2016年10月20日木曜日

「信仰を探し求める神」(ルカ18:1~8)

ルカによる福音書第181-8節、20161016日(日)、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)、創世記第3223-31節、テモテへの手紙二第314-45節、讃美唱121(詩編第1211-8節)

 ルカによる福音書第181節~8
 
 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」


説教「信仰を探し求める神」(ルカ1818

 ルカ福音書と共に歩んできた、昨年のアドベント以来の出来事もいよいよ終わりに近づいてきています。今日の主イエスの語られたみ言葉も、人の子は速やかに、あるいは不意に、予期しない時にやって来る。しかし、そのとき、地上にかの信仰を、人の子は見出すであろうかとの疑問文で終わっています。
 終末のときが、必ず来る。予期しない時に来る。だから、この主イエスの警告の言葉をむしろ招きの言葉として受け入れ、一見答えがないかに見える祈りを落胆することなく続けるようにとの譬えが、今日の不正な裁判官とやもめの譬えと言われる主イエスが語ってくださった物語であります。
 これは、神の国はどこにあり、あるいは、いつ来るのかとのファリサイ派の人々に対して、神の国は、むしろあなた方の間にあると主イエスがお答えになられた。そして、それに対して、弟子たちが、人の子が来る時にはどんなしるしがありますかと、主に質問しました。
 それに対して、主イエスは、死体のあるところには、はげ鷹も集まるものだと、最後にお答えになった。それに続いて、主イエスが弟子たちに向かって、今日の譬えを語っておられるのであります。それは、絶えず祈り続けなければならないこと、しかも気落ちすることなく、私どもは祈らねばならないことを教えるためでありました。
 ある町に不正な裁判官がいたが、神を神とも畏れず、人を人とも思わない悪徳裁判官であったというのです。そこに、同じくやもめがいて、ひっきりなしにやって来ては、私のために正義を、相手方に対して行ってくださいと願い続けるのです。
 この裁判官は、当初、一向に気にも留めないでいました。しかし、あまりにもしつこく、このやもめは裁判をして欲しいと通い続けてくるので、彼はこう考えたのです。このままほおっておくと、終わりには、目の下に隈をつけられ、さんざん苦しめられることになるので、彼女のために正義を行う裁判をしてやろうと。
 これに対して、主イエスは、この裁判官の言いぐさを聞きなさいと弟子たちに注意を促します。そして、それならまして、夜昼呼び求める彼の選んだ民どもに対して、神は正義を行わないことがあろうかと一転して神が私どもの祈りを聞いてくださることを約束なさるのであります。ルカ福音書第187節の文は難解ですが、これは、たとえ、彼がその選民たちに対して忍耐するとしても、その呼ばわる自分の選んだ者たちに必ず正義を行ってくださるのではないかと主イエスの、私どもに対する祈りへの招きのみ言葉であります。
 そして、主は、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、はたして、この地上に、かの信仰を見出すであろうかと、お問いになるのであります。
 人の子が来る終わりの時は、すぐにも来る、思いがけない時に、終末のときが来ると主は警告し、また、これは招きと慰めの言葉でもあります。決してそのときには、私が期待したような信仰は見られないだろうとの否定的な見方ではない。不正な裁判官さえ、変わるとすれば、どうして、私たちを選ばれた神が、私たちの祈りに答えられないはずがあろうか。必ず、私たちのうめきや訴えをお聞きになってくださるとの主イエスとそのメッセージを受け入れている私ども主イエスの弟子への慰めと励ましへの招きの言葉と言っていいのです。そして、今日の出てきた、ひっきりなしに不正な裁判官のもとへとやって来るやもめとは、私ども、小さな、そして弱い弟子たちを示していると考えてもいいのです。なりふり構わず、そうせざるを得ないで、勝算もないのに、通いつめたやもめは、私どものありようでもあります。
 この世界の怒涛の中で、私どもは、神に向かってひっきりなしに嘆願し続ける今日のやもめの姿であっていいのです。神はその願いに、たとえ忍耐強く、急には答えてくださらないとしても、終わりの時には、予期しない時に速やかに、私どもを擁護し、正義を行ってくださる。神はそのような私どもの信仰と祈りを探し求めておられるのであります。それに信頼して、雄々しく今週もこの1週間の旅路へと遣わされていきましょう。
アーメン。





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