2019年8月6日火曜日

祈りに感謝を込めて(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝・聖餐式(緑) (2019年8月4日)
創世記18:16-33 コロサイ 2:6-15 ルカ11:1-13

 本日の聖書箇所でイエス様の弟子が「私たちに祈りを教えてください」と教えを請います。ユダヤ人である彼らは幼い時から祈り方を学んでいましたが、尊敬するイエス様から改めて教えていただくことを願ったのです。
 ユダヤ人に関する資料を読んでいた時、「ユダヤ人は朝目覚め、まだ体を動かさないうちに、命を与え意識を回復させてくださった偉大な神に感謝する。」という文章を読んだことがあります。祈り始めの神様への呼びかけには、相当重々しく、尊敬の念を失礼のないように表す言葉が選ばれたような印象を受けます。
 それに対し、イエス様は本日のルカ福音書で、ただシンプルに「父よ」と祈り出すよう教えられています。

 「お父さん」と口にすれば、血縁関係である父、あるいは育ての父のイメージが先行するでしょう。人間である父には時に悪い思い出もあり、素直に「お父さん」と呼びかけられないこともあると思います。しかし、イエス様は「父といえば主なる神」である、と真っ先にイメージできるようになるまで神を信じ、頼り、慕いなさい、と言われるのです。そして神様ご自身が、そのように信頼に満ちた私たちの呼びかけを待っておられるのだと、教えられるのです。
  
 私たちは、祈りが叶えられないと、知らず知らずのうちに私の祈りなんて聞かれていない、という気持ちに陥ります。そしていつの間にか祈りに対する情熱も失っていきます。確かに嫌なこと、辛いこと、裏切られることは私たちの人生に数限りなくあり、奈落の底に突き落とされるような体験をすれば、愛されているというより呪われているのではないか、とさえ思ってしまいます。到底感謝などできるはずもなく、神様の存在はどんどん遠いものになっていきます。

 しかし、そんな気持ちに陥る誘惑は絶対に退けなくてはなりません。「お父さん」は今日も最善のものを私に与えてくださるためにこの目覚めをくださった。毎朝そんな風に素直に感謝できるなら、どれほど豊かな人生でしょうか。
 新たに与えられた命に感謝をし、苦しい時は神様に向かって泣き、信頼を寄せる父がおられることに心から感謝する。それが聖霊をいただいている人の生き方なのです。いえ、私たちに内住しておられる聖霊なる神がそうさせてくださるのです。
 私たちはもっと無邪気に神様に祈り求めて良いのです。私たちに今必要でなければ、神様の方で退けられます。最初からかしこまって「正解」とは何か、祈る前に答えを出してから求める必要などないのです。

 人間が必死に「良い子」になって神様を愛されようとするのではなく、そもそも人間は神様から愛されている存在であり、良きものを与えたい気持ちに満ちておられる、とイエス様は教えてくださいました。
 無条件で愛されていることに感謝し「お父さん」と素直に祈る者であり続けましょう。


またまた桃をいただきました
礼拝の後、先日の土曜学校の真似をしてかき氷を作り
たっぷり桃を乗せてみんなでいただきました
季節の実りを神様に感謝します!
(かき氷はあっという間に食べてしまって
写真がありません)

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