2025年9月28日日曜日

「天の国のラザロ」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第16主日礼拝(2025年9月28日)(緑)

アモス書6章1節、4―7節(旧1436)

Ⅰテモテの手紙6章6―19節(新389)

ルカによる福音書 16章19―31節(新141)


 「ラザロ」という名前は「神はわが助け」とか「神は助けてくださった」という意味です。本日読みましたルカ福音書に登場するラザロはイエス様が創作されたお話の登場人物ですが、ヨハネ福音書にもイエス様の友人としてラザロが登場します。


 ラザロが危篤になった時、姉妹たちはイエス様はすぐに癒しに来てくださる、と思って知らせを送ります。しかしイエス様は「この病は死ぬほどのものではない」とお答えになり、すぐに向かおうとはしませんでした。


 結果的にラザロは一度死んで墓に葬られます。ラザロの姉妹たちはその後でやってこられたイエス様に対して「もしもっと早くあなたが来てくださったら兄弟は死ななかったのに」と嘆きますが、イエス様は彼女たちを伴って墓に行き、そこで奇跡を起こされます。ラザロは死後4日も経っていたのに、蘇って墓から出てきたのです。


 このラザロに関しては諸説ありますが、病弱でいつ死んでもおかしくないと言われるほどだったようです。律法学者や政治家は、常日頃から健康は神様からの愛や祝福の証しである、と教えていましたから、病弱なラザロは神様から嫌われた者、憎まれた者ということになります。そのラザロが、神の一人子に愛され、命を取り戻したのです。たとえ話のラザロには、こちらのラザロのイメージが重ねられているのではないでしょうか。


 さて、イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の属国となって政治的に支配されていましたが、ローマは属国に対してかなり寛容でした。ローマに高額の税金を払う覚悟さえあれば、商売で成功して金持ちになることもできたのです。


 この例えに登場する金持ちは、ローマ帝国相手に何らかのビジネスで成功したイメージでしょう。彼は、豪華すぎるほどの衣装を身に着け、毎日のように贅を尽くした食事を堪能していました。


 イエス様はその金持ちの門の前にラザロという人物が横たわっていた、と言われます。ラザロは宴会の食卓から落ちるもので良いから食べたいと願いながらも叶わず、野良犬が、ラザロのできものをなめるという、悲惨な日々を送っていました。


 注意しておきたいのは、イエス様は、この金持ちが信仰を失った、とは言っておられないことです。ユダヤ人である以上、神様がおられることは心に刻まれています。この金持ちは神様を忘れたのではなく、神様の御心を忘れたのです。


 神様は人間に対し、ご自分を敬い、その教えに従って隣人を愛する努力をしなさい、とお教えになりました。自分にとって愛しやすい人や得になる人だけ愛するのではなく、損失を被ることがあっても恐れずに愛の行いをしなさい、という教えです。しかしこの金持ちはそこのところをすっかり忘れていたのです。


 一方、ラザロは富もなく、健康もなく、気遣ってくれる家族も友人もいません。何一つ持たない彼が、唯一持っていたのが神様への信仰でした。時には神様に恨み言を言ったかもしれません。しかし神様への信頼と愛だけは最後まで持ち続けたのです。


 そんな対照的な二人でしたが、死は誰にでも平等に訪れます。しかし地上の命の終わりは全ての終わりではありません。むしろ、この世で生きていた時間よりもはるかに長い、永遠の場所が待っています。人はそこで神と共に過ごせる天国という場所と、神から全く見捨てられた地獄という場所に振り分けられるのです。


 ところで、10年位前のことですが、名古屋の教会で牧師をしていた時、かつて積極的に日本宣教に関わった国々の現状を知り、意見を交わす話し合いに出席ことがあります。驚いたのは、アメリカの教会では聖書に地獄について書かれていることは伝えない、ということでした。


 その方は「アメリカの教会に集う信徒は小児洗礼を受けているケースが多く、皆がほぼクリスチャンなので、全員天国へと行けることになっているから、地獄など教える必要はないのです」と胸を張って言われます。また「地獄というのは東洋的な考え方で、欧米人にはそぐわない」と言われ、その意見にも驚き、悲しみさえ覚えました。イエス様もまさか、ご自分の教えが欧米のクリスチャンから「伝える価値がない」などと退けられるとは思ってもみなかったでしょう。


 このたとえ話を語られた時、イエス様には当時のユダヤ教が抱えていた問題が見えていました。たまたま何か上手くいったぐらいで驕り高ぶり、自分は神様に愛されていると信じ込み、弱者に対して「神に見捨てられた不幸な存在」と決め、つけ手を差し伸べることを拒む、そんな態度は神様が最もお嫌いになるのだ、と気づかせることだったのです。


 キリスト教のトップが、聖書の真理を歪めて間違いを押し付け、勘違いした信徒を育てる過ちは何度も繰り返されてきました。中世のルターの時代も「贖宥状」を購入することで罪が赦されるという、とんでもない間違いが罷り通っていたのはご存知の通りです。


 聖書には素晴らしいことや愛に溢れた文章だけが記されているという先入観に支配され、自分の思惑と違う箇所は読み飛ばす、という姿勢では、罪からの悔い改めや懺悔を学ぶことができず、いつまで経っても神の深い慈愛のメッセージを理解することができません。

 イエス様は「あなたが何者であろうと、私に助けられたもの、愛されたものである」と宣言してくださり、それを素直に受け入れた者が天国へと導かれていくのです。

 あなたは今、ラザロほどに悪い人生を送っているのではないかもしれません。しかしラザロと同じくらい私たちは神の愛に生きています。この愛を忘れず、自惚れず、高ぶらず、感謝の内に、神と人の間に生きて参りましょう。



月に一回、「みんなのトピックス」という教会報を発行しています。

今回はお手伝いいただける方を募集しています。

もしもこれを読んで新しい方がスタッフに加わってくださったら

こんなに嬉しいことはありません(^^)



受付に置いてあるチラシ、JPGにして貼りました
拡大したら読めるでしょうか?

2025年9月21日日曜日

本日は甲信地区をZOOMで繋いで合同礼拝を行いました

本日は甲信地区ネット回線合同礼拝でした
松本教会から発信していただき
甲府、諏訪、長野、飯田の各教会をZOOMで結びました

どうぞご覧ください


さてさて、昨日は久しぶりの土曜学校でした
16名のお友達が参加してくれて
思い思いのヨットを完成させてました

良いお顔でしっかりヨットをこちらに向けて
モデルを務めてくれた4人の写真をご覧ください(^^)





次回の土曜学校は10月25日です
保護者の方もお子さんと一緒にどうぞご参加ください
…実は少し人手不足でして(^^;)
終了後、お片付けをちょっとだけ
手伝っていただける方がいれば
とても嬉しいのです
よろしくお願いいたします

2025年9月14日日曜日

「罪人と救い主」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第14主日礼拝(2025年9月14日)(緑)

出エジプト32章7―14節(旧147)

Ⅰテモテ1章12―17節(新384)

ルカによる福音書 15章1―10節(新138)


 どんな方にも生き方の支柱となるものがあると思います。クリスチャンの少ないこの国で生きるのは大変なことも多いのですが、それを乗り越えて信仰生活をする上で最も大切なのは「神のために」という考え方、生き方であります。私たちの毎日は神の為にあり、神が与えてくださった恵みを有効に使い、神様が与えてくださった平和の為に生きていくのです。


 ところが「神のために」という思いは、一つ間違えると大きなトラブルを引き起こします。キリスト教の母体であるユダヤ教は古代イスラエルの民族宗教、国の中心でした。彼らは聖書に記された「神のために」という言葉を全てのことの基準としました。


 ただ、政治のトップというものは悪意のあるなしに関わらず、民衆の真剣な信仰を自分の政治活動のために利用します。しかしそれでは間違った方向に行きやすいので、神様ご自身が預言者を遣わし、神の言葉を伝え、軌道修正しようとなさるのですが、政治や陰謀に長けた人々は巧みに預言者を排除します。その結果国全体が壊滅的な方向へ進む、ということがイスラエルの歴史で繰り返されました。


 そしてイエス様の時代、イスラエルはローマとの戦争に敗れ、ローマ帝国の属国となっていました。ですから「ローマ皇帝のために」とか「ローマのために」と、いわば「お国のために」という忠誠心を持つ必要がありました。


 しかしユダヤの民は先祖から「神のために」生きるという信仰を受け継いでいました。主なる神よりローマ皇帝の方が偉いなどとは、考えたこともなかったのです。属国として重い税金を払わされ、皇帝崇拝を強制されればされるだけ、民衆は必死で神様に、そして神様が与えてくださった律法に頼りました。


 そのような状況の中、律法の教師たちは民衆の不満を政治から逸らすためにも、律法に記されている掟をより一層厳しく解釈し、結果的に社会の嫌われ者、「罪人」を作り出して行きます。


 ユダヤ人の政治指導者や宗教指導者は、ローマの手先になって税金を取りたてる徴税人を「罪人」とし、「遊女」にしても、「病人」にしても、「障害をもっている人」にも、律法を拡大解釈して全てを神に見捨てられた罪人と定めたのです。


 しかし神様は人間の自分本位なやり方をよくご存知でしたから、ご自分の一人子イエス様を地上に遣わされました。そしてイエス様は神様が本心から人間に何を望んでおられるかを教えられるために、時には奇跡を行い、時には罪人に手を差し伸べ、民衆にもわかりやすいお話をして導こうとされたのです。


 イエス様は、集まる人々によって語り口を変えながらお話をなさいました。この日は社会から罪人のレッテルを貼られている人々もお話を聞こうと集まってきましたが、それを律法の教師たちが見咎め、不平を言い出します。そこでイエス様はたとえ話を用いてわかりやすく御心を教えてくださいました。


 印象深く誰の心にも残るのは「迷える羊」の話でしょう。そして続いて同じテーマでドラクメ銀貨10枚の内、一枚を無くした女性のお話をなさいました。羊の話の影に比べて礼拝説教で取り上げられることは少ないですが、羊と銀貨を同列に喩えられたところにイエス様の深い思いが隠されています。


 1ドラクメは、当時の労働者の1日分の賃金に相当しましたから、彼女が銀貨を必死で探すのは当然ですが、実はこの銀貨とは婚約式の指輪相当するようなものではなかったか、という説があります。


 婚約者から10枚のドラクメ銀貨をもらうと、女性はネックレスなどに加工して、大切に管理します。仮に女性の家の全財産が差し押さえられても、10枚の銀貨は彼女から取り上げられることはないほど、社会的にも特別なものだったようです。ただし10枚でワンセット、揃っていてこそ価値があります。それなのに、10枚うちの1枚を無くしてしまったのですから、彼女は死に物狂いで探し続け、長い時間を費やしてようやく見つけ出した時、喜びのあまり友達を招き、一緒に喜んでください、と宴会まで開いたのです。


 ここで考えますのは、もし迷子の羊なら助けを求めて鳴き声を上げたかもしれません。しかし銀貨はただ持ち主が落とした場所でじっとしているだけです。自分が持ち主の元を離れてしまったことへの不安も悲しみも感じません。家のどこか片隅に転がって、埃にまみれ、価値を失っていくことを残念とも思いません。


 イエス様は、救いを求めて泣くこともなく、救いなどというものがあることすら知らないその一枚が、私たちにより近いとお考えになっていたのでしょう。「神から離れてしまった、私は罪人だ」そんな自覚のないまま生きている一人一人を探し出すために、イエス様はこの地上に来られ、神様が探しておられることを伝えるために、罪人と関わってくださったのです。


 私たちは失われた一枚のコインでした。10枚の銀貨が全体で価値を取り戻したように、私たちもイエス様によって教会に結び合わされることで、価値のあるものになったのです。その意味を受け取ってこそ、このたとえ話の御心を理解したことになるのです。


 日本では神様から離れた人を「罪人」と呼ぶ考え方はありません。しかし、この罪人と神様をつなぐのは、救い主から託された大事な役割です。イエス様は「罪人と神様」を結び付ける役割に生涯を捧げてくださいました。私たちはイエス様によって互いに結び合わされ、失われたかに思えた存在だったのが招き入れられ、無価値に見えたものが変わらぬ価値あるものとされ神様の元に戻されたのです。


 私たちは、イエス様を遣わしてくださった「神様のため」に生き、それこそを自分の信仰のモチベーションとしてまいりましょう。救い主イエス様の導きを信じ、今日も、明日もその次の日々も、神様の元に戻ってくる人々がこの場に導かれますようにと祈りつつ信仰生活を送ってまいりましょう。



土曜日は幼稚園の運動会でした

大きなトラブルもなく

無事に終えられて感謝です!


例年でしたら、土曜学校でも

運動会を控えた園児のために

楽しんでがんばってね、と言うエールを込めて

運動会にちなんだ讃美歌やお話をするところなのですが

8月の土曜学校をお休みしたので

そこのところもマルっとお休みになりました


「主の業に常に励みなさい」という聖句にふさわしい

紙芝居を選んで聞いてもらう予定です



秋から冬にかけて
幼稚園では行事がいっぱいです
牧師も行事に参加しますので
土曜学校の日程の方をズラす必要が出てきて
第2週だったり第4週だったりしてしまいます
保護者の皆様、実施日をご確認の上
お子様をお連れください
お手数おかけして申し訳ありません(><)

2025年9月7日日曜日

「信仰の道」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2025年9月7日)(緑)

申命記30章15―20節(旧320 )

フィレモンの手紙1―21節(新399)

ルカによる福音書 14章25―33節(新)


 本日の福音書は、イエス様に大勢の群衆がついてきた、というところから始まっています。人々は真剣に神様のお話を聞こうというよりは「何かいい話が聞けるかも」と「お得感」を求めているようで、まるでバーゲン会場に群がる人のようでしたから、イエス様は振り向いてそれらの人々を諭すように語られました。それは一般受けするような楽しいものでもなく、簡単なものでもありませんでした。


 「誰でも私に従いたければ、父、母、妻、子、兄弟、姉妹以上に、いや自分の命以上に私を愛しなさい。また、自分の十字架を背負い、私に従って来なければとても私の弟子にはなれない」


 なんと厳しい言葉だろう、そこまで犠牲を払ってイエス様に従って、得るものがあるのだろうか。多くの人々はそう思ったでしょう。しかし「得るものはある」とイエス様は言われるのです。それは「神様が天国へ招いてくださる」ことであり、「この世での命が終わっても、天国で永遠の命を得ることができる」という確かな約束なのです。


 しかしここで引っかかりを感じる方もおられるかもしれません。それは「父や母以上にイエスを愛せ」というところです。ただこれは「父や母を平然と見捨てて礼拝に行きなさい」ということではないのでしょう。イエス様は「父と母を敬え」という教えを重んじておられることが他の福音書にもはっきりと書かれています。


 ですからこれは家族を軽んじなさい、という教えではありません。イエス様ご自身が十字架の上で亡くなるとき、母であるマリアを悲しませてしまったことに苦しみを覚えたように、「父母の期待を裏切る自分に苦しみや痛みを覚えても、怯まないで進みなさい」と解釈できます。


 この御言葉は33節の「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなた方の誰一人として私の弟子ではあり得ない」と合わせて理解をする必要があるでしょう。


 思い切って簡単にいうならば、イエス様の弟子になろうとするならば、家族であれ、所有物であれ、いっそ自分の人生であっても「これは自分のものだ、自分にはこれらを自由にする権利がある」と言い張ってはならない、ということなのです。


 もちろんこれは簡単なことではありません。私たちも、クリスチャンであることで不都合な体験や辛い経験をしたことはいくらでもあるはずです。家族や友人、会社やご近所の方々との関係性を重んじるあまり礼拝に行けなかった、などということはザラにありますし、経済的に厳しい時、献金を捧げるのが辛い、ということもあります。


 世の中には、病気になってもにっこり笑って「これも神様の栄光を表すために主が与えられたものです」と証される立派なクリスチャンがいるけれど、自分はとても真似できない、体調不良になる度「神様はなぜ私をこんなに辛い目に合わせるのか」と愚痴ってしまう。自分のダメさ加減に落ち込む、そんなことも一度や二度ではないでしょう。


 だからこそ、イエス様は28節から32節にかけて、ご自分の弟子になる前にはよく考えるように、と言っておられるのです。


 建築をする人は予め費用を計算します。戦争をする王様も予め自分の軍隊にどれほど兵力があるかを計算します。それと同じように、信仰に入る者も、今この国で信仰者になったならどれくらい犠牲を払うことになるか、イエス様に従うために犠牲を払い切る覚悟があるか、と自分自身に問いかけなければならないのです。


 それをしないまま信仰の家を建て、信仰の戦いを開始するなら、大きな損失を被る危険がある、とイエス様は警告されたのです。塩は辛さを失えば価値がなくなるように、イエス様を第一としないクリスチャンは神様にとって価値がないものとして、天国に招いてはもらえない、とおっしゃるのです。


 イエス様はこの厳しいお話を、自分の跡をただ無自覚にゾロゾロついてくる群衆に向けて語られました。イエス様は「弟子は数がいれば良い」という、何かの教祖のようなことは望まれず、覚悟のある弟子を求められ、ご自分が天に帰られた後は、その人々にこそ教会を任せ、宣教の業を委ねようと考えられたのです。


 ここまでお話しすると、「自分にはそんな覚悟はないかもしれない」と思われる方もおられるかもしれません。「そんなに深く考えて洗礼を受けたわけではないのに、今頃になってそんな厳しいことを言われても困る」と思われる方もおられるかもしれません。


 イエス様を信じ、神の国にいたる道を歩んでいくことが聖書から学びとれないと、いつまでも信仰的な適応力が低いままで、キリスト教入門で留まってしまいます。ただ、皆さんは「厳しいなあ」と思っても、「じゃあ、もうクリスチャンやめます」とはおっしゃらないでしょう。


 なぜなら、わたしたちはこの聖書箇所に続いてイエス様の語られるたとえ話、迷子になった一匹の羊を探す神様のお姿や、放蕩息子の喩えを知っているからです。洗礼を受けるとき、覚悟が足らなかった、甘かった、と思うことは何度もあるかもしれません。礼拝から遠ざかったこともあるかもしれません。しかしイエス様はそんな私たちの弱さも見越した上で招いてくださり、あなたの信仰は成長することができる、と言ってくださるのです。


 だからこそ、わたしたちは何度でも悔い改め、何度でも覚悟を決め直すことができます。わたしたちは、聖書がなくても、イエス様を知らなくても、生きていける人々に囲まれているけれど、怯まないでイエス様に従い、一歩一歩成長しながら「信仰の道」を歩んでいきましょう。そのために、この場所を作り上げることを神様がお許しになったのです。



9月20日は久しぶりの土曜学校です

まだまだ暑い日々が続くため

「涼しげなヨットを作ろう」と思い立ち、準備を始めたものの

いかんせん実物をしみじみ見たことはありません

ネット上に資料はたくさんあるけれど

どこにポイントを置いて略せば正しいのか分かりません

正確に簡略化し、子ども向けにアレンジするのは

本物を知らなければ難しいですね(^^;)


聖書を子どもたちにお話しするのと

共通したところがあるのかもしれません


土曜学校の工作はヨット
A4のクラフト紙を折ってボートを作り
帆に絵を描いてもらってキャラクターを乗せて
仕上げる予定です