2025年12月7日日曜日

「洗礼者ヨハネの思い」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・待降節第二主日礼拝 2025年12月7(日)(紫)

イザヤ書11章1―10節(旧1078)

ローマの信徒への手紙15章4―13節(新320)

マタイによる福音書 3章1―12節(新3)


 先週、12月1日月曜日に、礼拝堂で幼稚園の合同礼拝を行いました。園児たちがこの場所で礼拝を守ったのは、この場所のリノベーションが終わってから初めてのことです。これからはおおよそ毎週、この場所で合同礼拝を行います。


 幼稚園と教会、そしてピアノ教室に集まる皆さんとも気持ちよく空間を共有していくために、お互いに配慮し合いながら大切に使っていけることを願っています。


 さて、今更ですが、クリスマスは元々ギリシャ語で「クリス」と「マス」の合わさった言葉です。クリスが救い主、マスが集まる・礼拝する。つまり「クリスマス」とは救い主イエス・キリストの元に集まるという意味です。


 幼稚園の合同礼拝では、「集まる」ことの大切さを少しでも伝えたくてお話をしてみました。


 みんなは病気になった時、どこに行くかな?「病院」だね。病院に行ったら誰に見てもらうかな?「お医者さん」だね。そんなやりとりの後、「悪いことをしてしまったり、悪いことが起こってしまったら、どうなるかな?」と訊ねると、「地獄に落ちる」「地獄になる」といった分かりやすい答えが返ってきました。


 日本で育った私たちは仏教徒でなくても「因果応報」という考え方が染み付いています。自分がやった悪いことの報いは必ず帰ってくる、どこかで思っているのです。ですから、何か悪いことが起きると過去の何がいけなかったのかとくよくよしますし、死期が近づくと「地獄に落ちたくない」と苦しむことが多いのです。


 けれども、神の子イエス様は、地獄のような苦しみの中に生きる人や地獄への恐怖に囚われている人々を救うという特別な使命を与えられこの世に来られました。そのためにイエス様は苦難の道、十字架の道を歩まれたのです。


 幼稚園の子どもたちがよく歌う讃美歌に「海と空作られた主は」という曲があります。「海と空作られた主は、あなたの主、わたしの神、罪を赦し、救いたもう、みんなの主、イエスは主、ハレルヤ、みんなの主」


 以前手話の先生から教わったことは、一般的な救いというのは「藁にもすがる」というイメージで表現するが、キリスト教の救いは、もがき苦しむものを神が全身全霊をかけて底辺から掬い上げると表す、ということでした。


 神様は、地獄に行くしかない、と私たちが思っていても、助けてくださる方なんだよ、と、子どもたちの心に染み込むまでお話を続けたいと思うのです。


 世の中には正しく生きる術を知らず、悪い方向へ、悪い方向へと進んだ人達がいます。人を苦しめ、傷つけて楽しんだり、自分が利益を得るためならどんな酷いことでもする「極悪人」としかいえない人々もいます。しかし神様はそのような人々を地獄に落として「はい終わり」ではなく、なんとかして救うことを願われます。


 神様は、そういった人々はそもそもご自分の元から離れてしまったことが原因なのだ、と受け止めておられます。ですからなんとかして連れ戻し、救いあたいという思いが旧約聖書に記されており、そのお言葉を実現するために、救い主イエス様がこの地上にお生まれになったのです。


 本日の福音書にはイエス様の登場に先駆けて、洗礼者ヨハネという人物が登場します。福音書を書いたヨハネと区別するために「洗礼者」あるいは「バプテスマの」と付けて呼ばれています。彼は荒野に住まい、野蜜を食い、毛皮の毛衣を着て、「神の国が近づいた、悔い改めなさい」と宣教しました。


 すると彼の呼びかけに応え、多くの方々がヨルダン川に集まりました。人々は神の国に行くためには、自分の犯した罪や悪を悔い改めることが必要だと納得し、導かれるままに洗礼を受けました。民衆は洗礼者ヨハネこそ、旧約聖書に記され、約束されていた「救い主・キリスト」なのかと期待しますが、ヨハネは「わたしより優れた方が後から来られる」というばかりです。


 と言いますのも、ヨハネ自身も、多くの人を悔い改めに導くことはできましたが、中には「自分は救いに値しない」とそっぽを向く人々や、「自分は悔い改めるような罪は犯していない」と思い込んでいる傲慢な人々もおり、それに対しては打つ手立てはありませんでした。彼はただ、天国に望みをおく人に洗礼を授け続けることしかできませんでした。


 私たちは、洗礼者ヨハネのジレンマがよくわかるのではないでしょうか。家族や友人に神様の愛や天国を伝えたい、けれども、なかなかうまくいかない。さまざまな行事の時には教会に集まってくるけれどなかなか信仰と結びつかない人に、どうやってあなたは神様に愛されているんだよ、と伝えたら良いのかわからない。


 今の時代、キリスト教さえあやしげな宗教のように思われ、気軽に礼拝に誘うことも難しいですし、生成AIを用いればさまざまな牧師や学者のメッセージを合わせたような文章も読むことができ、教会に来る必要を感じないかもしれません。


 さらに厄介なのはSNSを使って、あそこの教会は愛がないとか、神がいないとか、有る事無い事書かれることです。これを読んだ人が本気にして次々拡散することさえあります。なんという大変な時代なのだろう、と思います。それでも、私たちは救われた者として、神様の御心を示す役割を与えられている。めまいがしそうな時もあるますが、やるしかありません。


 この季節、普段は礼拝に来ることのない人が教会を訪れやすいタイミングです。先に、「キリストの元に集まる」のがクリスマスだ、とお話ししました。そのようなことは全く知らず、ただ雰囲気を求めて集まるのであっても、私たちは受け止めていく必要があります。


 多くの人はこの場所でしか具体的にイエス様を通しての神の心を知ることができないのです。だからこそどんな時も「メリークリスマス」とにこやかに、イエス様の思いを伝えるために、訪れる人々を迎え入れてまいりましょう。



13日は土曜学校です
クリスマスの学びとクラフトを楽しみましょう
どうぞお集まりください(^▽^)



リノベーションした教会玄関は
少しスペースに余裕があるので
今まで聖壇の上にあって
少し窮屈だったクリスマスツリーを
玄関に移してみました
ルターの紋章のステンドグラスとともに