2025年4月27日日曜日

「わたしの主、わたしの神よ」(日曜日のお話の要約)

復活節第2主日礼拝(2025年4月27日)(白)

使徒言行録5章27―32節(新 222)

ヨハネの黙示録1章4―8節(新452)

ヨハネによる福音書 20章19―31節(新210)


 本日の福音書に出てくる「トマス」という人物は、イエス様の十二弟子の一人で、別名ディディモと呼ばれていた、と紹介されています。ディディモとは「双子」という意味ですが、なぜこう呼ばれているのか、本当に双子なら片割れはどこにいるのか、など全くわかりません。ただ、ある資料には、「双子」というあだ名はトマスの持っている二面性を象徴しているのではないか、と書かれていました。「疑り深く慎重」という側面と「情熱的な信仰者」という側面です。


 「情熱的」というのは、ヨハネ福音書の11章で「私たちもイエス様と一緒に死のう」と言った発言をしているところから窺い知ることができます。


 一方、「疑り深く慎重」という面は、復活したイエス様が弟子たちの隠れ家に来てくださったときに、その場にいなかったため、容易には信じられなかった、というエピソードから言われることです。


 トマスはイエス様のことも尊敬し、その教えや業にとても共感していました。貧しい人々や虐げられている人々、病気の人や、悪霊に取りつかれている人までもが、癒され、まともになり、社会に戻ることを可能にしたイエス様に従って生きることは、愛であり、喜びであり、誇りでした。


 しかし、イエス様は十字架にかかって死んでしまいます。トマスはイエス様を歓迎したはずの人々が一週間で心変わりし、十字架につけろと叫ぶ様子を目撃しました。イエス様はなじられて、苦しめられて、それでも恨み言一つ言わず、十字架の上で亡くなるのです。


 このような目にあったなら、誰もが人間不信に陥るでしょう。誠実に生きてもこのような目に遭うのなら、イエス様の教えなど信じてもなにになるか、とばかりさっさと見限って、イエス様に出会う前の生き方に戻ってもおかしくなかったのです。けれども、イエス様を近くで見てきたトマスにとって、その教えはそう簡単に捨てられるものではありませんでした。


 トマスは、イエス様が3日後に復活した時に、他の弟子たちと別行動をしていて、イエス様に会えなかったことが福音書に書かれています。他の弟子たちが、自分たちも逮捕されるのではないかと怯え閉じこもっていたとき、トマスがどこに行っていたのかはわかりません。「イエス様と共に死のうではないか」と言った彼は、生き残ってしまったこと、死ぬことに怯えていること、そう言ったことに葛藤を感じて、他の弟子たちと一緒にいることに耐えられなかったのかもしれません。


 トマスは、イエス様と一緒に死ねなかった自分自身に腹を立てていたのかもしれません。イエス様への裏切りを働いたと思っていたのでしょう。イエス様は赦しの言葉を口にして亡くなられたけれど、本当は怒っているのではないか。そんな思いが頭の中をぐるぐると回っていたかもしれません。


 ですから、他の弟子たちが三日目に復活したイエス様にお会いした様子を興奮して語り、口々に「復活の主に出会った」「戸を閉めていたのに入ってこられた」「穏やかに「おはよう」と言われた」「平和があるように」と声をかけてくださった」「愛情に満ちた、慰めに満ちた時間を過ごした」と聞けば聞くほど不信感が湧き上がり、苛立ちは募るばかりでした。


 自分の仲間は、イエス様を裏切ってしまったことを真剣に反省しているのか、あるいは恐怖と恐れのために、気がどうにかなってしまったのか、腑抜けになってしまったのか。話せば話すほど訳がわからないのです。そこで思わず出たのが「イエス様の傷跡に触るまで、復活など信じない」と、ほとんど暴言のような言葉でした。


 そんなトマスの前にも、イエス様は現れてくださいました。トマスの抱いていた悩みや苦しみ、これからなにを支えに生きていけばいいのか、といった切実な思いも受け止めて、聞き入れて、トマスに接してくださったのです。そしてトマスに向かって「あなたの手を私の傷跡に差し入れたらどうだ」と語りかけたのです。


 よく読みますと、その時のトマスはイエス様の傷跡に乱暴に触れたりはしていません。ただ万感の思いを込めて「わたしの主、わたしの神よ」と新たに信仰告白をしたのです。トマスは新たな決意を持って、イエス様を自分の主とし、主の思いを受け継いで生き、このかたを神として自分の人生を委ねる、と告白したのです。


 イエス様を信頼し、イエス様に完全に委ねる。人生はそれで以前とは比べられないほどに豊かになることを、トマスは知りました。だからこそ、その役目を担って、一生をキリストの弟子として、歩み続ける決意をしたのです。伝説では、彼はインドにまで赴き、宣教したと言われています。2000年前の出来事です。ありえないほど遠いところまで導かれたと信じられているのは、トマスが情熱を持って生きたことを多くの人々が知っていたからでしょう。


 私達は飯田の地まではるばると福音が届いたことに感謝しつつ、キリストに生き、キリストに活かされていくことが与えられた使命なのです。キリストの伝える愛の心を持ちつつ、可能な限り誰とでも平和に生き、神の国の実現を願ってまいりましょう。


 世の中はキリスト教の本質を忘れ、クリスチャンと言いつつもそれぞれが身勝手に生きています。キリスト教を軽んじる私たちの国では尚更のことです。私達もキリスト教になにができるのか、と悩まされ、懐疑的になることはありますが、私たちを育て、守ってくださるのは、復活した主イエスだけでだと信じてまいりましょう。


 イエス様が今も生きて導いてくださることを覚え、この場所で「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の歩みを共に歩んでまいりましょう。



一週間遅くなりましたが、イースター礼拝と愛餐の様子をUPします


ルーテルキッズバンドの賛美も堂に入ってきました

新・中学一年からまだお母さんに抱っこされているお友達まで

なかなかのチームワークです


「神の国と神の義」はパッヘルベルのカノンを伴奏に
3部に分かれて賛美しました


「子ロバのうた」の中の聖書朗読部分は
自分達で誰がどこを読むか決めて大きな声を
響かせてくれました

ベースとドラムスは仲良し姉妹の担当です

持ち寄りで愛餐会
いっぱい賛美した後はお腹がすきますね

1歳から95歳まで参加のわいわい楽しい愛餐でした

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