2025年8月10日日曜日

「信仰で造る世界」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2025年8月10日)(緑)

創世記 15章1―6節(旧19)

ヘブライ人への手紙11章1―3節、8―16(新414)

ルカによる福音書 12章32―40節(新132)


 みなさんは「キリスト教会」と聞いて、どんなイメージを持たれるでしょうか。

一般的にはイタリアやフランスの大聖堂のように、荘厳な鐘の音やきらびやかなステンドグラス、パイプオルガンの調べなど、そこに入っただけで心身共に清められ、日頃の罪深さや心の醜さが吹き飛ぶように思える別世界のような場所、それこそが教会、というイメージを多くの人は持っています。


 しかしクリスチャンである私たちまでそうだと少し困ったことになります。豪華なカトリックの大聖堂に憧れるあまり、今自分達が集っている教会に足りない設備ばかり数えて、ここもまた神の宮・教会であることをすっかり忘れてしまうことがある、これはあるプロテスタントの牧師の手記に記されていました。


 プロテスタント教会にとって「教会」という言葉は建物だけを意味しません。神様への信仰を持つ一人一人が寄び集められた集まりを教会と呼ぶのです。集う人々によって、運営も形態も異なります。大きさも働きもそれぞれですが、ただ、キリストと共にある天国を生涯かけて証していく集団であると言うことは同じです。礼拝に集まり、聖書の言葉と説教、祈りと讃美に押し出されて神様が遣わしてくださる場所へと押し出されていくのです。


 プロテスタント教会の特徴の一つは、祈りと話し合いと御言葉の示しによって今の自分達のやり方を改めながら行動していくことにあります。ルターが宗教改革を行い、結果としてカトリック教会から分かれてプロテスタント教会が誕生した、そのスタイルを重んじるのです。


 ところが、私たちは結局過去に縛られてしまい、あの時はこうだったとか、あの時代は良かったとか、せっかく話し合いの時を持っても、声が大きく押しが強い人の意見ばかりが通って、結局先に進めないこともしばしばです。これが繰り返されると、せっかく教会に繋がっていながら、神様に与えられた目的意識を失い、信仰的成長とかどうでもいいわ、という諦めのような思いに囚われ、礼拝に来るのも惰性になって緊張感が失われ、聖書に記されている数々の教えも絵空事になり、ついには存在感のない形だけの薄っぺらいクリスチャンになってしまうのです。


これを踏まえて本日ご一緒に読みましたルカによる福音書を見てまいりましょう。ここには「小さな群れよ、恐るな」と言うイエス様のお言葉が記されています。当時、イエス様を慕う人々は、周りを圧倒的多数のユダヤ教徒に囲まれており、自分達がイエス様抜きには満足に世間に立ち向かうこともできない頼りない群れであると知っていました。


 とはいえ、彼らはイエス様がいてくれるから大丈夫、自分達はいずれ天下を取ることもできる、などととどこか楽観的に構えていたようです。しかしイエス様ご自身は、遠からず弟子たちの前で捉えられ、十字架にかからなければならないことをご存知でした。だからこそ限られた時間の中で彼らの教育に心血を注がれました。イエス様は弟子たちに「恐れるな小さな群れよ」と呼びかけられ、御言葉とその正しい解釈を教え、日常の生活にも取り入れるよう導かれたのです。


 こうした集まりには、貧しい者も裕福な者もいました。ローマの支配の中で政情は不安定で、いつ暴動や内戦が起きるか分からない状況でした。イエス様はそんな世界で生きる人々に、どれほど絶望が深くても、自暴自棄になることなく、神様の願っておられる平和な世界を作り出すために働いてほしいと望まれました。たとえ途中で命を落としても、この世界が終わりを迎える時が来ても、神様の愛に生きた人々は、神様ご自身が喜んで天の御国迎え入れてくださると教えられたのです。その御国にはもちろんイエス様もおられるのだと教えられました。


その御言葉を深く心に刻み、受け継いだ人々が世間の目立たないところからコツコツと世界を造っていく、それがこの小さな群れの特長でした。小さな群れはやたら人数を増やしたり権力を握ったりすることよりも、イエス様のように愛を持って教えあうことを大切にしたのです。


 ただイエス様の御言葉に従って実践し続けることは小さな群れにとって負担になることも多くあります。そこでイエス様は「目を覚ましている僕」のお話をなさいました。イエス様が見ていないからと言って手を抜いたり、やっているふりをするだけ、と言うのではいけない。「人の子は思いがけない時に来るからである」と締めくくっておられます。


 この御言葉はテサロニケの信徒への手紙一5:2やペトロの手紙二3:10にも登場します。「主の日は盗人のようにやって来ます。」と言うギョッとするような言葉が用いられています。これは天に帰られたイエス様が、誰一人として全く予期しない時、むしろ油断している時に地上に戻ってこられることを表しているのです。


 もちろん、自分に与えられた使命をいつもいつも全力投球でやり続けるのは難しいことです。だからこそ、たった一人で孤独にやり続けるのではなく、群全体が互いの働きを補い合い、誰かが疲れれば誰かが引き継ぐ、と言うふうにやっていくのです。そしてイエス様が見ていてくださることを信じ続けるのです。


 先ほど創世記から信仰の父アブラハムのエピソードを読んでいただきました。ここでも神様はアブラハムに「恐れるな」と語りかけておられます。アブラハムは自分の後を継ぐ子孫がおらず、それに関しては諦めの境地でした。しかし神様は「今はいないけれど、その数は星の数のようになる」と言われ、「アブラハムは主を信じた」と書かれています。目に見える証拠がなくても神様の言葉を信じる、それこそが信仰であるとヘブライ人の手紙にも書かれています。


 私たちは誰一人完璧ではありませんし、むしろ欠けの多い存在です。イエス様が誰よりもそれをご存知なのですから、神様の前で見栄を張ったり格好をつけたりする必要はありません。ただイエス様を信じ、御言葉に学び、イエス様ならどうなさるかを指針として取り組み続けましょう。私たち一人ひとりが教会を形作り、世界を造っていくのです。



8月の土曜学校はお休みです

暇を持て余しているお子さんもいると思うので

なんだか申し訳ないのですが

スタッフがいささか暑さでへばっておりますので

今月だけはお休みをいただきます

本当にごめんなさい


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