2025年3月23日日曜日

「悔い改めの機会」(日曜日のお話の要約)

四旬節第三主日礼拝(2025年3月23日)(紫)

イザヤ書55章1~9節(旧 1152)

Ⅰコリント10章1節-31節(新 311)

ルカによる福音書 13章1-9節(新134)


 本日、読みました福音書は、神様の罰について考えさせられるところです。


 数人の人々がイエス様のところにやって来て「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生け贄にまぜた」と、告げます。彼らに対し、イエス様は「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われるのです。この流れで「悔い改めが必要だ」と言われた人々は、イエス様が何を言おうとしておられるのかピンと来なかったでしょう。


 もちろん彼らは「悔い改め」という言葉は知っていました。しかし彼らが思う悔い改めとは、後悔したり、反省したりすることで、イエス様の言われる悔い改めとは違っていました。イエス様の言われる悔い改めとは、神様の愛に気づき、自分の犯した罪から離れ、その導きに自分を委ねることだったのです。このイエス様のメッセージをもう少し詳しく聖書から聞いてみましょう。


 本日出てくる事件は、当時のエルサレムの人々が互いに話題にし、さまざまな憶測が飛び交うほどの出来事だったようです。


 まず「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた」という事件は、総督ピラトが自分の権威をユダヤ人に見せつける為に行った事件です。ガリラヤの人々は独立精神が強く、ローマ帝国に対して反抗的な態度をとる人々も多くいました。そこでピラトは、ユダヤの人々への見せしめや脅しとして「ガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜる」というショッキングな出来事を起こしたようです。


 神様のお膝元であるエルサレムの神殿に参拝に来て死んだガリラヤの人達について聞いた人々は、「きっと神様に対してひどく罪深いことをしたからあんな悲惨な目にあったのだ」と考え方たでしょう。


 イエス様にこのことを告げた人々は「私は神様に対してそれほどひどいことはしていないから、あんな悲惨な死に方はしないはずだ」と考えて自分を慰め、イエス様にもそう言ってもらって、安心しようとしたのかも知れません。


 しかしイエス様はそんな推測をキッパリと否定し、「あなた方も立場は同じだ」と言われ、「シロアムの塔が倒壊して18人が死んだ」と言う事故について言及されました。シロアムの池というのがエルサレムの南東の城壁の内側にあり、シロアムの塔は、このシロアムの池の近くにあったのでしょう。城壁の工事にともなう水道工事の際に事故が起きたと思われます。シロアムの塔が崩壊した事件はルカ福音書にしか記されていませんが、当時は誰もが知っていた事件だったようです。


 イエス様はシロアムの塔の事故で亡くなった人々のことを引き合いに出して、彼らは特別不信仰だったわけではない、と断言されます。そして二つの事件はどちらも根っこは同じで、「神様に対して悔い改めないなら同じように滅びる」と厳しい言葉を投げかけます。


 注目するのは「同じように滅びる」というお言葉です。「同じように死ぬ」ではないのです。私たちは誰でもいつかは死にます。信仰深い人でもひどい死に方をすることも珍しくありません。その度に私たちは神様はひどい、と思ったりもしますが、神様に対して悔い改めている人は、どのような死に方をしようと「滅びない」のです。つまり、その人は死んだ後、天の御国で永遠の命をいただけるのです。


 昔も今も、大きな事件や事故が起こるたび、人は心を掻き乱されます。災害や事故、事件に遭い、被害にあった方々を可哀そうに思いつつ、何でこんなことが起こったのかとあれこれ推測し、不条理さに怒りを燃やすこともあるでしょう。


 災害や事故、事件を耳にして、一般の人が神様の罰だと思ってしまうのは仕方のないことかも知れません。しかし私達キリスト者は、神様が人間である私たち一人一人の幸せを望んでいることを大前提として知っておかなければなりません。


 信仰のない人々と一緒になって「神様がいるならなぜこのようなことが起きるのか」と嘆くのではなく、周りからどれほど白い目で見られても、「それでも神はわたしたちを愛している」と告げ知らせ続けなければならないのです。


 そのためには、人々の噂に惑わされるのではなく、神様の愛にしっかりと向き直り、この世が悲しく辛くても、やがては永遠の命に導いてくださる方に感謝することをやめない、そんな生き方をすることが必要なのです。


 教会の中では能率主義や効率化を優先するようになり、「信仰的」に生活するはどんなことなのか、わからなくなっていきます。自分の心で謙虚にイエス様に向き合う時間を大切にし、祈りつつ御言葉に聞いていくという、悔い改めにもっとも有効な手段を手放してしまうからです。


 だからこそ私たちは単なる反省ではなく、イエス様の存在そのものを強く意識する必要があります。私たちは、イエス様を十字架に掛けてしまったことを繰り返し思い出さなければなりません。


 イエス様が十字架に掛かったのは、イエス様が世渡り下手で、運の悪い者だったからではありません。神様の罰が降ったからでもありません。私たちに己の罪深さを教え、神様に向き直るチャンスを与えるためにそうなさったのです。


 私たちの生きる世界はこれからもどんどん辛いことが多くなるかも知れません。しかしどれほどひどい時代になろうとも、神様に向き直り、悔い改め、御声を聴き続けましょう。神の子イエス様に感謝の心を抱き、悔い改めにふさわしい生き方を追い求めてまいりましょう。



昨日はルーテル幼稚園の卒園式でした

毎年礼拝堂で行って来ましたが

今年は工事が間に合わなかったこともあり

新築ほやほやの園舎の遊戯室で開催されました


工事は2期に分けるというお話でしたが

実際は3期に分かれたような感じです

1期は園舎本館(完成済)

2期は職員棟(数日前に完成、引っ越し完了)

3期が教会リノベーション(やっと本格的に着手)

といった感じです


リノベーションが終了すれば

幼稚園の玄関とは別に

礼拝堂専用の玄関ができます

車椅子でも楽に出入りできるように

緩やかなスロープもつけます

予定ではイースターにはリノベ終了の会堂で

お祝いできるはずでしたが

いろいろあって間に合わないのが残念です

焦っても仕方ないので

教会員一同、楽しみながら待つことにします



傾斜に対応できるよう階段をつけます

車椅子が上りやすいように緩やかなスロープも設置します

礼拝堂の中は、まだこんな感じ
集えるようになる日が待ち遠しいです

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