2016年10月21日金曜日

「私どもは、神を誇り喜ぶ」(ローマ5:6-11)

ローマの信徒への手紙第56-11節、20161021、聖研・祈祷会

 ローマ56-11

 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。



メッセージ「私どもは、神を誇り喜ぶ」(ローマ56-11

 私どもは、先回、ローマ書第5章に入り、信仰のみによって義とされた私どもは、キリストを通して神に向かって既に平和を得ているとの使徒パウロの言葉、ぶっつけるような信仰の宣言のみ言葉を聞きました。
 そこで、パウロは、私どもは、それ故に、苦難をも誇ると言い、なぜなら、苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を、そして、練達は、絶望することのない希望をもたらすからであると言いました。それは、なぜなら、イエス・キリストを通して、また、聖霊の力で、今もなお、神の愛が私どもの心に注がれているからであると宣言していました。
 今日は、それに続いて、それをさらに深く説き明かします。で、なぜなら、私どもが、私どもがまだ弱かったときに、定められた時に及んで、キリストはその私どものために死んでくださったからであるというのです。
 正しい人のために死んでもいいという人は先ずいません。善い人、これは見事な人といった意味ですが、私どもに大きな益を与えてくれた人といった場合でしょうか。あるいは親友のことを考えてもいいでしょうか。そういう大事な人のためなら、あるいは死ぬ人もいるかもしれません。
 けれども、神は、私どもが神の敵であるとき、罪人であるときに、神の子であるキリストを死なせることをなさったのです。それは、私どもの思いも及ばぬ出来事であります。
 そして、パウロは言います。私ども闇に属していた、神に敵対していた者が、キリストの死によって、義とされたのなら、ましてや、信じて、新しい生活に入った私どもが、キリストの命において、神と和解させられた私どもがなおさら、救われるのは間違いないのだと。
 そして、そればかりか、私たちの主イエス・キリストを通して、彼を通して和解を受けた私どもは神において誇る者であるというのであります。
 神を誇るとは、神を喜ぶとも訳すこともできる深い意味が込められています。
私どもの功績や力によって神の前に義とされたのではなく、私どもが、不信心な者をも義とする方を信じる者は、たとえ働きがなくても、その信仰が義と認められる(ローマ書第45節)とは、自分のありのままを受け入れ、それが神によって受け入れられている。自分の弱さ、あるいは落ち度や挫折をそのまま認めて、自分の罪のために、キリストが死んでくださったことを、喜び、誇るに至るのであります。
パウロも、ファリサイ派の中のファリサイ派、ユダヤ人の中のユダヤ人と誇ることのできた人物ですが、今ではそれを糞土のように思っており、また、神によって、サタンの使いによって与えられた体の棘を取り除いてくださいと三度も祈ったが、キリストの力はあなたの弱さにおいて現れるとの天よりのみ声を聞き、ついに弱さを誇り、主を誇る者へと変えられていったのであります。神と和解させられた私どもは、その和解を世に告げ知らせる務めをも与えられているのであります。喜んで、主が私どもの上になさったみ業を誇る者にならせていただきたいものであります。
        アーメン。   







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