2025年11月30日日曜日

「主は来ませり」(日曜日のお話の要約)

待降節第一主日礼拝(2025年11月30日)(紫)

イザヤ書2章1―5節(旧)

ローマの信徒への手紙13章11―14節(新)

マタイによる福音書 24章36―44節(新)


毎週一回、幼稚園で子ども達と一緒に合同礼拝をおこない、讃美歌を歌ったり園長先生と交代でお話をしたりしています。今回は「ライオンもなかよし」という紙芝居の読み聞かせをしました。


 信仰深い大臣のダニエルが、政敵の罠に嵌められ、空腹なライオンの穴に入れてしまいます。しかしダニエルは神様に守っていただいたので怪我ひとつせず、再び元の地位に戻る、というお話です。


 この物語の舞台は今から3000年近く前に実際に栄えたバビロニア帝国です。主人公のダニエルはユダヤ人で、バビロニアとの戦争で祖国を滅ぼされ、捕虜とされながらも神様への信仰を捨てず、地位を築いていった人物です。


 子どもたちに紙芝居を読む前に少しだけ質問をしました。「なくなるもの」ってなあに?すると年長のある園児が「おじいちゃん」と答えました。「なくなってどうなったの」と聞きますと「死んだ」と答えました。幼い子どもでも「なくなる」は「死ぬ」と同じ意味だと知っていたようです。


 ともあれ、子どもたちはすんなり物語の中に入り込んで、素直な合いの手を入れ始めました。「それはバビロンの王様が悪い」とか「大丈夫だよ、ダニエルは神様が守っているんだから」とか「ダニエルがいるから、この国は安心だね」という大人顔負けの感想を聞きながら読み進めました。


 読み終わった後「クリスマス劇に出てくる東の国の博士さんたちはバビロンの国のあたりからやってきたんだよ」と伝えると、劇で博士の役を演じる予定の園児が、歌詞をかみしめるように歌ってくれ、それが祈りの言葉にもなりました。


 私たちはこの世の中に大切なものがたくさんあります。多くの人にとって最も失いたくないものは自分の命でしょう。もちろん例外はあって、自分の命よりも大切なものをお持ちの方もおられるかもしれませんが、それでも自分の命に限りがあることをリアルに知る時、私たちは苦しみ絶望するでしょう。死んだら何もかも終わりだ、あるいは恐ろしい地獄が待っている、そんな思いが死を前にした人間をなおさら苦しめるのです。


 しかし、人間がそのように絶望することこそ、人間をお作りになった神様にとって最大の哀しみなのです。ですから神様はどのような方法を用いても人間を死の苦しみから救わなければならない、と考えておられるのです。限られた時間を大切に生きた後は、すべてを神様にゆだねる信仰さえあれば天の国に導かれることを信じて、一人子イエス様から差し出された御手を取ることを望んでおられるのです。


 ところで、先ほどマタイ福音書をご一緒に読みました。クリスマスの準備に入る待降節第一の礼拝は、例年イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城される箇所を開き、イエス様が民衆にホサナホサナと迎えられる様子を読んできました。


 この時イスラエルの人々はイエス様を王様として迎えます。しかし1週間も経たないうちに人々は権力者に扇動されるままに「十字架につけろ」と叫び出します。そうしてイエス様はこの世界の反乱者として捕えられ、十字架に付けられて殺されてしまいます。イエス様を心底尊敬していたはずの弟子たちでさえ、自分とイエス様とは無関係だと言い張って、見限るかのように逃げてしまいます。


 栄光から挫折へ、十字架のイエス様はこの世の全ての絶望を一身に背負っているかのように見えます。しかし、これは神様のご計画でした。


 神様はあえてご自分の一人子であるイエス様を人として生まれさせ、苦難の全てを負わせますがイエス様はどんな時も神様を信頼し、十字架の死さえも耐え忍ばれました。そして神様はイエス様を三日目に復活させられます。この出来事は、2000年前のイスラエルのエルサレムで本当に起こった出来事なのです。


 この出来事を通し、神様は死は決して全ての終わりではないことを示されたのです。神様の国は地上のどんなことにも侵略されることのない、変わらずに、永遠に在り続ける場所なのです。


 本日の福音書には「二人のうち一人は連れていかれ、一人は残される」という謎めいた言葉が記されています。これはイエス様の救いの言葉を聞いても、それを信じて天の国に招かれる人と、拒否する人に分かれる、という意味です。


 確率が二分の一、という意味ではありません。一緒に寝ている家族であっても、仲良く仕事をする間柄であっても、どちらの人がイエス様を信じて天国に招かれ、どちらの人が一生イエス様を拒否し続けて天国に行きそびれるかは、人間にはわからない、という意味なのです。ただイエス様は「信じる人は幸いだ」と語られ、ご自分と出会った時にその手をとってほしいと強く願われます。そして聖書にはその御言葉が記されているのです。


 世界の終わり。昔は観念的に捉えていました。ところが今、どこかの国が核兵器を用いてが始まれば、わたしたちの命はあっという間に消し飛んでしまいます。平凡な日常も、ささやかな幸せも、夢や幻のように消えてしまうのです。それはおとぎ話や仮定の話ではなく、今わたしたちの目の前に迫っている危機なのです。


 かつては世界の先進的な国々はイエス様の教えを信じることで、愛や良識、平和への願いを育みました。しかし今、欧米諸国のクリスチャンの多くは権力や金銭による支配に心を奪われ、かつてのような「平和を作り出す人々」とは程遠い、形式的なキリスト教になっています。


 イエス・キリストはご自分が極限まで苦しんでもなお、私たちとこの世界を愛してくださいました。間も無くクリスマスがやってきます。ここから始まるキリストの平和が、実現していきますように、また、みなさんに与えられた信仰が深く、豊かになりますように。今まさに来られる主イエスを迎え入れ、この場所にも天国のと変わらない愛が満ちる場所となりますように祈り、支え合ってまいりましょう。



今日から待降節(アドベント)

聖家族像を飾ります

小さくて素朴なファーストクリスマスの情景

同じ像ですが昨年までと今年の違いわかりますか?

上が今年、下が昨年です



はい、ヨセフさんの杖です
ずっと手ぶらで気になっていたので(^^)
ワイヤーを捻って杖を作って
持ってもらいました


リーベクワイヤさんのハンドベルで
アドベント気分が盛り上がります

2025年11月23日日曜日

「我らの救い」(日曜日のお話の要約)

永遠の王キリスト・聖霊降臨後最終主日礼拝(2025年11月23日)緑

エレミヤ書23章1―6節(旧1218)

コロサイの信徒への手紙1章11―20節(新368)

ルカによる福音書 23章33―43節(新158)


 私たちはこの1年間、ルカ福音書から学び、御言葉を分かち合ってきました。著者ルカはイエス・キリストという神の御子の姿を、当時の人々にとっては当たり前だった人種や貧富の違いによる偏見を軽々と超えていく救い主としてリアルに描きました。そして、この世の全ての人々は過ちや罪を犯すけれど、イエス・キリストによって救われる価値があるのだと、宣教のメッセージを記し、私たちの心を導いていくのです。


 ニュースを見ても新聞を見ても明るい話題には乏しく、未来への不安を抱えながらも、社会がどのような状態となっても福音を信じ福音を伝えていく使命を神様からいただいています。だからこそ私たちはイエス・キリストが死に向かう物語を共に読み、受け止めていくのです。


 イエス様の十字架の出来事は福音書の最もたいせつな記述で、4つ全ての福音書に記されており、イエス様が十字架に付くまでの間に様々な人々が登場し、さまざまな人間模様も描かれています。


 私たちはゲツセマネでイエス様を捕らえに来たのは兵士たちだったと漠然と思っていますが、実は兵士という言葉はヨハネ福音書に記されているだけで、それ以外の福音書は祭司長や律法学者に煽動された群衆がイエス様を捕らえにきた、と書かれています。


 この人々は権力者から「イエスを捕らえることが正義だ」と煽られたのでしょうか。ホサナホサナと迎えた人々と同一かどうかはわかりませんが、凄まじい手のひら返しと言えるでしょう。


 そして、そんな群衆に翻弄されたのがユダヤの総督ポンティオ・ピラトです。彼はイエス様を死刑にしないで釈放しようとしますが「十字架につけろ」という群衆の声に押し負けて死刑判決を下してしまいます。自分が信じた正義を貫けなかった結果、ピラトの名前はイエス様に苦しみを与えた悪名高い人物として、使徒信条に刻まれてしまいました。


 これらの計画を実行に移した祭司長たちは、何も悪役として君臨しようとしたわけではなく、政治的な駆け引きでイスラエルを守ろうとした結果、ローマとの争いの火種になりそうなイエス様を排除したのです。


 イエス様を十字架に押し上げた人々は、それぞれが個人的に、あるいは社会的に「平和」を願い、守ろうとしたのかもしれません。しかし選んだ方法は最悪でした。それでもイエス様はご自分の命を奪おうとする人々の、自己保身や身勝手さという心の醜さや思いの貧しさを全てご存じで受け入れ、赦そうとされたのです。ゲツセマネの園で弟子達が眠ってしまった後も、血が滴るように汗が流れる中で、十字架に掛かることを決断されたのです。


 人々の心の醜さに触れ続けたイエス様にとって、十字架の上で聞いた犯罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」という信仰告白は、どれほど大きな慰めになったでしょう。


 この人物は十字架につけられるほどの重い罪を犯した犯罪人です。社会からは救いようのない人物と判断され、捨てられたのです。しかし彼は最後の瞬間にイエス様を神の子と信じ、天国への希望に縋ろうとしました。そしてイエス様は人生で最も苦しく辛い瞬間に、ご自分の行動が決して無駄ではなかったことを改めて確信されたのです。残酷な場面ではありますが、絶望の中で光り輝く瞬間のようです。


 神のひとり子イエスが、貧しさの中で人として生まれ育ち、王として私の罪を背負い十字架にかかって下さったことを宣べ伝えていく、それがキリスト教です。


 私たちの人生は、自分を愛し、受け入れててくれる人と出会うことで大きく変わります。昨日までとは比べものにならない悦びに満ちた日々がやってくるのです。残念ながら人の愛は変わりやすく気まぐれなところもありますが、イエス様と父なる神様の愛は、一度思いを交わしたならば決して変わることはありません。


 そして、私たちの人生は、積み重ねてきた過ちや失敗や性格上の欠点から解放される時、大きく変わります。キリストの十字架は、私たちの罪を完全に償い、ゆるし、私たちの生活を一変させるのです。過去について言い訳をしたり、自分の性格について悩みながら虚勢を張って生きなくても良いのです。罪人のまま私たちを主は受け入れ、ゆるし、愛してくださるのです。


 さて、最後に一つお話ししておきたいのが、23章34節の「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という部分です。ここは大きなかっこでくくられているのにお気づきになったでしょうか。ここはルカ以外の人が、かなり早い段階で付け加えた大切な一文である、ということがわかります。


 実はこれは重要な意味を持ちます。ルカが福音書を記したと思われる前後に、イスラエルはローマとの戦争に敗れ、神殿は跡形もなく破壊され、ユダヤの人々は祖国を失います。しかしそれでも神は赦す、と言われるのです。ローマの人々は自分が何をしているのか知らないままに神を冒涜し、信仰を蹂躙しました。それでも神は赦すと言われている、とこの一文は表しています。これほどの悲劇を経験しもなお、強い愛のメッセージが込められているのです。


 イエス様は、ユダヤ人だけでなく、全ての人が経験するであろう、貧しさや心無い仕打ちなどなど、全ての苦しみから救うために、十字架にかかられたからです。


 現代に生きる私たちもイエス様の思いを知り、十字架の思いを受け取り、神の国に迎え入れられたものなのです。イエス様こそ「我らの救い主」と信じているからこそ、貧しさや弱さを持つ人を神の国へといざなうために、愛し、赦すことを、主イエスに学び、与えられた使命として行い、イエス様のお誕生を喜び、心を神様に向けて、新たな教会の暦を歩んで参りましょう。



一週間遅れとなりましたが、こども祝福式と

土曜学校の写真をUPいたします


今年の祝福式はキッズバンドも含めて17名の子どもたちが参加してくれました

昨今は色々と差し支えがありますので

許可の取れたお子さんの写真だけですが(^^;)


前後しますが日曜日の写真から


キッズバンドの一人、Mさん
みんな壇上に上がって祝福を受けましたが
このようにちょっと大きいお子さんは
聖書に手を置いて牧師の祝福を受けました

こんな感じで「祝福の順番待ち」です(^^)


このページではお馴染み
ルーテルキッズバンドの賛美です



そして土曜学校の写真を少しだけ
素敵な作品を、よく見えるように
カメラにむけてくれたUさんとNさん


次の土曜学校は12月13日です
みんな来てね(^^)

2025年11月16日日曜日

「かみさまの ゆめ」(日曜日のお話)

こども祝福式礼拝(2025年11月16日)(赤)

ルカによる福音書 18章15-17節(新144)

説教「かみさまの ゆめ」         


 「かみさまのゆめ」という絵本があります。「デズモンド・ツツ」という人がお話を書いて、ウエインさんという人が絵を描きました。ツツツさんは1984年にノーベル平和賞というすごい賞を受賞した人です。中が見たい?ごめんね、ちょっと待ってくださいね。


 みんなはノーベル平和賞って知ってますか?一年に一回、世界の平和のために一生懸命働いた人やグループだけがもらえる、ご褒美です。毎年12月10日に授賞式があります。世界中の専門家が真剣に話し合って、誰にあげるのがよいか決めるのです。「この人がノーベル平和賞をもらうのは当たり前だ」と認められた人だけがもらうことができます。


 昨年は日本の被団協というグループが受賞しました。本当の名前はちょっと長くて「日本原水爆被害者団体協議会」と言います。核兵器という恐ろしい兵器が地球から無くなるよう、何十年も頑張ってきたのです。この人たちは、ちょうどルーテルキッズバンドの皆さんぐらいの時、長崎や広島に住んでいて原子爆弾を落とされました。家族や友だちが死んだり家が吹き飛ばされたり、ひどい火傷をしたりしました。すごく辛い目にあったけれど、何とか生きて大人になることができました。


 この人たちは「爆弾を落とした人に復讐してやる」とは全然思いませんでした。核爆弾でひどい目に遭うのは自分達で最後にしたいと決めたのです。核爆弾を落とせばどれだけたくさんの人がひどいことになるか、世界中の人たちに話して回りました。お話を聞いたたくさんの人が驚き、感動し、核兵器は良くないと考える人がどんどん増えました。その活動が立派だと認められてノーベル平和賞をもらったのです。


 では、この絵本を作ったツツさんはどんな活動をしたと思いますか?ツツさんは南アフリカという国に生まれました。その頃の南アフリカでは、黒人がひどい差別を受けていて、白人ばかりが威張っていました。黒人は仕事を見つけるのも大変、勉強するのも大変でした。病気になってもお医者さんがちゃんと診てくれないので、死んでしまう人もいました。ツツさんの家は貧乏でしたが、彼はものすごく頑張って、まず学校の先生になり、それからキリスト教の先生になりました。そして南アフリカで黒人が差別されるのをやめさせるために戦いました。


 戦いと言っても暴力は使いません。白人を酷い目に合わせよう、とは思いません。殴られたら殴り返すのではないのです。ツツさんはいっぱい勉強して、たくさんの人の前で「同じ国民なのに黒人が差別されるのはおかしい」とお話ししたのです。いじめられることもありましたが、やがてツツさんやその仲間の働きで、南アフリカは大きく変わり、黒人を差別する決まりは無くなりました。これはすごいぞ、ということでノーベル平和賞をもらったのです。


 その後、ツツさんは子どもたちにも「差別はやめて仲良くしよう」とお話ししたくてこの絵本を作ったそうです。


 ノーベル平和賞は他にどんな人がいるかな、皆さんが知っていそうな人は、そうですね、マザー・テレサとかマーティン・ルーサー・キング・ジュニアとかシュバイツァー博士とか。知っている人はいるかな?


 この人たちは、例えば「俺のいうことを聞いて喧嘩をやめろ」と脅かしたり、「お金をあげるから、とりあえず仲良くしようよ」なんて変な誘い方をしたりはしません。「世界が平和になるためには今のままではいけない」と信じて、自分が正しいと思うことをたくさんの人に知ってもらえるように勉強し、行動し、コツコツ努力をして頑張ったのです。


 さて、ここでとても大事な質問です。「正しいこと」って何だと思いますか?実は「正しいこと」というのは時代や国、人によってすごく変わります。みんなは「人を殺すのはいけない」と知っていますね。でも戦争の時には敵をたくさん殺した人が偉い、と褒められます。


 それから、お金を盗むのはいけないと知っていますね。でもお金があれば何でもできると信じている人は、お金持ちになるためにずるいことをしても平気です。「騙される方が悪い」と言ったりします。


 他にも「俺が世界で一番正しいんだ、偉いんだ、俺に反対する人は馬鹿だ」と威張っている人もいます。昔の話ではありません。今もそんな人がたくさんいます。この人たちは自分が間違ったことをしているとは思ってなくて、「自分は正しいことをしている」と思っています。そんな人たちが増えると、世の中がどんどん滅茶苦茶になって平和な世界ではなくなります。


 いつ爆弾が落ちて死んでしまうかわからない。ご飯がものすごく高くなって買えなくて、いつもお腹ぺこぺこ。病気になってもお医者さんに見てもらえない。そんな世界になったら嫌でしょう?だから私たちは、「本当の正しさ」ってどんなことか知って、それを目標に、ちょっとずつでも頑張ることが大切なのです。平和な世界になるためには、子どもの時から「本当の正しさ」を知ることはとても大切です。


 「こうすれば正しく生きられます」と書いてある本は世界中にいっぱいあります。でもどれが一番いいのかなあって悩まなくて大丈夫です。「正しいこと」を教えてくれるすごい本は、みんなに一番近いところにあります。それがルーテル幼稚園でも、ルーテル教会でも大切にしている「聖書」なのです。聖書はとっても昔に書かれましたが、今でも世界で一番読まれている本だと言われています。


 聖書には、この世界をお作りになった神様と、その一人子イエス様のことが書かれています。神様もイエス様も私たちのことが大好きだから幸せに暮らして欲しいのです。そしてどうすれば世界は平和になるか、イエス様はお手本をみせてくださいました。イエス様を信じて真似して、神様にお祈りすれば力がもらえることも、聖書に書いてあります。


 神様もイエス様も、いっしょに頑張ってくれる人をいつでも探しています。だから先生たちも神様の仲間になってくれる人をいつでも探していて、おとなの人にも子どもたちにも神様のことをお話ししています。


 イエス様はこんなふうに言っています。人間は誰も完璧ではなくて、間違えるし、失敗もするけれど、それでもいいんだよ。みんなが仲良くできるようちょっとずつでも頑張る人は、私の友達、いつも一緒にいるからね。イエス様はそう約束してくださいました。


 そうそう、皆さんはクリスマスがイエス様のお生まれをお祝いする日だと知っていますね。イエス様が馬小屋でマリヤさんから生まれたことをお祝いする日です。え?忘れてた?じゃあ今日しっかり覚えて忘れないでくださいね。


 教会では、今年は11月30日からアドベントと言ってクリスマスの準備が始まります。毎年のこども祝福式礼拝は、このちょっとだけ前にあるのです。こども祝福式はイエス様から「愛と平和があなたにありますように、あなたが元気で過ごせますように」と祝福してもらう日です。その時、ああ、もうすぐイエス様のお祝いのクリスマスが来るんだなあ、と思い出してもらえると、イエス様もとても嬉しいはずです。


 最後に、こうして絵本を持っているだけだとつまらないので、この絵本の中で、先生が好きだなあと思うところを読んでお話を終わりにしたいと思います。


かみさまのゆめ

かみさまの ゆめは みんなが たがいに てをつなぎ

いっしょに あそび えがおで いることなんだよ

でもね、かみさまは むりに みんなを ともだちに させたり

なかよく させようとは なさらないんだ

かみさまの こどもだけど ときに おこったり

きずつけあったり してしまうことが あるでしょう

そのときは かなしくなったり ひとりぼっちに なったような

きもちに なるものだね

ときどき ないたりするけど そんなときは 

かみさまも いっしょに ないているんだ 

でも ごめんなさいをしたり ゆるしてあげたり するときは

じぶんたちの なみだだけじゃなくなくて

かみさまの なみだを ぬぐうことにも なるんだよ

わたしたち ひとりひとりの なかには 

かみさまの こころの かけらが あるんだよ

そして みんなが たがいを たいせつに しあうとき

かみさまの こころの かけらは 

あつまって ひとつのものに なるんだ


毎年こども祝福式に来てくれたお友達に
カードとささややかプレゼントを
差し上げています