2025年8月3日日曜日

「御心に促され 分かち合う」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第8主日礼拝(2025年8月3日)(緑)

コヘレトの言葉 1章2節、12-14節、2章18-23節(旧1034)

コロサイの信徒への手紙3章6-11節(新371)

ルカによる福音書 12章13-21節(新131)


 本日読みましたルカ福音書ではイエス様のお話を聞くために大勢の人々が集まっているのですが、突然「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい」と、空気を読まないような発言が飛び出します。周りの人々も「今この流れでそれを言う?」という雰囲気になったことでしょう。


 当時のユダヤでは、親が亡くなった時、まず長男が財産を受け取り、その後で弟たちに分け与えることになっていました。ここに登場するこの人はおそらく弟の立場でしょう。兄が自分の正当な取り分を渡してくれず困ってしまったようです。


 こう言った揉め事の調停役は律法学者が担っていました。社会のルールやイスラエルの掟に精通した彼らは、財産問題なども律法に基づいて指導し、調停をしていたのです。そしてイエスもそう言った教師の一人と見られていましたから、相談のタイミングはともかく、兄弟で遺産を分け合えるよう、イエス様から口添えして欲しいと願った内容そのものは、非常識なことではなかったのです。


 しかしイエス様は直接彼の悩みに関わろうとはなさらず、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人にしたのか」と言い放ちます。とはいえ、これは「そんな俗っぽいことで私を煩わすな」という意味ではありません。イエス様はご自分が一般の律法学者のようにこの世のルールを教えるのではなく、神様のルールを教えるためにいるのだと言うことをお示しになったのです。


 そしてイエス様は彼にではなく、そこにいた一同に向かって言われました。「どんな貪欲にも注意を払いなさい。有り余るほどの者を持っていても、人の命はどうするものはできないからである」


 イエス様がここで「貪欲」と言われたのは、「自分の正当な取り分を越えて、あれもこれも欲しがること」を意味してはいません。「人の命は財産によってどうすることもできないのに、金さえあれば長く豊かに生きられると考えて、そればかりを求める、それこそが貪欲なのだ」とお話しなさいました。


 遺産問題に悩むこの人は揉め事のことで頭がいっぱいだったため、イエス様のお話が途切れたら相談しよう、とそればかり考えていましたから、イエス様のお話をすぐ近くで聞きながら、今の自分の状況に当てはめたり、抱えている問題を解決するための心構えに活かそうとは少しも思えなかったのです。ですから側から見ればおかしなタイミングでイエス様に質問することになってしまったのでしょう。


 そのようなわけで、イエス様は改めて神様の目から見た「貪欲」とは何なのか、皆が理解できるようお話ししようとお決めになり、お話に集中できない子どもを導くかのように、「愚かな金持ちのたとえ」と語られたのです。


 そのお話には一人の金持ちが登場します。彼の畑はその年素晴らしく豊作で、採れた作物をしまっておく場所がないほどでした。そこで彼は「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまうこと」を思いつきます。


 そして「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に向かってつぶやくのです。


 彼の心の声は、この世の権力者や暴君たちが望むようなことで、まるで神の声のように響きました。しかし、実際の神様のお考えは全く違っていました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」


 こうしてこの金持ちは死んでしまいます。ただ死ぬのではなく、神様に命を取り上げられるのです。イエス様は、私たちの命は神様によって与えられ、生かさているのだとを知りなさい、と仰るのです。


 イエス様は、自分のものだと思っていたものも、全ては神様の物だったことに気づくことが大切だ言われます。命も健康も豊かな財産も、全ては神様から人間に貸し与えられているに過ぎないのです。だからこそ、「自分のためだけに富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と締めくくっておられます。


 最後にイエス様が言われた「神の前に豊かになる」とは、一瞬理解しにくいように思えますが、神様との関係を豊かにすること、と理解することができます。


 神様のことを、自分勝手に人の命を取り上げる怖い方だと思ってしまえば豊かな関係は築けません。しかしイエス様のお話を通して、神様ほどわたしたちを愛してくださる方はいないと信じられるなら、もっともっと神様と豊かな関係を結びたいと思うようになるはずです。


 本日登場した人々は、イエス様の教えを聞きに集まっていても、ただ自分が聞きたいように都合の良いところだけ聞き、実践的に当てはめて考えるようなこともしませんでした。それどころかいっそ早くお話が終わったら自分の言いたいことが言えるのに、などと考えていました。


 これは、キリスト教会が今のような礼拝スタイルを取るようになってからも繰り返されました。讃美の歌が歌われ、聖書が読まれ、説教が行われ、祈りに促される。長い伝統の中で作り上げられてきた信仰の形、礼拝の形です。しかし他のことで心が占められ、神様との関係が薄れてしまったら、どんなにきっちりと礼拝がとり行われようと、それらは神様にも人間にも虚しいものになってしまうのです。


 神様はその人にはこの場所が必要だから、と教会に招かます。誰かの心が苦しみや悩みで上の空になったなら、互いに祈り、神様の愛を証しあうことで、互いに信仰を取り戻してまいりましょう。天の御国にたどり着くまで、寄り添い合い、ここにはいつも神様の豊かな祝福があると教えてくださるイエス様を信じて参りましょう。



毎日凄まじい暑さが続いています

飯田は午後の気温が体温越え

元々飯田市は海抜500メートルあるので

紫外線が強く、日中はサングラスなしでは歩けません


教会専用の玄関ができたお話は以前もしましたが

アピールのために道沿いのフェンスの内側に

お手製の立て看板を立てています

コンディションの良い時に撮影しようと思いながら

今日まで来てしまい

ものすごい紫外線の中で撮る羽目になってしまいました

別の意味で眩しいですね



花壇に植えたポーチュラカ
暑さにも乾燥にも強い花のはずなのですが
なんだかばてているようにも見えます

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