2016年6月23日木曜日

「死から命へー悲しみから喜びへ」(ルカ7:11-17)

ルカによる福音書第711-17節、2016619日(日)、聖霊降臨後第5主日(典讃美唱30(詩編第302-6節)

 ルカによる福音書第711節~17

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めたお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。


  説教「死から命へー悲しみから喜びへ」(ルカ711-17

  つい数日前、英国ではEU残留か、離脱かを問う国民投票が近づいている中、英国労働党の下院議員ジョー・コックス女史、41歳がいわば遊説中に狙撃され、更に切りつけられて死亡するといういたましい事件があったことを、たまたま見ていたテレビで知らされました。今欧州では、移民の受け入れをめぐっても、大きな論争が起こっているそうですが、コックス議員は、移民受け入れを支持する立場であったといいます。
 まだ、若い、これからの英国をリードするような貴重な人物が、突然にして命を奪われ、英国民のみならず、その知らせは国を越えて、世界に悲しみをもたらしていると報じていました。
 私どもは、日頃、自分の死について考えることを避けて、慌しく過ごしていますが、誰にでも訪れる死という現実に、このような悲劇的出来事を通して改めて思いを向けさせられます。
 それほどの死の衝撃はなくても、自分の死について考えますとき、自分の存在や意識がなくなると思っただけでも、非常な恐れを抱かされます。
 前任地の教会で知り合った、今は90歳も過ぎています老紳士の信徒の方は、ヨブ記を英語で聖書を読む会等で、交わりを深めましたが、自分はもう復活の命、永遠の生命を信じているので、死はそれほど恐怖ではなくなったと言われていました。できれば、死に際して、大きな痛み等がなければと願うのみであると、語られていました。
 さて、今日の福音は、先週の、カファルナウムでの百人隊長のしもべを、その家にまで、主イエスは、結局は行かずに、その病を癒されるという奇跡の出来事でしたが、今日はそれに続く記事であります。
 12弟子は言うまでもなく、大勢が主イエスに従ってナインの門近くまでやって来ます。百人隊長の僕を癒した、その翌日のことであるとも訳し得る出来事です。そのとき、ある一人息子の葬列の一行が、ナインの町から出てきます。やもめが、先頭に立ち、その後ろに、棺を運ぶ者たちが続き、大勢の町の群衆が、野べ送りに出てきます。主はその一行を見て、はらわたが疼く思いとなられ、その棺、実際には担架のようなものであったと思われますが、それに手をつけます。いわば、死に、主は、手をつけられるのであります。
 私たちにとっては、どうしようもない、乗り越えられない死に対して、主イエスは手をつけられる。そして、母親には、もう泣かなくてよいと言われ、さらに、死人となっている独り息子に、私はあなたに言う、起きなさいとお命じになる。すると、死人は起き上がって、物を言い出し、担架から降りて歩き回り始める。
 これを見ていたすべての者を、恐怖が捕らえ、彼らは驚きながら、神に栄光を与えながら、「私たちの内に大いなる預言者が起こされた。神はその民を訪れてくださった」と言い合うのであります。
 旧約でも預言されていた、死人は蘇り、神がその民の罪を赦し、訪ねてくださるという出来事がここに実現しているのであります。
 人々にとっては、主イエスは大いなる預言者として見られましたが、この記事の後に見られる洗礼者ヨハネは、この出来事をその弟子たちを通して知らされます。死人はよみがえり、貧しいものは福音を知らされていると。
 主イエスは、罪のとげである死を滅ぼすために、お出でになられ、神は、罪なき方を、罪ある者として十字架にかけられ、主は死んで、陰府にくだり、死人のうちから復活し、天の父の右の座にあげられるのです。
 この日の出来事を通して、神は、イエスを通して、その民である私たちの下に訪ねてくださいました。私たちが罪と死の中にあるいるその只中に、この若者を死者の中から呼び覚まし、ご自分の復活の前触れとなされたのであります。死の棘は律法の力であるとパウロは言いますが、このナインの出来事は、その死の力である罪から、私どもを救い出す、神の一方的な力を、神が現わしになった出来事であります。この若者も、ヤイロの娘やラザロと同様にやがては年老いて、地上の生涯を終えたことでありましょう。彼ら、死人から呼び起こされた者たちが、どのような思いで、その後の生涯を歩んだのかは、聖書の記すところではありません。
 問題は、私たち聖書を知る者が、この日、「大いなる預言者が、否、メシアが、わたしたちの内に起こされた、そして神はその民を訪ねてくださった」と歓呼の合唱を口ずさむことができるかどうかであります。
 私たちは、なお弱く、生涯の終わる時まで、言葉と思いと行いとによって、み前に罪を犯す者でありますが、主は既にその罪の源である死のとげを抜いてくださっています。聖霊の力によって、私たちに与えられた生涯を、このナインでの出来事を見たすべての者たちと共に、神に栄光を帰しながら歩んで生きたいものであります。アーメン。




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