2025年3月16日日曜日

「神の忍耐と寛容」(日曜日のお話の要約)

四旬節第ニ主日礼拝(2025年3月16日)(紫)

創世記15章1~12節、17-18節(旧 19)

フィリピ3章17ー4章1節(新 365)

ルカによる福音書 13章31-35節(新136)


 イスラエルは、最初は取るに足らない小さな部族でしかありませんでした。しかし滅びることなくこの世に存在し続けたのは、イスラエルに注がれた神様の恩寵のゆえだ、と信じて旧約聖書を書き記します。神様への信仰が薄れたために生じた民族の恥も苦しみも、美化することなく生々しく記し、次世代の子どもたちへと継承していったのです。


 イエス様の時代も、イエス様と弟子達は安息日ごとにイエス様と共にシナゴークに集まり、その地域のユダヤ人と共にモーセ五書と呼ばれる歴史の巻物や、やがてイスラエルを救う救い主がやってくるという預言の書の朗読を聞きました。それは彼らにとって当たり前の習慣でした。その習慣付けには徹底的な教育が必要です。その教育係が律法学者やファリサイ派の人々でした。


 ファリサイとは「分離した者」と言う意味です。ファリサイ派の人々は、モーセの十戒を始めとして、神様から与えられた律法を徹底して守ろうとしたユダヤ教の一派です。ユダヤ教徒の中にはきちんと律法を守らない人々もいたので、そういった人々と自分達を分離し、区別したからです。


 ファリサイ派が誕生したのはイエス様の時代から遡って200年近く前です。イスラエルは隣国のシリアに占領され、ギリシアの神ゼウスを礼拝することを強要されました。しかし独立を求めて立ち上がったユダヤの人々は戦いの最中にも安息日を守り続け、やがて独立戦争に勝利するのです。人々はこれこそ神の守りと信じ、どんな時にも安息日を大切にする習慣はさらに尊重されます。徹底して律法を守る。人々がファリサイ派となりました。


 時代は移り、イエス様の時代のイスラエルは今度は強国ローマ帝国の属国となりました。ファリサイ派は依然として礼拝遵守していましたしたが、律法の解釈は社会の状況に合わせて厳しくなったりゆるくなったり、神様ではなく人間にとって都合が良いように解釈が加えられたりと、本質が歪められていました。イエス様は神の子ですから、変えてははいけないところまで変えてしまった指導者たちと論争し、間違いを指摘したのです。


 福音書に戻りますと、31節でイエス様はヘロデを「狐」と呼んでいます。ユダヤでは「狐」には「狡猾な」「小心者」という意味もあります。ヘロデは洗礼者ヨハネを捉えて牢に繋ぎましたが、自分ではなかなか死刑の判断を下せませんでした。妻のヘロディアとその娘の策略に負けたような形で、ようやく死刑を実行するのです。ここにヘロデ王の「ずるさ」と「小心者」な一面が見えます。


 ファリサイ派の人々の「あなたはヘロデから殺されるかも知れないから立ち去ってください」という忠告は、同親切や愛情とも取れますが、ファリサイ人達は前々から自分達と敵対するイエス様や洗礼者ヨハネを邪魔に思っていました。ですからヘロデ王を利用してイエス様に脅しをかけてきたとも言えるでしょう。つまり、狡猾で小心者なのは、ヘロデ王だけでなく、ファリサイ人たちも同じだったのです。


 ファリサイ派の人々は、自分達を立派な教師と自負し、一般のユダヤ人を教え、導きます。しかし、ひとたび困った問題が起きれば、責任逃れをしようとしたり、自分とは関係がないかのように振舞ったり、ルールや掟を盾にして相手を攻撃するのです。さらには陰謀を正当化して邪魔者を追い払おうとするのです。そのような行為は心に「愛」があるならできないはずだ、あなた方に決定的に欠けているのは「愛」ではないか、とイエス様は示されたのです。


 このように「愛」を持たないファリサイ主義がユダヤ社会の中で幅を利かすことで多くの混乱を生み、問題解決の道を複雑にしている。神様に対する偽善や誤魔化しの数々が、どれほど恐ろしい結果を招くか、あなた方は知らないのか。これがイエス様の主張だったのです。


 34節でイエス様は「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺すものよ」と嘆いておられます。もちろんこれは、旧約聖書に登場する預言者たちが、歪んだ信仰を正そうとして耳に痛いことを告げるたびエルサレムの人々とファリサイ人を始めとした宗教指導者が迫害してきた歴史のことを指しておられます。


 イエスは、母鳥が雛を敵から危害が及ばないよう翼の下に集めるように、人々をご自身のもとに集めようとしました。本来なら、エルサレムの人々は、信仰に生きるために必要な教育を受けていたはずなのです。しかし彼らは旧約聖書の歴史に学ばず、悔い改めを拒み、神様から差し伸べられた愛の御手を振り払いました。こうしてイエス様は嘆きながらエルサレムの崩壊を予告されたのです。 


 イエス様が望まれた事はまず一人ひとりが神様の愛の言葉を受け取って悔い改めて生まれ変わり、内側から外に向かって「愛」の働きを拡げていく事でした。


 先ほど読んでいただいたフィリピの信徒への手紙を記したのは、元ファリサイ人であるパウロです。パウロはイエス様の愛を知って受け取っているはずのクリスチャンたちが、名前ばかりのキリストの群れにならないようにと願いました。「エルサレム、エルサレム」というイエス様の嘆きは、パウロの心に引き継がれ「教会よ、教会よ」という呼びかけとなって、今も私たちに語りかけられているのです。


 最も忍耐し、最も寛容の心を持っておられるのは神様ご自身です。限りなく赦しつつ、涙を流され、私たちが名ばかりの信仰者にならぬように、私たちもまた、自分自身の心と向き合って悔い改め、その上でまだイエス様の愛を知らない人々に対して忍耐し、寛容の心を持ちながら、宣教の業を、この地で展開して参りましょう。



昨日は土曜学校でした

数日前は春の陽気、この二日は真冬に戻った感じ

今にも降り出しそうなお天気でしたが

いつものお友達が元気に集まってくれました


まだまだ鋏が上手に使えないお友達も参加するので

工作の下準備はかなり大変です

それでも完成した作品を

誇らしげに持って帰る姿を見ると

次も頑張ろうか、と思うのです


作業中一番にぎやかだった二人が
なぜこのようなポーズを取ったのか不明ですが
なんだか幸せそうなので良しとしましょう

仲良し姉妹です
妹さんの作業は
一緒に参加したお父様が
手伝ってくださいました

俺の馬が一番だぜ
そんなセリフが聞こえてきそうです

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