受難主日(四旬節第6主日)礼拝(2025年4月13日)(紫)
イザヤ書50章4―9a節(旧 1145)
フィリピ2章5―11節(新363)
ルカによる福音書 19章28―40節(新147)
受難主日と呼ばれるこの日。これからの一週間はイエス様の復活を覚える時ですが、イエス様のお立場はジェットコースターのように、登ったかと思えば、急降下するのです。
ローマの圧政や律法主義に偏った閉塞感の中で、イエス様は、この3年半の間、弟子を育て、病や障害に苦しむ人々を癒し、罪人と呼ばれる人の招きに応じご一緒に飲み食いをされました。イエス様の存在は、光であり、癒しであり、希望でもありました。もともとユダヤ教徒だと自負していた人々の多くが、イエス様と接することで信仰を持つ楽しさ、心強さ、喜び、平安を取り戻していきます。それは今までの信仰生活はなんだったのかと思うような事柄でした。
イエス様を信じて神様の愛に触れ、イエス様こそイスラエルの新しい王様にふさわしいと信じるようにもなって行きます。
この時、首都エルサレムはユダヤ教の三大祭りの一つに集まった人々でごった返していました。この祭りは、過越しの祭りと呼ばれ、多くの観光客も引き寄せました。簡単に言いますと、紀元前1200年代、エジプトで奴隷生活をしていたユダヤの民が、神様の導きによってモーセをリーダーとしてエジプトから脱出したことを感謝して祝う祭りです。
しかし、イエス様の周りの人々は少し浮かれていたように見えます。人々は過越の祭りを通して神様に感謝するよりも、今、自分達を救ってくれる救い主・イエス様がエルサレムに来られたことにはしゃぎ、伝統的に語り伝えられてきた救い主のさまざまなイメージを重ね、大喜びし始めたのです。
もしイエス様が民衆を先導してクーデターの一つも起こすおつもりだったならば、馬を調達してその栄光の姿を示し「俺についてこい」と格好の良いお姿を見せれば誰もがさらに熱狂し、それを機に動乱を起こすことも可能だったことでしょう。しかし、イエス様はそんなことはなさいませんでした。イエス様が弟子を通して用意された動物は何だったでしょうか。それは「子ロバ」だったのです。
イエス様がロバに乗られた。この出来事は4つの福音書すべてに記されていますが、記録の仕方は少しずつ異なっています。興味深いのはマタイ福音書で、用意された子ロバがあまりにも幼く頼りないので、その「母ロバ」の方に乗ったのかも、と思わせるような書き方です。
しかし他の福音書はすべて子ロバに乗ったことがわかるように書かれています。本日の聖書箇所にはこう書かれています。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだ誰も乗ったことのない子ロバの繋いであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし誰かが『なぜほどくのか』と尋ねたら『主がお入りようなのです』と言いなさい。
ここからわかることは、イエス様ご自身が子ロバに乗ることを望まれたと言うことです。その場にいた民衆はイエス様が子ロバに乗って進んでいかれる道の上に絨毯代わりに自分の服を敷きます。
旧約聖書に精通しているユダヤの人々はイエス様がロバに乗っていることに大きな意味を見出します。それはゼカリヤ書9章9節に書かれていることを思い出したからです。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗ってくる/雌ろばの子であるロバに乗って」
この当時人々にとってロバは日常的な運搬手段でした。高級車や軍事用の車ではなく、軽トラックのような馴染み深い存在だったかもしれません。そんな、どこにでもいるようなロバ、しかもまだ子どものロバに乗るイエス様のお姿に、一般の人々は「聖書の約束する王様とはこう言う方なのか、自分達を苦しめてきた権力者から解放してくださるのはまさにこのような方かもしれない」と感慨深いものがあったのでしょう。
本来ロバは頑固な性質を持っていて、知らない人の言うことはなかなか聞きません。頭は良いけれど独立心が強く慎重で、気が向かないとどんなに引っ張っても動かない、とさえ言われます。しかし、この時は、イエス様に逆らう様子もありません。まるで自分のなすべきことを理解しているあのようです。
普通の動物ならば知らない場所に連れてこられ、今まで会ったこともない人をのせ、周りからは大歓声をかけられる。立ちすくんでしまっても不思議ないのに、むしろ嬉しそうにイエス様をおのせして、神殿までの道のりを進んでいくのです。決して優雅ではなかったかもしれません。しかし、精一杯力を出して誇らしげに歩く様子は、まるで、幼稚園の卒園児が胸を張って入場するかのごとくです。
私たち大人は、歳を重ねるごとに、謙遜になると言うよりも恥をかくことを恐れ、他人と比較して自分に自信なくすことも多いものです。そして心の内では成功している誰かを羨み、自分の人生をより一層つまらなくしてしまうのです。けれども、イエス様を乗せたロバは、唯一の主であるイエス様を乗せたことによって、キリストが語り伝えれれるところではどこでも、唯一無二のロバになれたのでした。
民衆はロバなど見慣れていますから、イエス様を必死に運ぶ子ロバに全く目を止めない人もいたでしょう。しかし中には、子ロバの姿に自分の人生の励ましを見た人もいたかも知れません。そして、イエス様をおのせしているロバに応援の意味を込めて「ホサナ、ホサナ」とエールを送ったかもしれません。
小さなろばにイエス様をおのせすることによって、まるで見違えるようなロバになる。そうなることが、神様の望みでもあり、人々が見つけることのできる平和の姿でもあるのです。それができるのは、他でもないキリスト教会のできることなのです。神様の思いを乗せていくという働きは必ず実を結び、豊かな祝福をもたらすのです。
受難主日に「ハッピーイースター」の画像を載せるのも
何か気まずいのですが
イースターの前日19日は土曜学校です
なにを制作するかあれこれ迷ったのですが
比較的簡単にできるリースを作ることにしました
5月の土曜学校で「一ヶ月遅れのイースター」と銘打って
恒例の玉子探しなどをやる予定です
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卵型のパーツにいろんなペーパーを貼って リースの形に組み立てます 糊や鋏を上手に使えるように と言うのが隠れテーマです |