2025年9月7日日曜日

「信仰の道」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2025年9月7日)(緑)

申命記30章15―20節(旧320 )

フィレモンの手紙1―21節(新399)

ルカによる福音書 14章25―33節(新)


 本日の福音書は、イエス様に大勢の群衆がついてきた、というところから始まっています。人々は真剣に神様のお話を聞こうというよりは「何かいい話が聞けるかも」と「お得感」を求めているようで、まるでバーゲン会場に群がる人のようでしたから、イエス様は振り向いてそれらの人々を諭すように語られました。それは一般受けするような楽しいものでもなく、簡単なものでもありませんでした。


 「誰でも私に従いたければ、父、母、妻、子、兄弟、姉妹以上に、いや自分の命以上に私を愛しなさい。また、自分の十字架を背負い、私に従って来なければとても私の弟子にはなれない」


 なんと厳しい言葉だろう、そこまで犠牲を払ってイエス様に従って、得るものがあるのだろうか。多くの人々はそう思ったでしょう。しかし「得るものはある」とイエス様は言われるのです。それは「神様が天国へ招いてくださる」ことであり、「この世での命が終わっても、天国で永遠の命を得ることができる」という確かな約束なのです。


 しかしここで引っかかりを感じる方もおられるかもしれません。それは「父や母以上にイエスを愛せ」というところです。ただこれは「父や母を平然と見捨てて礼拝に行きなさい」ということではないのでしょう。イエス様は「父と母を敬え」という教えを重んじておられることが他の福音書にもはっきりと書かれています。


 ですからこれは家族を軽んじなさい、という教えではありません。イエス様ご自身が十字架の上で亡くなるとき、母であるマリアを悲しませてしまったことに苦しみを覚えたように、「父母の期待を裏切る自分に苦しみや痛みを覚えても、怯まないで進みなさい」と解釈できます。


 この御言葉は33節の「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなた方の誰一人として私の弟子ではあり得ない」と合わせて理解をする必要があるでしょう。


 思い切って簡単にいうならば、イエス様の弟子になろうとするならば、家族であれ、所有物であれ、いっそ自分の人生であっても「これは自分のものだ、自分にはこれらを自由にする権利がある」と言い張ってはならない、ということなのです。


 もちろんこれは簡単なことではありません。私たちも、クリスチャンであることで不都合な体験や辛い経験をしたことはいくらでもあるはずです。家族や友人、会社やご近所の方々との関係性を重んじるあまり礼拝に行けなかった、などということはザラにありますし、経済的に厳しい時、献金を捧げるのが辛い、ということもあります。


 世の中には、病気になってもにっこり笑って「これも神様の栄光を表すために主が与えられたものです」と証される立派なクリスチャンがいるけれど、自分はとても真似できない、体調不良になる度「神様はなぜ私をこんなに辛い目に合わせるのか」と愚痴ってしまう。自分のダメさ加減に落ち込む、そんなことも一度や二度ではないでしょう。


 だからこそ、イエス様は28節から32節にかけて、ご自分の弟子になる前にはよく考えるように、と言っておられるのです。


 建築をする人は予め費用を計算します。戦争をする王様も予め自分の軍隊にどれほど兵力があるかを計算します。それと同じように、信仰に入る者も、今この国で信仰者になったならどれくらい犠牲を払うことになるか、イエス様に従うために犠牲を払い切る覚悟があるか、と自分自身に問いかけなければならないのです。


 それをしないまま信仰の家を建て、信仰の戦いを開始するなら、大きな損失を被る危険がある、とイエス様は警告されたのです。塩は辛さを失えば価値がなくなるように、イエス様を第一としないクリスチャンは神様にとって価値がないものとして、天国に招いてはもらえない、とおっしゃるのです。


 イエス様はこの厳しいお話を、自分の跡をただ無自覚にゾロゾロついてくる群衆に向けて語られました。イエス様は「弟子は数がいれば良い」という、何かの教祖のようなことは望まれず、覚悟のある弟子を求められ、ご自分が天に帰られた後は、その人々にこそ教会を任せ、宣教の業を委ねようと考えられたのです。


 ここまでお話しすると、「自分にはそんな覚悟はないかもしれない」と思われる方もおられるかもしれません。「そんなに深く考えて洗礼を受けたわけではないのに、今頃になってそんな厳しいことを言われても困る」と思われる方もおられるかもしれません。


 イエス様を信じ、神の国にいたる道を歩んでいくことが聖書から学びとれないと、いつまでも信仰的な適応力が低いままで、キリスト教入門で留まってしまいます。ただ、皆さんは「厳しいなあ」と思っても、「じゃあ、もうクリスチャンやめます」とはおっしゃらないでしょう。


 なぜなら、わたしたちはこの聖書箇所に続いてイエス様の語られるたとえ話、迷子になった一匹の羊を探す神様のお姿や、放蕩息子の喩えを知っているからです。洗礼を受けるとき、覚悟が足らなかった、甘かった、と思うことは何度もあるかもしれません。礼拝から遠ざかったこともあるかもしれません。しかしイエス様はそんな私たちの弱さも見越した上で招いてくださり、あなたの信仰は成長することができる、と言ってくださるのです。


 だからこそ、わたしたちは何度でも悔い改め、何度でも覚悟を決め直すことができます。わたしたちは、聖書がなくても、イエス様を知らなくても、生きていける人々に囲まれているけれど、怯まないでイエス様に従い、一歩一歩成長しながら「信仰の道」を歩んでいきましょう。そのために、この場所を作り上げることを神様がお許しになったのです。



9月20日は久しぶりの土曜学校です

まだまだ暑い日々が続くため

「涼しげなヨットを作ろう」と思い立ち、準備を始めたものの

いかんせん実物をしみじみ見たことはありません

ネット上に資料はたくさんあるけれど

どこにポイントを置いて略せば正しいのか分かりません

正確に簡略化し、子ども向けにアレンジするのは

本物を知らなければ難しいですね(^^;)


聖書を子どもたちにお話しするのと

共通したところがあるのかもしれません


土曜学校の工作はヨット
A4のクラフト紙を折ってボートを作り
帆に絵を描いてもらってキャラクターを乗せて
仕上げる予定です

0 件のコメント:

コメントを投稿