聖餐式・聖霊降臨後第17主日礼拝(2025年10月5日)(緑)
ハバクク書1章1―4節、2章1―4節(旧1464)
Ⅱテモテの手紙1章1―14節(新391)
ルカによる福音書 17章5―10節(新142)
今日の福音書はイエス様が弟子集団に向けてお話になったものです。ここには「弟子」という言葉と「使徒」という言葉が使い分けられています。簡単に説明しますと、「弟子」はイエス様の信徒全体を指す言葉で、「使徒」とはイエス様によって特別に選ばれ、神様の言葉を宣げ広める使命を与えられた人々を指します。
キリスト教は、当初はその母体であるユダヤ教からも、周辺の多神教の国々からも疎まれ、迫害されます。それでも信仰を捨てなかった人々は、聖書を規範として誠実で死をも恐れない生き方は世間の人々から密かに尊敬を勝ち得ていました。
しかし、やがてローマ帝国がキリスト教徒を公認し、4世紀の終わりには国教、国の宗教と定めたため、ガラリと環境が変わります。キリスト教は地中海世界全体に広がり、キリスト教徒は多数派となり、迫害に怯えることは無くなります。
が、それと同時に、クリスチャンになる時に「命をかけてイエス様に従う」とまで覚悟を決る必要もなくなります。弟子はヨーロッパ全土に増え広がったものの、神様の言葉を宣げ広める覚悟を持った「使徒」と呼ばれる人々の存在は、特殊なものとなっていきます。
かなり遅れてキリスト教が入ってきた日本は、この歴史の影響を強く受けました。日本のキリスト教信者は、戦前も戦後も宣教師から何かを教わることが中心になってしまい、せっかく教会の門を叩いても、入門当時の状態からあまり進歩せず、なかなか「使徒」は生まれてきませんでした。
さて、お話をイエス様の時代に戻しましょう。
福音書を記したルカが活動したのは、イエス様が天に帰られてしばらくしてですが、すでにキリスト教の中の弟子が全て使徒となる信仰を持っているわけではないことを見抜いていました。
今日のお話では、「赦しの教え」を聞いてその厳しさと自分の心のありようを見つめ直し、今の自分ではイエス様のおっしゃったことを実行するのは難しいと考える一般の弟子たちと、「それが実行できるよう信仰を増してください」と願った使徒に分かれたのでしょう。
私たちの心に痛みを生むのは、日常の中で生まれる恨みつらみです。問題の大小に関わらず、裏切りや蔑み、身に覚えのない言いがかりや、責任転嫁といったことは小学生でも経験します。怒りや悲しみを覚えつつも、クリスチャンであれば、誰かを恨む自分を嫌悪するかもしれません。そんな思いから解放されればどんなに良いでしょう。
ことは案外深刻なのですが、このとき使徒たちは、まるで「宝くじが当たりますように」と祈るのと同じように、どこか安易な調子で「信仰を増してください」とイエス様に願ったようにも思えます。ところがイエス様は、そんな彼らに向かって「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を降ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とおっしゃったのです。
使徒たちは一瞬何を言われたのか分からず、呆然としたことでしょう。単純に「信仰は量より質だ」と言われたと思ったでしょうか。「信仰が大きかろうが小さかろうが、それを働かせなければ何も始まらない」という意味でしょうか。
からし種は聖書にしばしば登場する植物で、その種が非常に小さいことは皆さんもご存知でしょう。また、イエス様が「桑」と言われた木は、「いちじく桑」とも言われ、コブだらけで見た目は悪いけれど深く根をはる頑丈な木です。さらにその実は食用にもなったため、何かと重宝される木だったようです。
ルカによる福音書では、この後の19章で徴税人ザアカイが一目イエス様を見ようと登った木として登場します。
ザアカイは罪人として周囲から嫌われ、自分自身も誰かから好かれることなど諦めていました。そんな彼がいちじく桑の木に登り、イエス様と出会い、親しく声をかけていただき、神の国への希望を取り戻します。そして「お金こそ全て」という生き方を変えることができました。そうした意味で、いちじく桑の木は過去のザアカイの心に深く根を下ろす「罪の象徴」であったかもしれません。
その罪の象徴がどれほど深く根を張っていようと、イエス様を信じ慕う者が「抜け出して海に根を下ろせ」「私から立ち去れ」と願うなら、罪の根は抜け、その木は海に沈むのです。自分の罪に正面から向き合い、イエス様を愛するが故に、自分の罪を捨て去る覚悟と努力をする者だけが「他人の罪を赦すことができる」とイエス様は言われます。
ただ、神様は単純に「よくやった」とはおっしゃいません。「見てください、私は頑張ってあの人を赦しましたよ、褒めてください」と言っても反応がないかもしれません。ザアカイが悔い改めた時は「救いがこの家を訪れた」と言ってくださったイエス様ですが、すでに悔い改めてイエス様の弟子となっている者たちには、いちいち幼い子どもを褒めるような大袈裟な褒め方はなさらないのです。なぜなら、イエス様はご自分を慕うものが成長することを信じ、よく見ておられるからです。一段ずつ階段を上がってくる者を忍耐強く見守るように、わたしはあなたをちゃんと見ているよ、と示してくださるのです。
私たちは「イエス様が努力を認めてくれない」と勘違いしてヘソを曲げるのではなく、自分を神様から引き離す全てのものから抜け出せるよう日々祈り続け、自分の中に再び罪の根を蔓延らせないように気を配り、神様と思いに心を一つにして生きていくのです。
「漠然とキリスト教を信じている」という状態から抜け出して、遣わされた者として、遣わされたこの場所で神様から示された業を行う時、10節に記された「取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と心から言える信仰にたどり着けるでしょう。
教会をリフォームするにあたり牧師館は
近くの古民家を借りました
そこにはお茶室があって
家の中に入らなくても
外側の路地と茶庭を通って直接行くことができます
ただこの路地、日当たりが悪い割には雑草が茂りやすく
飛石は後付けの室外機の位置と相性が悪くて
妙な感じに埋もれているし
歩きにくくて仕方ありません
…ということで、思い切って奮発して
長年このお庭の手入れを担当してきた
地元の造園業者さんにお願いして
整えていただきました
飛石の位置もちょうど良くなりましたし
白川砂利の下にはもちろん防草シートが隠れています
10月10日は教会主催で初めての「お茶会」
この路地を通っていただけるのが今から楽しみでなりません
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お隣さんと牧師館の間の路地 「使用前」をご存知ない方にとっては なんということもない空間ですが 日常の手入れが格段に楽になって 大満足なのです |
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