降誕節第一主日礼拝(2025年12月28日)(白)
イザヤ書63章7―9節(旧)
ヘブライ人への手紙2章10―18節(新)
マタイによる福音書 2章13―23節(新)
本日の福音書は、クリスマス劇でお馴染みの3人の学者たちが登場します。クリスマス劇では、イエス様が誕生した夜に羊飼いと博士達が馬小屋に大集合する様子が演じられますが、実際は、羊飼い達はルカ福音書に、学者達はマタイ福音書に、と別々に記載されており、よく読みますと、場所こそ同じベツレヘムですが、二つの出来事が起こった時期にはズレがあることがわかります。
マタイ福音書の記者マタイは、イエス様の弟子となる前は徴税人で、社会からは罪人扱いでした。そんな彼は社会の暗黒面や、人間の裏側、ドロドロしたところを人一倍知っていたはずです。そのマタイが学者の来訪を記録するからには、隠された意図があるに違いないのです。
この学者達の祖国・東の国は、今のイラン辺り、当時の名前で言えばペルシャ辺りであったと思われます。ペルシャは文化的にも経済的にも優れた地域でした。
ペルシャはかつてユダヤの民を支配していましたが、そのおりユダヤ人の信仰の書物であった旧約聖書を知り、そこに書かれている「救い主誕生」に興味を持ったようです。それでユダヤ人が独立を勝ち取ってペルシャから去った後も、ずっと研究を続けていました。
数百年が過ぎた頃、ペルシャは同時代に台頭してきたローマと抗争を繰り返しており、心ある人々は状況を憂いていたでしょう。そんな時ペルシャの天文学者達は星の動きによって、旧約聖書に記されている「世界を救う王様」が誕生されたことを知ったのです。
学者達は分析を重ね、王様が生まれた場所がエルサレム周辺と見当をつけます。そして「世界を救う王様の誕生」なのだから、今頃エルサレムはお祭りムードになっているだろう、と思い込んだのでしょう。
ところが長い旅をしてたどり着いたエルサレムは何かを祝った形跡もなく、尋ねても誰も知らないのです。焦った学者達は手当たり次第聞いて回ったと思われます。そしてそれが暴君・ヘロデ王の耳に入ります。ヘロデ王は、この知らせに怒り、ユダヤ人の専門家を集め「メシアはどこに生まれることになっているのか」と調査を命じます。しかしそれは旧約聖書を知るものにとっては難しい調査ではありませんでした。
専門家達はすぐに旧約聖書のミカ書の5章1節にたどり着きます。ミカ書箱のように記されています。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」これによりますと、ミカ書の方がより具体的で、新しい王がベツレヘムで誕生し、ヘロデの時代は終わると神が預言されていることがわかります。
実は、ヘロデ王とは本来イスラエルの王座につく資格のない人物でした。しかしローマに対して政治的に立ち回り、権力を手に入れたのです。心の内では正当な王が現れた時立場を失うかもしれないと、常に不安を抱いていたことでしょう。
そこでヘロデは、学者達を呼び寄せ、「救い主はベツレヘムに生まれたようだ」と教えた後「その子を見つけたら知らせてくれ、私も行って拝もう」と告げます。これはヘロデが「神様の言葉を逆手に取るようなもので」イエス様を暗殺するために学者達を泳がせ、スパイに使おうとしたのです。クリスマスだというのに、何ともどろどろしたお話です。
しかし救い主の誕生は全ての人の希望だと信じ込んでいる学者達は、ヘロデ王のためにも一刻も早く探さねば、と使命感に燃えました。世界のあらゆる国が手に手をとりあって平和を築いていくためにこの方が必要なのだ。何百年も待ち望んだ方は、どれほど威厳を持った赤ん坊だろう。財産の全てを捧げても、無駄とは思えない方とはどのような方なのか、とワクワクする思いを抑えられませんでした。
ところが、やっとのことで探し当てたのは小さな家でした。さらに言えば、彼らが出会った幼子イエス様は、一眼見ただけでは、どこにでもいるような赤ん坊だったのです。
聖書からは学者達が即座に「ひれ伏して拝んだ」という印象を受けますが、実際にはちょっと間があって、母マリアやヨセフに、「あなた達はどういう方なのか」と尋ねたかもしれません。マリアとヨセフから、天使のお告げのことや、苦難の末にベツレヘムにたどり着いたことなど、イエス様誕生の経緯を聞いたのかもしれません。
話を聞くうちに、しみじみと、この方は力の無い幼子に見えても、神様のご計画はもう始まっていて、この方こそ世界を平和に導く、まことの王となられるのだと、納得したことでしょう。だからこそ心の底から喜びに溢れて、用意した宝の数々を捧げることができたのです。
このエピソードは、救い主に出会い、信じることは偶然や理屈ではないと教えています。イエス様と出会ったなら、自分の思い込みを脇に置いてそこに導いてくださった神様に素直に心を開くこと、そうすれば、どんな人も平和を愛する神の子として生きることができるのです。
しかし、マタイ福音書が伝えるのはそれだけではありません。平和や愛を喜ばず、神の言葉は信じてはいるが、敵対する者は常にいることも同時に教えています。学者達は夢でヘロデの悪巧みを知り、ヘロデに利用されることなく自分の国へと帰って行きます。
騙されたことに気づいたヘロデは、恐ろしいことにベツレヘムの2歳以下の赤ん坊を全て殺すという暴挙に出ます。光に照らされることを拒んだ者の心の闇はどこまでも深くなる、それがマタイの描き出したクリスマスの出来事なのです。
私たちはこの聖書の物語を繰り返し心に刻んで、どんな時も救い主を目指して進み、妬みや不安からくる闇に囚われないよう共に祈って参りましょう。
![]() |
| イブ礼拝には、ささやかなプロジェクションマッピングや プラネタリウム機能を使って 少しでも心に残るような演出を試みました 聖壇に飾っているのは小さな聖家族像ですが こんなふうにライティングすると なかなかドラマチックです |

0 件のコメント:
コメントを投稿