。


 イエス様はその信仰を持った人を地上に見出したいと願っておられます。わたしたちに与えられた祈りの言葉は、この世に神の意図つまりは思いと計画を伝えることでもあるのです。辛くても、どれだけ待たされても、神様を信じ続け、祈りの奉仕をやめてはならないのです。


 私たちのルーテル教会は最初のプロテスタント教会として、誰でも自分の言葉で祈れる教会として歩み出しました。キリスト教の信仰の中心は祈りであり、イエス様を知るものの祈りは、御心に叶う祈りであり、召し出された者が祈ることは基本中の基本であることを信じましょう。


 私たちは神様と会話するように、熱心に、諦めることなく、どんな時も祈りの生活をいたしましょう。神が祈る者として召し出して下さった。臆することなく、祈りを自分の言葉にして、捧げて参りましょう。神様は必ず祈りを聞いてくださるのです。


昨日は幼稚園の「芋掘り遠足」という行事に牧師が参加したため

土曜学校は第4週、25日に実施いたします

毎月変わってしまって申し訳ありません

連絡希望の皆様のお手元にご案内は届いたでしょうか?

どうぞお越しください



今回の土曜学校は紙皿を使って
秋らしいリースを作ります
アナベルのドライフラワーも
たっぷり使ってもらえるよう準備中です(^^)


2025年10月12日日曜日

「感謝の心」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(2025年10月12日)(緑)

列王記下5章1―3節、7―15節(旧583)

Ⅱテモテの手紙2章8―15節(新392)

ルカによる福音書 17章11―19節(新142)


 本日の福音書では「ガリラヤとサマリアの間に『ある村』があった」と記されています。そこには重い皮膚病の人たちが集められていました。この病を発病すると家族と共に生活することは許されず、病人だけを集めた場所で暮らさなければならなかったのです。それは旧約聖書の時代からずっと続いていて、律法にも記されている決まりでした。


 皆様もご存知のようにユダヤ人とサマリア人は歴史上のいざこざがあって、長年対立して来たのですが、ガリラヤとサマリアの間にあるこの村では文字通り同病愛憐むという状態で共存していました。


 同じ病を持つ同士、苦しみを理解し、いたわり合い、争いやいがみ合いよりも、思いやりの心で解決することを選び取り、平和に穏やかに過ごすことをモット―とする。病の苦しみはあっても、人としては「ユートピア」ともいうべき世界を築いていたのです。それは健康で上昇志向の強い人間の集まりではなかなか築けない世界でしょう。


 余談ですが、この「ユートピア」という言葉は、最近では「災害」とセットで語られることがあります。と言いますのも、災害が起こった時、共に窮地に陥った被災者同士が優しくなれることがあると、さまざまな被災地で確認されているからです。


 しかし、イエス様は彼らの生み出したユートピアに一石を投じられます。本日登場する10人は遠くの方から「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げます。それは律法に定められた通り「私は汚れたものです」と大声で呼ばわっただけで、本気で癒やしていただけるとは思っていなかったかもしれません。


 ただ、情報から遮断された彼らの耳にも、どこからかイエス様の奇跡の噂は届いていたのでしょう。「わたしたちを憐れんでください」という言葉には、形式だけではない、切実な期待が込められていたことでしょう。


 イエス様は彼らのそんな複雑な気持ちを汲み取ってくださいました。ですからあえてそれ以上近づこうとはなさらず、遠くから彼らに向かって「祭司たちのところに行って、体をみせなさい」と言われたのです。祭司だけがこの病が完治したことを保証し、社会復帰させる権限を持つ、と律法に記されていたからです。


 イエス様のお言葉を聞いた10人は、それを固く信じ、まだ癒しの兆候は見えなかったにも関わらず、出てはならないはずの村を出て祭司のところへ出かけます。すると、その途中で癒されたことに気づきます。まずはめでたしめでたしというところなのですが、実は大切なのはここからです。


 祭司の元へ出かけた10人の内9人は、自分は癒されたことが分かったので、そのままイエス様の言葉通り神の代理人たる祭司の元へ急ぎました。何よりも社会復帰、イエス様へのお礼はその後でゆっくり、と考えたのでしょうか。それとも喜びで胸がいっぱいで、イエス様への感謝の思いが吹っ飛んでしまったのでしょうか。


 しかし、1人だけ大声で神を賛美しながらイエスの元へ戻ってきた人物がいました。彼はサマリア人であった、と書かれています。


 ここで少しだけ推論を挟みますと、サマリア人にはユダヤ人のような神殿はなく、病が癒されたことを権威を持って宣言してくれる祭司にも心当たりがなかったのかもしれません。しかし、だからイエス様のところへ戻って来たのかな、と思うのは、少しへそ曲がりな考え方かもしれません。


 このサマリア人は、自分を癒してくださった方が神様そのものであると気づいたのです。その方はどんな民族も分け隔てず、憐れんでくださり、癒してくださり、救ってくださる方です。ですからもうどこかの神殿に走っていく必要はないのです。神の代理人のところへ行くのではなく、直接真の神様を賛美し、神様そのものであるイエス様の足元に平伏すことを何より優先したかったのだと思うのです。


 イエス様はサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。イエス様は彼の信仰を受け止められました。そして彼がこれから歩んで行く道を祝福し、送り出されたのでした。この後サマリア人がどのような生涯を歩んだかは記されていませんが、イエス様を神と信じ、共に歩んだことを信じたいのです


 ルーテル教会を含めて、多くの教会が使う礼拝式文の中に、礼拝の最後に司式者が「行きましょう。主の平和のうちに。」と語りかけ、会衆が「神の助けによって」と答える箇所があります。この時のイエス様のお言葉はこの一言を思い起こさせます。


 私たち日本人は、誰かと宗教の話になった時、「なんでわざわざキリスト教という西洋の宗教を信じるのか」と怪訝な顔をされることがあります。最近では「キリスト教は争いを続けるユダヤ教から出た宗教でしょう?」と嫌な顔をされることすらあって、伝道や宣教の難しさに直面することがあります。


 しかし、一番大切なことは、自分自身がイエス様を通して、唯一、まことの神を信じられるように招かれていることです。苦難にある時も罪人に定められる時も、イエス様はそばにおられ、救ってくだり、癒してくださり、地上の生涯がどれほど辛い終わり方をしようとも、神の国に招いてくださることを絶対変わらぬ約束として結んでくださった、これが真理であり、私の信仰、私たちの信仰なのです。


 複雑な時代、誰もが困難や苦しみを抱えています。だからこそ共に癒され、共に贖われ、共に真の神イエス様に礼拝することを喜び、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と喜び合う、その精神を忘れず、共に宣教していく道、伝道していく道を歩んで参りましょう。



10月10日午後1時から牧師館の茶室で

ミニ茶会を行いました


牧師は初心者、牧師夫人は初心者ですらない未経験者(笑)

しかも牧師夫人はひさ関節を痛めていて正座ができず

今はそういう方も多いので

教会から古い幼稚園椅子を運んできました


教会員の田口さん(和服の女性)と

そのお弟子さんが2人来てくださり

その都度、所作や道具について解説してくださり

2時間ほどはあっという間にすぎました


参加者随時募集中です!

興味のある方はぜひご連絡ください



床の間とか掛け軸とか
次回はちゃんと撮ります(^^;)


田口さんのお弟子さん

皆様、ありがとうございました

2025年10月5日日曜日

「信仰と神の業」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第17主日礼拝(2025年10月5日)(緑)

ハバクク書1章1―4節、2章1―4節(旧1464)

Ⅱテモテの手紙1章1―14節(新391)

ルカによる福音書 17章5―10節(新142)


 今日の福音書はイエス様が弟子集団に向けてお話になったものです。ここには「弟子」という言葉と「使徒」という言葉が使い分けられています。簡単に説明しますと、「弟子」はイエス様の信徒全体を指す言葉で、「使徒」とはイエス様によって特別に選ばれ、神様の言葉を宣げ広める使命を与えられた人々を指します


 キリスト教は、当初はその母体であるユダヤ教からも、周辺の多神教の国々からも疎まれ、迫害されます。それでも信仰を捨てなかった人々は、聖書を規範として誠実で死をも恐れない生き方は世間の人々から密かに尊敬を勝ち得ていました。


 しかし、やがてローマ帝国がキリスト教徒を公認し、4世紀の終わりには国教、国の宗教と定めたため、ガラリと環境が変わります。キリスト教は地中海世界全体に広がり、キリスト教徒は多数派となり、迫害に怯えることは無くなります。


 が、それと同時に、クリスチャンになる時に「命をかけてイエス様に従う」とまで覚悟を決る必要もなくなります。弟子はヨーロッパ全土に増え広がったものの、神様の言葉を宣げ広める覚悟を持った「使徒」と呼ばれる人々の存在は、特殊なものとなっていきます。


 かなり遅れてキリスト教が入ってきた日本は、この歴史の影響を強く受けました。日本のキリスト教信者は、戦前も戦後も宣教師から何かを教わることが中心になってしまい、せっかく教会の門を叩いても、入門当時の状態からあまり進歩せず、なかなか「使徒」は生まれてきませんでした。


 さて、お話をイエス様の時代に戻しましょう。


 福音書を記したルカが活動したのは、イエス様が天に帰られてしばらくしてですが、すでにキリスト教の中の弟子が全て使徒となる信仰を持っているわけではないことを見抜いていました。


 今日のお話では、「赦しの教え」を聞いてその厳しさと自分の心のありようを見つめ直し、今の自分ではイエス様のおっしゃったことを実行するのは難しいと考える一般の弟子たちと、「それが実行できるよう信仰を増してください」と願った使徒に分かれたのでしょう。


 私たちの心に痛みを生むのは、日常の中で生まれる恨みつらみです。問題の大小に関わらず、裏切りや蔑み、身に覚えのない言いがかりや、責任転嫁といったことは小学生でも経験します。怒りや悲しみを覚えつつも、クリスチャンであれば、誰かを恨む自分を嫌悪するかもしれません。そんな思いから解放されればどんなに良いでしょう。


 ことは案外深刻なのですが、このとき使徒たちは、まるで「宝くじが当たりますように」と祈るのと同じように、どこか安易な調子で「信仰を増してください」とイエス様に願ったようにも思えます。ところがイエス様は、そんな彼らに向かって「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を降ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とおっしゃったのです。


 使徒たちは一瞬何を言われたのか分からず、呆然としたことでしょう。単純に「信仰は量より質だ」と言われたと思ったでしょうか。「信仰が大きかろうが小さかろうが、それを働かせなければ何も始まらない」という意味でしょうか。


 からし種は聖書にしばしば登場する植物で、その種が非常に小さいことは皆さんもご存知でしょう。また、イエス様が「桑」と言われた木は、「いちじく桑」とも言われ、コブだらけで見た目は悪いけれど深く根をはる頑丈な木です。さらにその実は食用にもなったため、何かと重宝される木だったようです。


 ルカによる福音書では、この後の19章で徴税人ザアカイが一目イエス様を見ようと登った木として登場します。


 ザアカイは罪人として周囲から嫌われ、自分自身も誰かから好かれることなど諦めていました。そんな彼がいちじく桑の木に登り、イエス様と出会い、親しく声をかけていただき、神の国への希望を取り戻します。そして「お金こそ全て」という生き方を変えることができました。そうした意味で、いちじく桑の木は過去のザアカイの心に深く根を下ろす「罪の象徴」であったかもしれません。


 その罪の象徴がどれほど深く根を張っていようと、イエス様を信じ慕う者が「抜け出して海に根を下ろせ」「私から立ち去れ」と願うなら、罪の根は抜け、その木は海に沈むのです。自分の罪に正面から向き合い、イエス様を愛するが故に、自分の罪を捨て去る覚悟と努力をする者だけが「他人の罪を赦すことができる」とイエス様は言われます。


 ただ、神様は単純に「よくやった」とはおっしゃいません。「見てください、私は頑張ってあの人を赦しましたよ、褒めてください」と言っても反応がないかもしれません。ザアカイが悔い改めた時は「救いがこの家を訪れた」と言ってくださったイエス様ですが、すでに悔い改めてイエス様の弟子となっている者たちには、いちいち幼い子どもを褒めるような大袈裟な褒め方はなさらないのです。なぜなら、イエス様はご自分を慕うものが成長することを信じ、よく見ておられるからです。一段ずつ階段を上がってくる者を忍耐強く見守るように、わたしはあなたをちゃんと見ているよ、と示してくださるのです。


 私たちは「イエス様が努力を認めてくれない」と勘違いしてヘソを曲げるのではなく、自分を神様から引き離す全てのものから抜け出せるよう日々祈り続け、自分の中に再び罪の根を蔓延らせないように気を配り、神様と思いに心を一つにして生きていくのです。


 「漠然とキリスト教を信じている」という状態から抜け出して、遣わされた者として、遣わされたこの場所で神様から示された業を行う時、10節に記された「取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と心から言える信仰にたどり着けるでしょう



教会をリフォームするにあたり牧師館は
近くの古民家を借りました
そこにはお茶室があって

家の中に入らなくても
外側の路地と茶庭を通って直接行くことができます
ただこの路地、
日当たりが悪い割には雑草が茂りやすく

飛石は後付けの室外機の位置と相性が悪くて

妙な感じに埋もれているし

歩きにくくて仕方ありません
…ということで、思い切って奮発して
長年このお庭の手入れを担当してきた

地元の造園業者さんにお願いして

整えていただきました

飛石の位置もちょうど良くなりましたし

白川砂利の下にはもちろん防草シートが隠れています

10月10日は教会主催で初めての「お茶会」

この路地を通っていただけるのが今から楽しみでなりません


お隣さんと牧師館の間の路地
「使用前」をご存知ない方にとっては
なんということもない空間ですが
日常の手入れが格段に楽になって
大満足なのです

2025年9月28日日曜日

「天の国のラザロ」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第16主日礼拝(2025年9月28日)(緑)

アモス書6章1節、4―7節(旧1436)

Ⅰテモテの手紙6章6―19節(新389)

ルカによる福音書 16章19―31節(新141)


 「ラザロ」という名前は「神はわが助け」とか「神は助けてくださった」という意味です。本日読みましたルカ福音書に登場するラザロはイエス様が創作されたお話の登場人物ですが、ヨハネ福音書にもイエス様の友人としてラザロが登場します。


 ラザロが危篤になった時、姉妹たちはイエス様はすぐに癒しに来てくださる、と思って知らせを送ります。しかしイエス様は「この病は死ぬほどのものではない」とお答えになり、すぐに向かおうとはしませんでした。


 結果的にラザロは一度死んで墓に葬られます。ラザロの姉妹たちはその後でやってこられたイエス様に対して「もしもっと早くあなたが来てくださったら兄弟は死ななかったのに」と嘆きますが、イエス様は彼女たちを伴って墓に行き、そこで奇跡を起こされます。ラザロは死後4日も経っていたのに、蘇って墓から出てきたのです。


 このラザロに関しては諸説ありますが、病弱でいつ死んでもおかしくないと言われるほどだったようです。律法学者や政治家は、常日頃から健康は神様からの愛や祝福の証しである、と教えていましたから、病弱なラザロは神様から嫌われた者、憎まれた者ということになります。そのラザロが、神の一人子に愛され、命を取り戻したのです。たとえ話のラザロには、こちらのラザロのイメージが重ねられているのではないでしょうか。


 さて、イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の属国となって政治的に支配されていましたが、ローマは属国に対してかなり寛容でした。ローマに高額の税金を払う覚悟さえあれば、商売で成功して金持ちになることもできたのです。


 この例えに登場する金持ちは、ローマ帝国相手に何らかのビジネスで成功したイメージでしょう。彼は、豪華すぎるほどの衣装を身に着け、毎日のように贅を尽くした食事を堪能していました。


 イエス様はその金持ちの門の前にラザロという人物が横たわっていた、と言われます。ラザロは宴会の食卓から落ちるもので良いから食べたいと願いながらも叶わず、野良犬が、ラザロのできものをなめるという、悲惨な日々を送っていました。


 注意しておきたいのは、イエス様は、この金持ちが信仰を失った、とは言っておられないことです。ユダヤ人である以上、神様がおられることは心に刻まれています。この金持ちは神様を忘れたのではなく、神様の御心を忘れたのです。


 神様は人間に対し、ご自分を敬い、その教えに従って隣人を愛する努力をしなさい、とお教えになりました。自分にとって愛しやすい人や得になる人だけ愛するのではなく、損失を被ることがあっても恐れずに愛の行いをしなさい、という教えです。しかしこの金持ちはそこのところをすっかり忘れていたのです。


 一方、ラザロは富もなく、健康もなく、気遣ってくれる家族も友人もいません。何一つ持たない彼が、唯一持っていたのが神様への信仰でした。時には神様に恨み言を言ったかもしれません。しかし神様への信頼と愛だけは最後まで持ち続けたのです。


 そんな対照的な二人でしたが、死は誰にでも平等に訪れます。しかし地上の命の終わりは全ての終わりではありません。むしろ、この世で生きていた時間よりもはるかに長い、永遠の場所が待っています。人はそこで神と共に過ごせる天国という場所と、神から全く見捨てられた地獄という場所に振り分けられるのです。


 ところで、10年位前のことですが、名古屋の教会で牧師をしていた時、かつて積極的に日本宣教に関わった国々の現状を知り、意見を交わす話し合いに出席ことがあります。驚いたのは、アメリカの教会では聖書に地獄について書かれていることは伝えない、ということでした。


 その方は「アメリカの教会に集う信徒は小児洗礼を受けているケースが多く、皆がほぼクリスチャンなので、全員天国へと行けることになっているから、地獄など教える必要はないのです」と胸を張って言われます。また「地獄というのは東洋的な考え方で、欧米人にはそぐわない」と言われ、その意見にも驚き、悲しみさえ覚えました。イエス様もまさか、ご自分の教えが欧米のクリスチャンから「伝える価値がない」などと退けられるとは思ってもみなかったでしょう。


 このたとえ話を語られた時、イエス様には当時のユダヤ教が抱えていた問題が見えていました。たまたま何か上手くいったぐらいで驕り高ぶり、自分は神様に愛されていると信じ込み、弱者に対して「神に見捨てられた不幸な存在」と決め、つけ手を差し伸べることを拒む、そんな態度は神様が最もお嫌いになるのだ、と気づかせることだったのです。


 キリスト教のトップが、聖書の真理を歪めて間違いを押し付け、勘違いした信徒を育てる過ちは何度も繰り返されてきました。中世のルターの時代も「贖宥状」を購入することで罪が赦されるという、とんでもない間違いが罷り通っていたのはご存知の通りです。


 聖書には素晴らしいことや愛に溢れた文章だけが記されているという先入観に支配され、自分の思惑と違う箇所は読み飛ばす、という姿勢では、罪からの悔い改めや懺悔を学ぶことができず、いつまで経っても神の深い慈愛のメッセージを理解することができません。

 イエス様は「あなたが何者であろうと、私に助けられたもの、愛されたものである」と宣言してくださり、それを素直に受け入れた者が天国へと導かれていくのです。

 あなたは今、ラザロほどに悪い人生を送っているのではないかもしれません。しかしラザロと同じくらい私たちは神の愛に生きています。この愛を忘れず、自惚れず、高ぶらず、感謝の内に、神と人の間に生きて参りましょう。



月に一回、「みんなのトピックス」という教会報を発行しています。

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受付に置いてあるチラシ、JPGにして貼りました
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