2025年12月28日日曜日

「学者達の礼拝」日曜日のお話の要約

降誕節第一主日礼拝(2025年12月28日)(白)

イザヤ書63章7―9節(旧)

ヘブライ人への手紙2章10―18節(新)

マタイによる福音書 2章13―23節(新)


 本日の福音書は、クリスマス劇でお馴染みの3人の学者たちが登場します。クリスマス劇では、イエス様が誕生した夜に羊飼いと博士達が馬小屋に大集合する様子が演じられますが、実際は、羊飼い達はルカ福音書に、学者達はマタイ福音書に、と別々に記載されており、よく読みますと、場所こそ同じベツレヘムですが、二つの出来事が起こった時期にはズレがあることがわかります。


 マタイ福音書の記者マタイは、イエス様の弟子となる前は徴税人で、社会からは罪人扱いでした。そんな彼は社会の暗黒面や、人間の裏側、ドロドロしたところを人一倍知っていたはずです。そのマタイが学者の来訪を記録するからには、隠された意図があるに違いないのです。


 この学者達の祖国・東の国は、今のイラン辺り、当時の名前で言えばペルシャ辺りであったと思われます。ペルシャは文化的にも経済的にも優れた地域でした。


 ペルシャはかつてユダヤの民を支配していましたが、そのおりユダヤ人の信仰の書物であった旧約聖書を知り、そこに書かれている「救い主誕生」に興味を持ったようです。それでユダヤ人が独立を勝ち取ってペルシャから去った後も、ずっと研究を続けていました。


 数百年が過ぎた頃、ペルシャは同時代に台頭してきたローマと抗争を繰り返しており、心ある人々は状況を憂いていたでしょう。そんな時ペルシャの天文学者達は星の動きによって、旧約聖書に記されている「世界を救う王様」が誕生されたことを知ったのです。


 学者達は分析を重ね、王様が生まれた場所がエルサレム周辺と見当をつけます。そして「世界を救う王様の誕生」なのだから、今頃エルサレムはお祭りムードになっているだろう、と思い込んだのでしょう。


 ところが長い旅をしてたどり着いたエルサレムは何かを祝った形跡もなく、尋ねても誰も知らないのです。焦った学者達は手当たり次第聞いて回ったと思われます。そしてそれが暴君・ヘロデ王の耳に入ります。ヘロデ王は、この知らせに怒り、ユダヤ人の専門家を集め「メシアはどこに生まれることになっているのか」と調査を命じます。しかしそれは旧約聖書を知るものにとっては難しい調査ではありませんでした。


 専門家達はすぐに旧約聖書のミカ書の5章1節にたどり着きます。ミカ書箱のように記されています。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」これによりますと、ミカ書の方がより具体的で、新しい王がベツレヘムで誕生し、ヘロデの時代は終わると神が預言されていることがわかります。


 実は、ヘロデ王とは本来イスラエルの王座につく資格のない人物でした。しかしローマに対して政治的に立ち回り、権力を手に入れたのです。心の内では正当な王が現れた時立場を失うかもしれないと、常に不安を抱いていたことでしょう。


 そこでヘロデは、学者達を呼び寄せ、「救い主はベツレヘムに生まれたようだ」と教えた後「その子を見つけたら知らせてくれ、私も行って拝もう」と告げます。これはヘロデが「神様の言葉を逆手に取るようなもので」イエス様を暗殺するために学者達を泳がせ、スパイに使おうとしたのです。クリスマスだというのに、何ともどろどろしたお話です。


 しかし救い主の誕生は全ての人の希望だと信じ込んでいる学者達は、ヘロデ王のためにも一刻も早く探さねば、と使命感に燃えました。世界のあらゆる国が手に手をとりあって平和を築いていくためにこの方が必要なのだ。何百年も待ち望んだ方は、どれほど威厳を持った赤ん坊だろう。財産の全てを捧げても、無駄とは思えない方とはどのような方なのか、とワクワクする思いを抑えられませんでした。


 ところが、やっとのことで探し当てたのは小さな家でした。さらに言えば、彼らが出会った幼子イエス様は、一眼見ただけでは、どこにでもいるような赤ん坊だったのです。


 聖書からは学者達が即座に「ひれ伏して拝んだ」という印象を受けますが、実際にはちょっと間があって、母マリアやヨセフに、「あなた達はどういう方なのか」と尋ねたかもしれません。マリアとヨセフから、天使のお告げのことや、苦難の末にベツレヘムにたどり着いたことなど、イエス様誕生の経緯を聞いたのかもしれません。


 話を聞くうちに、しみじみと、この方は力の無い幼子に見えても、神様のご計画はもう始まっていて、この方こそ世界を平和に導く、まことの王となられるのだと、納得したことでしょう。だからこそ心の底から喜びに溢れて、用意した宝の数々を捧げることができたのです。


 このエピソードは、救い主に出会い、信じることは偶然や理屈ではないと教えています。イエス様と出会ったなら、自分の思い込みを脇に置いてそこに導いてくださった神様に素直に心を開くこと、そうすれば、どんな人も平和を愛する神の子として生きることができるのです。


 しかし、マタイ福音書が伝えるのはそれだけではありません。平和や愛を喜ばず、神の言葉は信じてはいるが、敵対する者は常にいることも同時に教えています。学者達は夢でヘロデの悪巧みを知り、ヘロデに利用されることなく自分の国へと帰って行きます。


 騙されたことに気づいたヘロデは、恐ろしいことにベツレヘムの2歳以下の赤ん坊を全て殺すという暴挙に出ます。光に照らされることを拒んだ者の心の闇はどこまでも深くなる、それがマタイの描き出したクリスマスの出来事なのです。


 私たちはこの聖書の物語を繰り返し心に刻んで、どんな時も救い主を目指して進み、妬みや不安からくる闇に囚われないよう共に祈って参りましょう。


イブ礼拝には、ささやかなプロジェクションマッピングや
プラネタリウム機能を使って
少しでも心に残るような演出を試みました
聖壇に飾っているのは小さな聖家族像ですが
こんなふうにライティングすると
なかなかドラマチックです

2025年12月23日火曜日

イブ礼拝のお知らせです

明日はクリスマスイブ
あいにく、雨のクリスマスイブ
夜更けすぎても雪には変わらず雨のままのようです
(元ネタがわかる方は同世代?)
足元が悪いのは残念ですが
ご一緒にクリスマスのひと時をいかがですか?
リノベーション終了後初めてのクリスマス礼拝です
2部構成で行いますので
ご都合の良い方にぜひお越しください



2025年12月21日日曜日

「キリストの誕生」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・クリスマス礼拝 2025年12月21(白)

イザヤ書7章10-16節

マタイによる福音書 1章18―25節


 幼稚園や教会学校ではクリスマスの時期「むかし ユダヤの人々は」で始まる賛美を歌います。この讃美歌の「尊い方のお生まれを 嬉しく待っておりました」の「尊い方」はもちろんイエス様のことですが、神様が約束してくださったのにイエス様はなかなか生まれず、待っているうちに何百年も経ってしまったのです。


 いくら神様のお約束だからといって、どうしてそんなに長い間待つことができたのかといえば、それだけすごい方が来てくれる、と信じていたからでしょう。


 実はユダヤの国の周りには強くて大きい国がいくつもありました。昔は欲しいものがあるとすぐ戦争をしました。ユダヤの人たちは神様に守られて戦争に勝ったこともありましたが、「神様よりも、大きな国に守ってもらったほうがいい」と、神様を無視して戦った時、守ってくれるはずの大きな国に裏切られ、家も街も焼かれ、無理やり別の国に連れていかれて働かされ、大変なことになりました。


 ユダヤの人たちは苦しくて辛くて困って、どうしようもなくなった時、やっと「神様からのお約束」を思い出しました。大変なことになったのは神様からのお約束「尊い方」が来てくださるのをすっかり忘れていたからだ、神様ごめんなさい、とお詫びしたのです。そして自分の子どもたちには「尊い方」の事を絶対忘れないように、聖書にしっかり書いて伝えたのです。


 さっき読んでもらったイザヤ書の言葉は、イエス様がうまれる700年も前に書かれました。この言葉の意味は、「尊い方は、まだ結婚していない女の人のお腹の中に赤ちゃんとなって来られる。その方はインマヌエル、つまり『神は私たちと共におられる』と呼ばれる」ということです。


 ユダヤの人たちは「尊い方」、「インマヌエル」が来てくだされば、きっと敵をパッとやっつけて、どこにも負けない強い国になって、みんな幸せになる、と思い、子どもたちもそう信じて、そのまた子どもたちに聖書のお話を伝えました。


 こうしてとうとう何百年も経ったのですが、イエス様が生まれた頃のユダヤの国は、ローマ帝国という大きな国との戦争に負けて、みんな貧乏で苦しい暮らしをしていました。だから、尊い方よ、早く来てください、そしてローマをパッとやっつけてください、そう思っている人たちがたくさんいたのです。


 さて、マリヤさんもヨセフさんもユダヤの人です。貧乏でしたがもうすぐ結婚することになっていました。二人ともよく聖書をよく読む人で「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉もまるっと覚えて、目をつぶっても言えました。


 そんなマリヤさんのところに天使がやってきて、あなたのお腹に赤ちゃんがいます、それはあなたたちが待っていた「尊い方」です。と教えたのです。マリアさんはびっくりです。


 そしてヨセフさんの夢の中にも天使がやってきました。天使はヨセフさんに、マリアさんのお腹の中にいる赤ちゃんこそ「尊い方」「インマヌエル」です、だからあなたは守ってあげなさい、と教えたのです。


 マリアさんもヨセフさんもびっくりしましたけれど、神様を信じる強い心がありましたから、神様のお言葉を信じて、赤ちゃんを大切に育てようと決めます。そして、赤ちゃんが生まれたら、天使に教えられた通り「イエス」と名前を付けることにしました。


 そして、それからお腹の大きなマリアさんはヨセフさんに守られてベツレヘムの町まで旅をしました。劇ではヨセフさんが「トントントン宿屋さん どうか一晩泊めてください」と歌って、3軒目にやっと「馬小屋ならばあいてます さあさあどうぞ お入りください」と入れてもらえますね。よかったです。


 でも、ちょっと待てよ、とも思うのです。イエス様はユダヤの人々が何百年も待っていた「尊い方」です。それなのに宿屋に泊まれません。みんなで楽しくお祝いするはずなのに、お誕生の夜お祝いに来たのは、天使のお告げを聞いた羊飼いたち、そして少し遅れて東の国の博士たちだけです。何かおかしくないですか?


 もしかしたらイエス様は本当は「神様のお約束の尊い方」ではなかったのかな?それとも、ユダヤの人たちが「尊い方」が生まれたらローマがパッと滅びると思ったのが勘違いだったのかな?正解は、「尊い方」がローマをパッと滅ぼしてくれると思ったのは勘違いだった、ということなのです。


 イエス様はユダヤの国を戦争に勝てる強い国にするために来たのではありませんでした。世界を平和にするために、神様の国からやってきたのです。だから大人になったイエス様は、差別されている人や病気の人を助け、悪い人でも正しく頑張れるよう励ましました。


 ユダヤの人々はいつも戦争に勝つことを考えていたので聖書を読み違えてしまったのです。聖書には「尊い方」とは「平和の王」である、と書いてあるのです。


 イエス様は、平和な世界というのは武器や兵隊をいっぱい持つことではないし、「私のいうことを聞くならお金をあげる」と命令するのでもないですよ、一人一人が神様を信じて周りの人に優しくすることでちょっとずつ作れるのですよ、と教えたのです。それから、平和を作るのはすごく大変だけど、私はその人のそばにいつもいるよ、と約束してくださいました。


 人間は考えが足りないところがあって、戦争で自分の大切な人が死んでしまってから、ようやく「戦争なんかしなければよかった」と考えるのです。それなのに、昔も今も地球のどこかでいつも戦争が起きています。


 偉い人から「平和が大事と言っても、強い国が攻めてきたら戦うしかないだろう」と言われたら、私だけでは答えが思いつきません。でも神様に招かれて平和の王イエス様のお誕生をお祝いしている一人一人がうんと考えましょう。小さな一歩から平和は作れるはずです。そしてイエス様は平和を作る人といつも一緒にいてくださる、それを信じてまいりましょう。



これを書いているのは21日の午後です

クリスマス礼拝も終わり、ご報告です

ルーテルキッズバンドはボーカルに

小さな男の子が3人加わりました

まだまだ音程は不確かですが声量は抜群

これからに期待です


同じくボーカルのJさんは脚を捻挫

松葉杖をついての熱唱でした

本当にありがとう


ルーテルキッズバンドのリハーサルの様子です


後ろにおじさま二人が加わってます
特別賛美に来てくださった田中ブラザース
お仕事の関係で普段はあまり礼拝には来られませんが
今回はお二人のデュエットの他に
キッズバンドとコラボをお願いして
礼拝の最後にみんなでジョン・レノンの
「ハッピークリスマス」を
日本語訳で力強く歌いました
「戦争は終わる みんなの力で
戦争は終わる 今すぐ」
心からの祈りを込めての賛美でした

2025年12月14日日曜日

「わたしたちがみつめるもの」(日曜日のお話の要約)

待降節第三主日礼拝(2025年12月14日(日)(紫))

イザヤ書35章1―10節(旧)

ヤコブの手紙5章7―10節(新)

マタイによる福音書 11章2―11節(新)


 本日の福音書も先週に続いて洗礼者ヨハネにまつわるエピソードです。それも洗礼者ヨハネが、イエス様に対して疑いの思いを抱く、という内容です。


 ヨハネはヨルダン川でイエス様に洗礼を授けるという大役を担いました。ヨハネはイエス様と出会う前から、自分とは比べ物にならない尊い方が来られると信じ、出会った時、イエス様こそその方だと確信しました。「見よ、神の子羊」とか「わたしより優れた方」という言葉はそれを表し、「この方こそ救い主だ」と証ししたはずです。ところがしばらく経つうちに、洗礼者ヨハネでさえ、その確信がぐらついているという描写なのです。


 ルカ福音書には洗礼者ヨハネとイエス様は親戚関係で、それぞれが母親の胎内にいる時にその存在を知り、認め合う仲であったと記されています。聖書にはそれ以上のエピソードは書かれていませんが、もしかしたら年の近い親戚同士、一緒に遊ぶ機会もあったかもしれません。


 しかし、洗礼者ヨハネは今頃になってイエス様のことを疑い、「この方は本当に、聖書に約束されたあの救い主なのだろうか」と疑い始めたのです。


 なぜ迷いが生じたのかといえば、洗礼者ヨハネの置かれている状況が大きく変わってしまったからでしょう。ヨハネはこの時牢獄に繋がれていたのです。


 ヨハネは天の国が近づいたことを知らせ、多くの人々を悔い改めに導き、信頼を得て、立場役割に関係なく洗礼を授けました。さらには自らの信念と律法に基づいて、イスラエルの領主の一人であるヘロデの倫理的な間違いを指摘しました。これは、領主ヘロデが自分の兄弟フィリポの妻だったヘロディアを奪い、妻にしたことで、大きなスキャンダルでした。相手が相手なので、表立って批判する人はいなかったようですが、洗礼者ヨハネは少しも恐れず糾弾したのです。


 しかし、それで世界が劇的に変化したかといえば、そうではありませんでした。ヨハネは当のヘロデによって捉えられ、牢に繋がれてしまったのです。ヘロデはヨハネが民衆に人気があるのを知っていましたし、ヨハネの教えに惹かれていましたので、すぐに処刑しようとは思いませんでした。しかし結局なり行きまかせの他人任せで、ヘロデアの策略によって、洗礼者ヨハネは斬首されることになります。


 本日の福音書の「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」という記述は、そういう状況を表しているのです。


 洗礼者ヨハネから見れば、救い主キリストがやってきたはずなのに世の中は一向に良くなる気配がないのはなぜなのだ、という焦りがあったでしょう。神の子であるはずのイエス様は、社会的弱者や罪人と呼ばれるような社会の底辺にいるような人々にばかり手を差し伸べ、大胆な世直しをする気配はありません。イエス様の容姿もぱっと目を引くような姿ではなく、その辺を歩いている普通のユダヤ人と区別もつきません。ヨハネから見れば、神の子ならば威厳を持って人々を一気に回心に導き、この世界を神の国に作り変えてほしい、そして自分もそんな活動に参加したい、そう思っていたことでしょう。


 洗礼者ヨハネは薄暗い牢屋の中で、神様のご計画に思いを巡らしながら、必死にイエス様こそ本当に救い主、神の子なのだと信じようとしたことでしょう。しかしヨハネの弟子たちのは心はもっと弱かったのです。彼らは自分の先生の方がストイックで堂々としていて、権力者と渡り合う威厳もあり、救い主と呼ぶにふさわしく見えたと思われます。


 ヨハネの弟子たちはイエス様のなさった奇跡や、語られるお話を耳にして、高く評価はしていました。しかしイエス様本人の口から救い主だと言ってもらわないと安心できかったのです。


 イエス様は捕らえられたヨハネやその弟子を哀れに思われたのでしょうか。すでにあなた方は救いの業を見ているではないか。どんな目的で私の口から「わたしは救い主だ」という言葉を聞こうとするのか、それは信仰ではない、と諭しました。見た目や言葉に左右されず、信じる心を強く持つように、と教えられたのです。


 民衆はそう言ったやりとりを見て、いったんはイエス様こそ救い主だと納得したようでした。けれどもそれは移ろいやすい思い込みで、信仰ではなかったのです。イエス様にとって信仰とは、自分が思っていたこととは違うことが起きても、また、予想もしない展開が起きたとしても、神様の御心と受け止めて信じていく、歯を食いしばってでも信じぬいていく、そこに意味があるとお教えになったのです。


 さて、12月も半ばとなり、来週はいよいよクリスマス礼拝、クリスマス・イブ礼拝が行われます。この場所で久しぶりにお祝いすることができて、本当に嬉しく思います。とはいえ、世の中はどんどん景気が悪くなり、思い描いていた幼稚園の安泰運営は少し遠いものになってしまいました。やはり今後もみなさんの祈りや支えなくしては立ち行かないのが現状です。ただ、全国あちらこちらに住まわれるルーテル教会員の方々が飯田ルーテル幼稚園に関心を寄せてくださり、後援会を発足する計画が与えらえれました。これも用意された恵みのようです。


 クリスマスの日、ベツレヘムに着いたヨセフとマリアは泊まる場所がありませんでした。あまり詳しいことは記されていませんが、イエス様は無事に誕生し、飼い葉おけに寝かされ、礼拝に来た羊飼いたちに見守られながら、最初の聖なる夜を過ごされました。


 私たちはこの方を救い主と信じて、信じぬいて人生を歩むものです。クリスマスの恵みもイエス様の誕生の意味も興味を持てない、分からない、という方々に囲まれていますから、苦難の多い人生かもしれません。しかしその先に、神様が用意してくださった場を見つけることができるのです。


 わたしたちは信仰でしか見ることのできないものを見つめながら、その経過には喜びばかりではありませんが、共に信じ、共に歩んで参りましょう。


昨日は土曜学校でした

13名のお友達と5名の大人たち

礼拝、工作、ゲーム、ガラポンと盛りだくさんの内容で

楽しく過ごしました

来年も元気で集まれますように

そしてクリスマスの礼拝も都合がつけば来てくださいね




クリスマス礼拝にどうぞおいでください
クリスマスの限らず、日曜ごとの礼拝でも
お越しをお待ちしています

2025年12月7日日曜日

「洗礼者ヨハネの思い」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・待降節第二主日礼拝 2025年12月7(日)(紫)

イザヤ書11章1―10節(旧1078)

ローマの信徒への手紙15章4―13節(新320)

マタイによる福音書 3章1―12節(新3)


 先週、12月1日月曜日に、礼拝堂で幼稚園の合同礼拝を行いました。園児たちがこの場所で礼拝を守ったのは、この場所のリノベーションが終わってから初めてのことです。これからはおおよそ毎週、この場所で合同礼拝を行います。


 幼稚園と教会、そしてピアノ教室に集まる皆さんとも気持ちよく空間を共有していくために、お互いに配慮し合いながら大切に使っていけることを願っています。


 さて、今更ですが、クリスマスは元々ギリシャ語で「クリス」と「マス」の合わさった言葉です。クリスが救い主、マスが集まる・礼拝する。つまり「クリスマス」とは救い主イエス・キリストの元に集まるという意味です。


 幼稚園の合同礼拝では、「集まる」ことの大切さを少しでも伝えたくてお話をしてみました。


 みんなは病気になった時、どこに行くかな?「病院」だね。病院に行ったら誰に見てもらうかな?「お医者さん」だね。そんなやりとりの後、「悪いことをしてしまったり、悪いことが起こってしまったら、どうなるかな?」と訊ねると、「地獄に落ちる」「地獄になる」といった分かりやすい答えが返ってきました。


 日本で育った私たちは仏教徒でなくても「因果応報」という考え方が染み付いています。自分がやった悪いことの報いは必ず帰ってくる、どこかで思っているのです。ですから、何か悪いことが起きると過去の何がいけなかったのかとくよくよしますし、死期が近づくと「地獄に落ちたくない」と苦しむことが多いのです。


 けれども、神の子イエス様は、地獄のような苦しみの中に生きる人や地獄への恐怖に囚われている人々を救うという特別な使命を与えられこの世に来られました。そのためにイエス様は苦難の道、十字架の道を歩まれたのです。


 幼稚園の子どもたちがよく歌う讃美歌に「海と空作られた主は」という曲があります。「海と空作られた主は、あなたの主、わたしの神、罪を赦し、救いたもう、みんなの主、イエスは主、ハレルヤ、みんなの主」


 以前手話の先生から教わったことは、一般的な救いというのは「藁にもすがる」というイメージで表現するが、キリスト教の救いは、もがき苦しむものを神が全身全霊をかけて底辺から掬い上げると表す、ということでした。


 神様は、地獄に行くしかない、と私たちが思っていても、助けてくださる方なんだよ、と、子どもたちの心に染み込むまでお話を続けたいと思うのです。


 世の中には正しく生きる術を知らず、悪い方向へ、悪い方向へと進んだ人達がいます。人を苦しめ、傷つけて楽しんだり、自分が利益を得るためならどんな酷いことでもする「極悪人」としかいえない人々もいます。しかし神様はそのような人々を地獄に落として「はい終わり」ではなく、なんとかして救うことを願われます。


 神様は、そういった人々はそもそもご自分の元から離れてしまったことが原因なのだ、と受け止めておられます。ですからなんとかして連れ戻し、救いあたいという思いが旧約聖書に記されており、そのお言葉を実現するために、救い主イエス様がこの地上にお生まれになったのです。


 本日の福音書にはイエス様の登場に先駆けて、洗礼者ヨハネという人物が登場します。福音書を書いたヨハネと区別するために「洗礼者」あるいは「バプテスマの」と付けて呼ばれています。彼は荒野に住まい、野蜜を食い、毛皮の毛衣を着て、「神の国が近づいた、悔い改めなさい」と宣教しました。


 すると彼の呼びかけに応え、多くの方々がヨルダン川に集まりました。人々は神の国に行くためには、自分の犯した罪や悪を悔い改めることが必要だと納得し、導かれるままに洗礼を受けました。民衆は洗礼者ヨハネこそ、旧約聖書に記され、約束されていた「救い主・キリスト」なのかと期待しますが、ヨハネは「わたしより優れた方が後から来られる」というばかりです。


 と言いますのも、ヨハネ自身も、多くの人を悔い改めに導くことはできましたが、中には「自分は救いに値しない」とそっぽを向く人々や、「自分は悔い改めるような罪は犯していない」と思い込んでいる傲慢な人々もおり、それに対しては打つ手立てはありませんでした。彼はただ、天国に望みをおく人に洗礼を授け続けることしかできませんでした。


 私たちは、洗礼者ヨハネのジレンマがよくわかるのではないでしょうか。家族や友人に神様の愛や天国を伝えたい、けれども、なかなかうまくいかない。さまざまな行事の時には教会に集まってくるけれどなかなか信仰と結びつかない人に、どうやってあなたは神様に愛されているんだよ、と伝えたら良いのかわからない。


 今の時代、キリスト教さえあやしげな宗教のように思われ、気軽に礼拝に誘うことも難しいですし、生成AIを用いればさまざまな牧師や学者のメッセージを合わせたような文章も読むことができ、教会に来る必要を感じないかもしれません。


 さらに厄介なのはSNSを使って、あそこの教会は愛がないとか、神がいないとか、有る事無い事書かれることです。これを読んだ人が本気にして次々拡散することさえあります。なんという大変な時代なのだろう、と思います。それでも、私たちは救われた者として、神様の御心を示す役割を与えられている。めまいがしそうな時もあるますが、やるしかありません。


 この季節、普段は礼拝に来ることのない人が教会を訪れやすいタイミングです。先に、「キリストの元に集まる」のがクリスマスだ、とお話ししました。そのようなことは全く知らず、ただ雰囲気を求めて集まるのであっても、私たちは受け止めていく必要があります。


 多くの人はこの場所でしか具体的にイエス様を通しての神の心を知ることができないのです。だからこそどんな時も「メリークリスマス」とにこやかに、イエス様の思いを伝えるために、訪れる人々を迎え入れてまいりましょう。



13日は土曜学校です
クリスマスの学びとクラフトを楽しみましょう
どうぞお集まりください(^▽^)



リノベーションした教会玄関は
少しスペースに余裕があるので
今まで聖壇の上にあって
少し窮屈だったクリスマスツリーを
玄関に移してみました
ルターの紋章のステンドグラスとともに