四旬節第4主日礼拝(2025年3月30日)(紫)
ヨシュア記5章9―12節(旧 345)
Ⅱコリント5章16―21節(新331)
ルカによる福音書 15章1-3節、11b―32(新138)
本日のルカ福音書は「放蕩息子」の話です。聖書の話の中でも人気のある例え話です。「人情話」のように話す牧師先生も多いからでしょうか、クリスチャンになって何年も経っているにも関わらず、教会に来たり来なかったりすることの言い訳のように「私は今も放蕩息子です。」と言われる方がいます。私としては、悪ふざけにもほどがあると思ったりします。
このたとえ話を正しく理解するには、いくつかポイントがあります。まず、舞台としては王宮のような家をイメージして頂きたいのです。素晴らしい、天国のようなところです。その家と土地だけで社会が出来あがっているほどです。
その家には主である父親と生真面目な兄、そして兄とは全く性格が違う弟、そしてたくさんの使用人が住んでいます。弟は父の仕事を手伝っていますが、弟はもっと自分に合った人生を探そうと、その家から離れることを決意するのです。
出て行くからには2度とこの家の敷居をまたぐまいと、財産を分けてもらうことを申し出る、その申し出に、父親はすんなり答え、弟の希望通りにするのです。出ていく弟と残る兄。そして弟は、話を聞いている人が思った通りの転落人生を歩むことになります。
まず彼は、父から分けてもらった財産で欲望のままに過ごします。おそらくこの世で一番おいしい料理を食べ、うまい酒を飲み、彼の財産に群がる人々にそそのかされるままにどんどんお金を使ってしまいます。
そしてとうとうお金を使い果たした愚かな彼に手を差し伸べる優しい人はいません。彼の振る舞いをあざ笑い、自業自得だと説教するだけです。その上その地方に飢饉が起きて、ますます窮地に追い込まれます。
しかし、この弟の唯一とも言える長所は、生き抜くことに貪欲だったことです。彼は、ある人のところに行って「働かせてください」と身を寄せたのです。その人はユダヤ人ではなかったのでしょう。ユダヤ人が汚れた動物と嫌って決して食べない豚を飼っていました。しかし弟はそこで働くしかなく、ぎりぎりの生活の中で、豚の餌であるイナゴ豆でもいいから食べたいと思うようになります。
プライドをかなぐり捨てて、生きるために頑張ってみたけれど、もはや絶体絶命、という状況に追い込まれたのです。イエス様はそこまで描写して、おっしゃいます。「そこで彼は我に返った」。
これは「彼は悟った」と言う意味でしょう。彼は自分の置かれている状況を客観的に見つめました。そしてこのままここで過ごしていても事態はひどくなる一方で、自分にはもはや現状を打破する力などないことを思い知ったのです。今自分にできる最良のことは、父親の元に帰ることなのだ、と気がついたのです。
そしてここも大きなポイントなのですが、ここで彼は大きなことをなんなくこなします。あまり気づかないところですが、彼は、父が優しいことを全く疑わなかったのです。心から悔い改めたことを告げれば、父は絶対に自分を突き放したりはしない。そう確信していたのです。絶対的な信頼です。
ここで視点をちょっと変えまして、兄の方はどうだったでしょうか。兄は父親のことをケチだと思い込んでいます。何不自由ない暮らしをしていても、身近にいると有り難みは薄れるものです。父はケチだ、という思い込みはどんどん大きくなり、兄息子は父親に本心をさらけ出せないのです。
人間関係も神様との関係も、近くにいれば自然と親しくなる訳ではありません。毎日顔を合わせ、会話をしていても、互いに腹を割って話せるようになるためには、何かしらきっかけが必要です。もし自分は間違っていない、悪いのは相手だ、と思っているなら、相手と打ち解けるのは難しいのです。
弟は放蕩することによって父親の愛に気づけましたが、そこに至るまで父親の方は気が気でなかったことは、よくわかります。まだ遠く離れているのに、ボロボロになった男を一目見て息子だとわかったのは、今日は帰ってくるか明日は帰ってくるかと、一瞬も息子のことを忘れていなかったということです。
ここにある「手に指輪をはめる」という行為は「相続人の権利回復の象徴」とされます。要するに「お前は使用人じゃない、私の息子だ、この場所に住む権利があるのだ」と父が言っているのです。
このお話を聞いた人はつい現実に当てはめすぎて「父親が甘すぎる」とか「弟息子はまた同じことをするんじゃないか」とか「お兄さんがかわいそう」とか、イエス様がお話になりたかった以外のところに気を取られがちです。しだからこそこのお話を正しく理解する最大のポイントは「この話は罪人の悔い改めと、それを天国に受け入れる神の愛の話である」という視点が重要なのです。
現実の教会生活において「私は今も放蕩息子です」と宣言し、教会に出たり入ったりする方が増えると、群れ全体が安定ません。地上の教会は神様が統治される天の国と似ていますが、そこまで豊かでも寛容でもないのです。新しく加わる方にも、積極的に宣教に加わってもらいたい、一緒に神の国を作っていきたい、そんなふうに思うのが正直なところです。
教会における私たちの原動力は、神の豊かな愛に受け入れられ、生かされていることを知り、この神のために、イエス様のために、自分にできることをしたい、という思いです。これが信仰に生きる喜びであり、私達の日常の生活においても喜びになる。二重の喜びが存在し、与えられているのです。
放蕩息子が我に帰った時のように、神様とは優しい父であることを信じて、もう2度と悲しませたくない、という思いを抱いて祈り、「天の父よ」と心の内を話せることを喜びとしたいと思います。神様が教会へと召し出した、迷える人々を受け入れ、共に生きることを喜びとして参りましょう。
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なかなかアップすることのない 夜の礼拝堂です 街灯に照らされて屋根の十字架もくっきり見えます 幼稚園は立派な園舎が建ち、竣工式とお披露目を終えました 私たち教会員は、この会堂に耐震工事を施し 大切に用いて伝道していきます この角度、ちょっと顔に見えて可愛らしくないですか? |