復活節第7主日礼拝(2026年5月1617日)(白)
使徒言行録 1:6~14(新213) 1ペトロ 4:12~14&5:6-11(新433)
ヨハネによる福音書 17:1~11(新202)
先日のこと、10年前から園の会計を担ってくださった税理士の方が48歳の若さで突然亡くなられました。何かにつけて厳しいアドバイスもありましたが、さまざまな会議にも同席して困難な状況を切り開いてくれました。
教会運営と幼稚園運営のありかたについて話が及んだ時、「信者数の増加が教会の運営を安定させるならば、私も信者になりましょうか」と、冗談とも真剣ともつかない口調で言われました。こんなに早く亡くなるのなら、もっと強くお誘いしていれば、と思ってしまいます。
葬儀の最後に、会計事務所が作成した故人の映像を流す予定でしたが、なぜか会場の機械がうまく作動せず、見ることができませんでした。散会する時に、ご家族とそれを作った方に「近々に教会と幼稚園で運営に関する会議が行われるので、その場で上映したい」とお話してみますと「喜んで」と言われました。
喪主を務められた奥様が「主人から『幼稚園の牧師先生は、映像や音響の機材に詳しい』と聞いていましたから、教会でなら再生できるかも知れませんね」と言われました。彼への恩返しのためにも機材を駆使して上映したいものです。
さて、本日読みましたヨハネによる福音書17章は、イエス様が十字架に向かう直前に祈られた言葉です。「父よ、時が来ました」。イエス様の言われる「時」とは、身勝手な威勢の良さではなく、父なる神様から与えられる苦しみを全て受け入れた御言葉です。しかしそれは「敗北の時」ではなく父と子の栄光が現れる時として受け止められたのです。
そして、イエス様は残される弟子たちのために、さらに神様に祈ります。「彼らをあなたの名によって守ってください」。「彼らが一つとなるように」。
イエス様は、苦しみのさなかでも、弟子達の先行きを気にかけておられたのです。ご自分が天に帰られた後、弟子達はこの世の苦しみや誘惑、争いの真っ只中に放り出されます。ですからイエス様は、ご自分を頼る人々が守られ、力を合わせて一つになれるよう祈り続けて下さったのです。
イエス様の言われる「一つになる」こととは「仲良くしましょう」「争わないようにしましょう」という表面的な一致ではありません。イエス様が求めた一致とは「父と子が一つであるように」という、神の愛に生きる者たちのの一致です。
私たちは日常の中でしばしば「分裂」や「対立」を経験します。家庭でも職場でも、教会の中でさえ、分裂を経験する事は珍しくありません。しかしイエス様は人と人には違いがあることを大前提とされ、人間の力だけで一致することはできないと知っておられました。「違いがあるからこそ、神の名によって守られ、神の愛によって一つにされるように」と祈られたのです。
教会で最も意見が食い違うのは役員会や総会の時ですが、会議を行う目的は、自分の努力のアピールする場ではなく、また誰かの努力不足を糾弾するのでもなく、神の働きによって与えらえる恵みの確認です。報告者が、語る者がそれを深く認識しわきまえていなければ、会議に出席した人々は傷つけ合い、教会らしい一致を失ってしまいます。イエス様はそんな私たちの性質を知っているので、「彼らを守ってください。」と父なる神様に祈ってくださるのです。
先ほど読みましたペトロ第一の手紙にあるように、信仰ゆえの試練や苦しみは避けられません。しかしペトロは「神はあなたを心にかけてくださる。」と断言します。これは、信仰者にとって最も深い慰めです。
私たちも、病、孤独、家族の問題、仕事の重圧、さまざまな「火で試されるような」苦しみを経験します。しかしイエス様は、私たちが信仰を失わないように、倒れても立ち上がれるように。苦しみの中でも希望を見失わないように祈ってくださるのです。信仰生活は、自分の努力だけで成り立つのではありません。イエス様の願いが、祈りが、いつも私たちを支えている。これほど心強いことはありません。
イエス様の生涯を振り返りますと、イエス様は公生涯の初めに「出会い」を通して人を変えました。サマリアの女に出会い尊厳を回復しました。ザアカイに出会い人生の方向を変えました。病の人、罪の人、孤独な人に出会い、光を与えました。まだまだあります。皆さんも福音書からいくつも見つけることができるでしょう。
イエス様は、神様が「その人を救いたい」と願っておられることを察すると、すぐその人に寄り添いました。そして弟子達がそれを学ぶことを願われました。今もイエス様は私たちに向かって「あなたが出会う人を、わたしのように愛してほしい」と願っておられるはずです。これがキリスト教伝道の基本です。
先ほども言いましたように、ペトロは、迫害の中にある教会に向けて「神はあなたを心にかけてくださる」と語りかけています。苦しみの中で人は孤独になり、心を閉ざしがちです。しかしイエス様に学び続けたペトロは、苦しみの中でこそ、キリストのように人と接することの大切さを知っていたのです。
教会が教会らしくあるのは、苦しみの中での出会いこそ、キリストの愛が最も深く現れる場所であるとしり、受け入れているからです。私たちは完璧になることはできません。だからこそ、自分の弱さを知り、それを抱えたまま、迷いながらも、出会う人をキリストのように受け止めていくことが必要です。そしてそれが、イエス様が願い、祈り続けている「一致」なのです。
クリスチャンでない方とも何年か関わっていると、だんだん親しくなって、「キリスト教って、そういう風に考えるのですね」と言われるようになります。「礼拝に出てみようかな」と言う方もちらほらおられます。そんな時「興味本位でもいいから、まず一度来てほしい」と思うのです。
皆さんにもそれぞれにキリストに導きたい方がおられることでしょう。私たちは互いにそれを忘れないでいたいのです。一人一人がキリストの願いを託されたものとして、一致と愛と平和を大切にし、自分に足りない部分を神様に向かって求め、悔い改め、聖書に学び、みことばに励まされながら、日々、歩んで参りましょう。
牧師館として借りている古民家に
茶室があることは以前もお話ししたかと思います
5月10日(日)に、教会員のTさんのご指導のもと
2回目のミニ茶会を行いました
今回は教会員に出席してほしかったので
特に会議のない第二日曜の礼拝の後に設定しました
教会から徒歩で5分もかからないところですが
路地に入り込んでいて、お隣はお寺
とても静かな茶室です
年齢を重ねて正座が辛いメンバーなので
幼稚園の古い椅子を持ってきて腰掛けました
Tさんが最低のマナーだけ教えて下さって
あとは自由にさせて下さったので
おしゃべりしながら柏餅をパクつき
楽しい茶席となりました
Tさん、本当にありがとうございました




