2026年4月12日日曜日

「イエス様とトマス」(日曜日のお話の要約)

復活節第2主日礼拝(2026年4月12日)(白)

使徒言行録 2:14a&22~32(新215) 1ペトロ 1: 3~ 9(新428)

ヨハネによる福音書 20:19~31(新210)


 毎週月曜日の午前中は、在園児のための合同礼拝が行われています。幼稚園の先生から「今日は進級したばかりの子どもが初めて参加する礼拝です。子ども達に復活について教えてあげてください。」とリクエストされました。


 生まれてから3年、4年位の幼い子どもに「復活」について教える。「死ぬ」ということも、よく分からない子どもに「復活」のお話をするのは至難の業です。とはいえ、わたしなりにコツを掴んできまして、いきなり「復活」について話をすることはやめ、イエス様とはどういう方なのかということからお話しをすると、みんなが真剣に聞いてくれるのです。


 こども達一人一人と目を合わせて「みんなのことを本当に大事にしてくれて、困った時には助けてくれて、間違ったことをしたときには叱ってくれる人が死んでしまったら、どうする」と聞いてみたのです。


 病気の時は、抱きかかえて病院に連れて行き、転んで怪我をしたら痛くなくなるまで手当をしてくれて、大丈夫、大丈夫といってくれる方が、死んでしまったら?この言葉に子ども達は半泣きです。3年、4年しか生きていなくても、子どもは子どもなりに自分が愛を受けて育ってきたことは分かっているのです。いままで悪いことをしてしまったり、怒られてしまったことを、今からはしないようにとするから生き返って欲しい、とまで言ってくれました。すごい感受性だなあと思いました。


 幼い子どもでも自分は愛を受けて育ってきた、と理解できるように、2000年前のユダヤの人々もイエス様という方は、虐げられた者たちに心からの愛を注いでくださる方だと信じ、イエス様を慕いました。


 ところが、一部の人たちは、イエス様に革命家とか武力的に強い王様だとか、勝手に理想像を重ねており、イエス様の穏やかな姿に何か違うなあ、と思い始めます。権力者たちはそこにつけ込んで、イエス様を逮捕し、不当な裁判にかけて、十字架の上で殺してしまったのです。


 イエス様を信じていた人は、愛の教えも大きな力の前では無力なのかと絶望を抱きます。そして、イエス様を十字架に押し上げて殺した大きな闇の力から、なんとか逃れて自分の命を守ろうとしました。しかし、みなさんもご存知の通り、イエス様は三日後に復活なさったのです。


 本日読みました福音書は、イエス様の弟子の一人「トマス」の物語です。イエス様には12人の忠実な弟子たちがおり、トマスもその一人です。しかし12弟子のうち、ユダはイエス様を裏切った後、自殺してしまいます。残された11人の弟子たちは、自分達もイエス様と同じように捉えられて死刑になるのではないかと恐れ、閉じこもっていました。


 ところがイエス様は復活なさるとすぐ、弟子たちの隠れ家に来てくだださいました。しっかり戸締りされた部屋へ不思議なお力を使って入って来られたのです。弟子たちは驚きと喜びに包まれました。


 しかしなぜかトマスはそこにいませんでした。隠れ家に戻ったトマスは、他の弟子たちが見違えるように明るい顔で「イエス様が復活された」と語るのを聞きます。トマスは混乱し、「イエス様の釘の跡に指を入れるまで信じない」と乱暴な言葉を口走ってしまいます。


 この描写が一人歩きして、彼はよく「疑り深いトマス」と呼ばれますが、トマスが復活をすんなり信じられないのはもっともなことです。トマスはイエス様の掲げた愛の教えが無惨に踏み躙られたのを見ました。イエス様の教えを引き継ぎたい、という思いがどこかに残っていたとしても、そんな力は出て来なかったのです。


 トマスは「イエス様が復活したのが本当だとしても、なぜわざわざ自分がいないときに隠れ家に来られたのだろう」と、仲間はずれにされたような、悲しさと怒りを覚えたのでしょう。


 しかし、もちろんイエス様ご自身はトマスに意地悪をしたわけではありません。イエス様がなさることには全て理由があります。イエス様はこれから先、いつまでもが弟子たちと共にいられるわけではありませんから、「見なくても復活を信じることができる」という信仰を授けようとされたのです。


 トマスが悶々と過ごして8日後、イエス様は再び弟子たちの隠れ家を訪れました。鍵のかかった扉を通って入って来られたことも前回と同じです。そして今度はトマスもそこにいました。イエス様はトマスに向かって、ご自分の傷に触れるようおっしゃいます。それは8日前トマスの「釘跡に指を入れ、脇腹の傷に入れなければ信じられない」という暴言をちゃんと聞いておられたことを表しています。


 この瞬間、トマスは悟ります。イエス様は自分が駄々っ子のように「見てない、会ってない、だから信じられない」と喚いていた時も、本当はすぐそばで見守ってくださり、自分を導くために最良のタイミングを計画しておられた、とわかったのです。ですからトマスはイエス様の傷跡に触れることなく「我が主、我が神」と信仰を言い表しました。


 するとイエス様はトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。このメッセージは、トマスに向けられたのと同時に、イエス様が天に帰られたあとも、今に至る2000年の間に信仰に導かれたすべてのクリスチャンに向けられた、尊い御言葉となりました。


 「疑いから確信へ」。まず疑いから始めることは誠実なプロセスです。揺るがない信仰を持つために、神様が与えてくださった恵みです。復活を信じるとは、理屈ではなく、聖書を通してイエス様の愛に触れた時、イエス様が神様であり、十字架からの復活は決しておとぎ話ではない、と染み入るようにわかってくるのです。


 教会は、神様がご計画された者たちの巡り合いの場でもあります。あらゆる理屈を超えて、トマスが「私の主、私の神」と告白したように、私たちも力強い信仰を告白してまいりましょう。


昨日は土曜学校でした

一週間遅れのイースターをみんなでお祝いです

保護者の方に協力していただいて

園庭にゆで卵を隠し

エッグハントを楽しみました


エッグハントでゆでたまごをゲットした後は
木製の小さなウサギに色をつけました


D君のウサギは鮮やかな黄色
本人とお揃いだね

2026年4月5日日曜日

「あの方は復活された」(日曜日のお話の要約)

主の復活礼拝(2026年4月5日)(白)

マタイによる福音書28章1-9節


 みなさん、イースターおめでとうございます。


 突然ですが、みなさんは怖いものってありますか?小さいお友達は、虫とか、注射とか、夜中にトイレに行くのが怖いとかかな?大人の人も「私は怖いものなんかない」と威張っていても、本当はいろんなことが怖いものです。


 神様やイエス様、天使たちはそれを知っているので、人間たちを「恐れるな」、と励ましてくれました。だから聖書には「恐れるな」という言葉がたくさんあります。ある学者さんが聖書を全部調べて数えたら、なんと300以上あったそうです。


 今日の聖書箇所にもありますよ。天使が言った言葉が「恐れることはない」ですね。この他に「恐れることはない」と書かれているところを知っていますか?例えば、クリスマス劇で天使が羊飼いに言った言葉を思い出してください。


 天使が羊飼いに「イエス様がお生まれになった」と、嬉しいお知らせをしようとしました。ところが、羊飼いは自分のところに立派な天使が来るなんて考えたこともなかったので、何か悪いことをして天使がバチを当てにきたんだ、自分は死んでしまうかもしれない、と怖くなりました。天使はそれに気がついて「羊飼いさん、怖がらなくていいですよ」と言ったのです。


 他に有名なところでは、お弟子さんたちが夜の湖で、うまく舟が漕げなくて困っている時、イエス様が湖の上を歩いて助けに来た時のことです。


 お弟子さんたちは、まさかイエス様が水の上を歩けると思いません。夜中に水の上を歩いて近づいて来るイエス様を幽霊と見間違え、呪い殺されると勘違いしてとっても怖がりました。それでイエス様は「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と言ってくださったのです。


 人間はいろんなものが怖いけれど、「死ぬこと」が一番怖い、と天使もイエス様も知っていました。大人になると「あとどれくらい生きられるのかなあ」とか、「死んだらどうなるんだろう」とか、「苦しんで死ぬのは嫌だなあ」とか「死ぬこと」を考えることが多くなって、怖くなってきます。


 神様は天国からそれをご覧になって、人間がかわいそうになりました。そこで「きれいな心を持っていれば、死んでも神様の国に来られるから、怖がらなくても大丈夫です」と教えました。


 ところがです。大抵の人間は、自分が綺麗な心を持っている、と思えないのです。小さい子でも、お友達の嫌がるいたずらや意地悪を、わざとすることがあります。大人になれば、仲良くできない人に意地悪をすることはもっと増えます。綺麗な心の正しい人になるのはとても難しいのです。そして「私のやった意地悪や嘘は神様には全部バレているだろうなあ」と思って、自分みたいな人間は天国に行けない、地獄かもしれない、死ぬのが怖い怖いと言い続けるのです。


 困ってしまった神様は、人間を助けるために、すごい計画を立てました。それはこんな計画です。ある人が、もうめちゃめちゃに悪いことをしたとします。警察に捕まって、死刑になることが決まりました。普通ならそんな人は地獄行きまっしぐらです。でもその人が心の底から悔い改めて、つまり反省して、イエス様にお祈りするなら、死刑になっても、地獄ではなく天国に行けるようにイエス様が助けてくれる、というのです。


 どうやって助けると思いますか?それはイエス様が、悪いことをした人の身代わりになって、最高に痛くて苦しい死に方で本当に死ぬ、という計画だったのです。


 イエス様は「死ぬのが怖いよう」と泣いている人間が、もう怖がらなくて良いように、苦しい十字架の死刑になりました。悪いことをした人でも、「イエス様、私の代わりに十字架にかかって、苦しい思いをさせて本当にごめんなさい。ありがとう」と心からお祈りできれば、もう大丈夫。天国に行くことができるのです。


 さて、今日の聖書の箇所をもう一度見てみましょう。イエス様が死んで三日目の朝早く、お弟子さんの中で、勇気のある女の人が二人、お墓に行ったと書いてあります。死んでしまったイエス様のお体を綺麗にしてあげようと思ったのです。


 女の人たちはすごく悲しくて、「イエス様を助けてあげられませんでした、ごめんなさい、赦してください」。そんなふうに考えているうちにお墓につきました。するとそこに天使がいたのです。女の人たちは、イエス様を助けられなかったバチを当てにきたのかな、私たちは死ぬのかな、とガタガタ震えました。


 でも天使は言いました「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」


 女の人たちはびっくりです。嬉しくなって、他のお弟子さんたちにも教えてあげようと、お墓を飛び出して走り始めました。するとなんと目の前にイエス様が立っていて、明るく「おはよう」と言ってくださったのです。天使の言ったとおり、イエス様は一度死んで、三日目に復活なさったのです。これが神様のご計画でした。


 「あの方は復活なさったのだ。」天使の言葉はとても大切です。イエス様は冷たいお墓にいるのではなく、天国からただ見下ろしているのでもなく、どんな時も私たちを見守ってくださいます。


 私たちの人生は幸せなことがいっぱいあるでしょう。そしてそれと同じくらい泣きたくなって、怖くなって、もうだめだ、と思うこともあるでしょう。でも、どんな時も、イエス様も天使も神様も「恐れるな」と言ってくださいます。


 そのお言葉を信じて、私たちが天国に行く時まで、イエス様と共に歩き続けましょう。「イエス様は復活なさった。恐れるな」これを私たちの大切な言葉としてまいりましょう。



本日は復活祭

皆様はどんなふうに過ごされたでしょうか?

飯田教会では、リーベクワイヤ(ハンドベル)と

ルーテルキッズバンドが賛美を担当

キッズバンドのメンバーは朝のリハーサルが終わると

たまご探しを楽しんでから

礼拝に参加しました


リーベクワイヤさんのハンドベル演奏を
ちゃんと座って聞いている子どもたち


教会員の方から写真をいただきました(^▽^)


アレルギーのお友達がいるので
たまご探しはゆで卵ではなく
「たまご型カプセル」に
キャンディと小さな十字架の
ペンダントを詰めてみました
どんな反応かなあと思いましたら
「これをつけて歌っていい?」と大はしゃぎ
予想を上回る反応にこちらも嬉しくなりました

2026年3月29日日曜日

「主のエルサレム入城」(日曜日の説教の要約)

四旬節第6主日礼拝(2026年3月29日)(紫)【枝の主日礼拝】

イザヤ書50章4-9a(旧1145)

フィリピの信徒への手紙2章5―11節(新363)

マタイによる福音書 21章1―11節(新39)


 さて、明日から教会のこよみでは受難週と呼ばれる一週間を過ごします。この1週間は主イエスが十字架に着くまで、どのように過ごされたかを追体験していきます。一番大きな事としては、木曜日の夜に教会に集まり、イエス様が弟子たちの足を洗ったようにお互いに支え合うことを確認し、最後の晩餐の出来事を振り返ります。翌日、金曜日には十字架に掛けられた午後3時に集まってイエス様の苦しみを覚え、自分の罪深さを振り返りつつ3日目の復活に備えるのです。


 教会にもよりますが、平日に集まることが難しい、という理由もあってこうした礼拝はやらなくなったところが多いようです。キリスト教の華やかな典礼、クリスマスやイースターは、楽しく和気あいあいと過ごそうと演出を考える教会員も、イエス様を苦しめた、人間の罪の恐ろしさ、ひいては自分の罪深さに関しては、とりあえずスルー、という方が増えてしまったようにも思います。


 まあそういった批判的なことはちょっとわきへおきまして、本日は受難週の幕開け、棕櫚の主日と呼ばれる日曜日です。イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城されたことが新約聖書の四つの福音書すべてに記されている、重要な場面です


 入城と言うのは、首都エルサレムの街が城壁に囲まれているからです。織田信長などが出てくる時代劇で京都に登ることを「上洛」と言いますが、イエス様が堅固な城壁に囲まれた街に入っていかれるお姿は、何かそれを思い起こさせる力強さです。


 民衆はそのようなイエス様を見て、喜び、興奮し、棕櫚の枝を振って「ホサナ、ホサナ」と迎えいれ、自分達の上着をカーペットのように道に敷き詰めました。


 彼らはイエス様にそれぞれに自分の願いを重ね合わせ、この方なら豊かな暮らしを取り戻してくれる、とか日頃の不満の解消を叶えてくれる、などと期待したのです

 ただ、人々は目の前でイエス様がロバに乗っておられることの意味をどれほど深くとらえていたのでしょうか。


 旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王が来る。彼は正しく、勝利を得る者、へりくだって、ろばに乗ってくる。雌ろばの子、ろばの子に乗ってくる。」という一節があります。ユダヤの人々なら、当然思い浮かぶ一節です。


 本来ならば、人々は威厳のある軍馬ではなく、小さくて不格好な「ろば」に乗って現れた、ちょっと道化のようなイエス様のお姿を冷静に、かつ尊敬を持って捉え、理解するべきでした。イエス様は武力による支配など、全く望んでおられませんでした。それどころか、神の愛を持って人々を治めようとなさるので、軍馬ではなくロバに乗られたのだ、ということをどれほどの人々が理解したでしょうか。


 イエス様ご自身は、この人々が勝手にご自分に期待し、勝手に期待を裏切られたと怒り出すであろうことをご存知でした。数日後には手のひらを返して「十字架にかけろ、十字架にかけろ」と叫ぶことを知っておられたのです。もちろん正確には同じ人々かどうかはわかりません。しかし、人の心があっという間に変わってしまう醜さと、それでも前へ前へと進み続けたイエス様の豊かな愛がここで対比されているのです。


 私たちはこの聖書箇所を読むたびに、ユダヤの人々の心変わりに呆れますが、実は自分自身の心もまた変わりやすいことを知っています。高く評価していたはずの人を一瞬で嫌いになったり、些細なことで尊敬から軽蔑に変わってしまったり。


 そしてコロコロと心や態度を変える自分の不誠実さよりも、こうなったのは向こうの責任だ、と開き直ってみたり、期待と裏切りの中で、もがいて生きているのです。


 そんな私たちの移ろいやすい心や見栄や欲望、そして自分勝手な期待や我儘という、神さまから目をそらさせるその罪の報いを、ご自分が十字架で引き受けるために、イエス様はあえてロバに乗られたのです。


 私たちは今日も「ホサナ、ホサナ私を救ってください」と叫びをあげます。「今、この瞬間救ってください」という叫び、「なんでもいいから助けてください」という悲鳴。それを突き詰めると本当は、「欲しいものをください」という駄々っ子に似た、欲望と見栄に縛られた自分自身に気づかされるかも知れません。


 イエス様の思いを理解できないまま、助けを求めて泣き喚く私たち。本当の助けの意味すら知らない私たち。それは神様の目から見れば、救うに値しない、手を差し伸べる価値のない、愚かな集団に見えたかもしれません。それでもイエス様は「この空虚で、すぐに飽きるものに心を奪われてしまう、情けない私を、どうか助けてください」という魂のSOSを拾い上げ、哀れみ、愛して、手を差し伸べてくださるのです。


 新しくリノベーションのなった会堂は、幼稚園の遊戯室としての役割から解放されましたので、受難週の礼拝、聖月曜日から聖金曜日まで礼拝を守る喜びが与えられています。けれどもそこまでイエス様に向かって心を注ぎ出すが礼拝がなかなかできないのは、何をイエス様に償って頂くものか、何から救っていただきたいと思っているのか、何を差し出すかが分からないまま、ここまで来たからかも知れません。


 それでもイエス様は、2000年前のユダヤの人々に注いだのと同じ愛を持って、私のかっこ悪い部分も、あなたの過去へのこだわりも、心の中に仕舞い込んでおきたい全ての罪を背負って十字架へと向かってくださったのです。あなたを愛するが故に。その大きな愛の前に、今日、畏れとかしこみをもって、自分自身を差し出そうではありませんか。



教会の広報誌「みんなのトピックス」
よかったら拡大して読んでください
今週、来週とお葬儀が続きます
神様の元で再会できることはわかっていても
今ここにいない、声も聞けない
ということは寂しいものですね
ご家族に神様の慰めを祈ります

2026年3月22日日曜日

「キリストは復活と命」(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2026年3月22日)(紫)

エゼキエル書37章1-14(旧1357)

ローマの信徒への手紙8章6―11節(新284)

ヨハネによる福音書 11章1―45節(新188)


 本日の福音書は、ラザロの復活というお話で、死者の蘇りという衝撃的な出来事が記されています。受難週の前に、「もう手遅れだという諦めや絶望からの回復について」一歩踏み込んだ話として記されています。


 17節には「死んでからすでに4日もたっていた」と書かれていて、蘇生するには完全に手遅れであることを表しています。大切な人を失って「絶対無理だ」と絶望感を覚える時、イエス様は私たちに何を示してくださるのでしょうか。


 その前に、先ほど旧約聖書のエゼキエル書37章を読んでいただ来ました。これは受難節によく読まれる、「枯骨の谷」という有名な箇所です。死んで四日後どころではなく、いつ命を失ったのかわからないほどにカラカラに乾き切った骨に向かって、預言者エゼキエルが「神様の霊が入り、生き返る」と預言すると、骨がカタカタと組み合わさり、肉と皮に覆われて蘇るのです。


 この聖書箇所は、戦争に敗れ、信仰を失って霊的に死んでいたユダヤの民を、神様は新しい命へと再生させることができる、というテーマで表されています。それと同時に、神様はどれほど不可能と思われる状態からも、どんな命でも再生させることがおできになる、という「復活の希望」がシュールなタッチで描かれているのです。


 イエス様を出迎迎えたラザロの姉妹であるマルタは、ユダヤ人として幼い頃から旧約聖書に親しんできましたから、この聖書箇所を知らないわけはありません。ですから、イエス様が「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃった時、否定などせず、丁寧に「終わりの日に復活することは存じています」と答えたのでしょう。


 彼女は神様への信仰を失ってはいませんでしたが、兄弟の死という悲劇の目に、現実を自分なりに受け止めようと必死だったのです。


 気休めのような慰めはいらない、そんな思いに囚われている時、神様への信仰を持ってはいても、今目の前の出来事に神様のお力は適応されないだろう、と思ってしまう。言い換えれば、私なんかのために奇跡を起こしてくださるはずがない、私は見捨てられたのだ、という諦め。厳しい言い方ですが、この時彼女は信じているふりをしていることで済まそうとしたと考えられます。なぜなら本音は他のところに現れているからです。


 イエス様に向かって、マルタとマリアはそれぞれに同じ言葉を発します。マルタはイエス様を出迎えるとすぐ、「主がここにおられたら、私の兄弟は死ななかったのに」と言います。これは「過去への後悔」と「今の絶望」の中にいることをよくあらわした言葉です。


 マリアはマルタのようにサッとイエス様を迎えに行くことはできずにいました。マルタに呼ばれてイエスを迎えに村の入り口まで行くと、感情を抑えられず、「主がここにおられたら、私の兄弟は死ななかったのに」と泣き崩れるのです。


 他の人々も泣いているのをご覧になったイエス様もまた、涙を流されます。「イエスは涙を流された」この言葉は、聖書の中で一番短い言葉です。イエス様はラザロを生き返らせる力をお持ちであるにもかかわらず、死というものが人間をこれほど深い悲しみに陥れるのか、と改めて知り、周囲の悲しみに深く共感し、死の力に対する憤りと深い悲しみを涙で表されたのです。


 正論より寄り添い。悩んでいる時に「あなたが悪い」と分析されたり、「がんばれ」と励まされたりするより、ただ一緒に泣いてくれる人が必要なのではないでしょうか。神様は私たちの抱える絶望を「不信仰だ」と突き放すのではなく、誰よりも先に「一緒に泣いてくださる方」なのです。


 しかしこのお話は共感して泣いてくださっただけでは終わりません。イエス様は墓の入り口に立ち「石を取り除けなさい」と言われます。石を取り除ければ、腐って悪臭を放つ遺体と直面することになります。絶望と共に葬った遺体とをもう一度眺めれば、さらなる絶望しかありません。しかし、イエス様は人々に強いて石を取り除けさせると、暗闇に向かって、「ラザロ、出てきなさい」と叫びました。


 神様の声、イエス様の声は、私たちが「ここはもう見せられない、届くはずがない」と諦めている汚い場所にこそ、真っ先に届くのです。


 こうしてラザロは再び命を得ました。キリストから命を得、復活に預かったのです。ラザロは顔を覆いで包まれ、手と足を布で巻かれたままで、まるでゾンビのようです。それをご覧になったイエス様は穏やかな声で人々にこう言われました。「ほどいてやりなさい」。


 復活し、まだ十分に動けないでいるラザロに、イエス様はご自分で手を出すのではなく、ほどくのは周りの人達に任せられました。ここからはあなた達でできるだろう、と言われているようです。


 私たちを縛っている「過去や失敗」や「どうせ無理だろうという諦め」、生と死を隔てている包帯。そのようなものが見えていたとしても、イエス様は今日、泣きながら、叫びつつ、そして、ほどいてやりなさいとおっしゃいます。キリストが命であり、復活であるからです。


 もちろんこの後、蘇ったラザロにも、マルタにもマリアにもこの世の命が終わる時が訪れます。しかし復活の命を知った彼らは、喜びを持って御国で新たな命に蘇ったことでしょう。復活とは、誰も死なないでゾンビのように生き続ける教えではなく、人は一度死んでも新しい命を得ることができる、それを信じなさい、というイエス様の涙をもった教えなのです

 寒かった冬も終わり、あっという間に花々が咲き始めました。十字架に向かうイエス様は、命の在り方を変えるために、私たちの身代わりになって死ぬことで、私たちに「何度でもやり直せる命」をくださいました。


 「もう遅い」なんてことはありません。むしろ、これからです。今日、みなさんにある包帯をほどき、ほどかされ、あらたに命を得たものとなり、そして、軽やかな気持ちと足取りになり、キリストにある我が道を歩んでまいりましょう。




幼稚園正門入り口のすぐそばに
小さな植え込みとプランターの置かれたミニ花壇があります
そこの住人(?)ブリキのカエルさん
厳しい冬でボロボロになったこのヒトが
春の日差しの中で見つめる先には何が?

もうちょっと寄ってみましょうか

はい、青空のもと
卒園式が行われたのです
昨今いろいろ差し障りがありますので
式典の模様や園児さんの写真は載せられませんが
おめでとうございます
(式典そのものは礼拝堂で行われました)


いくつかの植物を実験的に植えてみましたが
早朝はマイナス10度近くにもなる厳しい飯田の冬
吹きっさらしで生き残ってくれた草花は
パンジー、ビオラ、シロタエギク、葉牡丹くらいでした
でも、一冬の寒さを耐えた花々は
喜ぶようにもりもりと咲いています
子どもたちもかくあれ〜〜〜(^▽^)