2025年6月29日日曜日

「キリスト者の自由」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2025年6月29日)(緑)

列王記上19章15―16節、19―21(旧566)

ガラテヤの信徒への手紙5章1節、13ー25節(新349)

ルカによる福音書9章51―62節(新124)


 本日のお話のタイトルは「キリスト者の自由」といたしました。これはガラテヤ書5章の小見出しで、マルティン・ルターの著書としても有名です。「信仰によってのみ人は救われ、神の前に義とされる」という考え方です。ルターがこの結論を導き出したのはガラテヤ書の学びを通してですが、本日はルターの思いを心に留めつつ、ルカ福音書からイエス様のなさったことをご一緒に聞いてまいりましょう。


 本日の福音書は「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、」という書き出しです。これは十字架にかかる日が近づいてきた、という意味でもあります。苦難が待っているエルサレム目指して、イエス様は固い決意と共に出発されたのです。


 しかし、そんなイエス様を失望させるような出来事が立て続けに起こります。まず一つ目はサマリア人たちの態度でした。


 この頃、イエス様はユダヤ人の間で有名になっており、イエス様を熱狂的に支持する人もいれば、イエス様の働きを妨害しようとする祭司長やファリサイ人たちのような人々もいました。そこでイエス様一行は混乱を避けるために、多くのユダヤ人が利用する街道を避けて、サマリアを経由しようと計画し、泊まる場所を確保するために 使いの者を送られました。おそらく今までに交流のあったサマリア人の住む村に宿泊されるおつもりだったのでしょう。しかしこの村人はイエス様を拒んだのです。


 ヨハネ福音書と読み比べてみますと、この時エルサレムでは祭りが行われていたようです。サマリア人たちはイエス様がエルサレム神殿を目指しているので、自分達の信仰するゲリジム山が無視されたように感じて反発し、お世話することを拒んだのかもしれません。仕方なく一行は別の村に宿泊することにしました。


 しかし弟子のヤコブとヨハネはイエス様に「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」と提案します。自分達にそんな力はありませんが、非常に腹が立ったので、イエス様にやっつけてもらおう、と子どもじみた復讐心を燃やしたのです。イエス様は弟子たちの態度や考え方を悲しみ、強く戒められたのです。


 イエス様は武力によって人を従わせるようなことは一切望まず、神様の教えに従うことで隣人の良いところを引き出し、信仰を育てる心得を弟子たちに教えられました。仮にその先に待っているのが殉教であっても、それこそが御心に従うことであると教えられたのです。


 そんなイエス様を次に失望させたのは「覚悟の足りない人が弟子入りを志願する」という出来事でした。12名弟子と呼ばれる人々は、苦労を重ねながらも、イエス様を尊敬する先生と仰ぎ、共に旅をしてきました。一番弟子のペトロが「私たちは何もかも捨ててイエス様に従って参りました」と豪語しています。これはこの時点での弟子たちの偽らざる思いだったのでしょう。


 イエス様は、弟子たちにも人間的な弱さがあることを知った上で丸ごと受け入れ、愛を注いで教え導いてきました。堅い絆で結ばれていた彼らの前に、新たな弟子志願者が現れるのです。


 一人目は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いますが、イエス様には、この人が中途半端に見え、断りの言葉を語られます。そして別の人に「私に従いなさい」と語りかけます。


 するとこの人は「まず父を葬りに行かせてください」と答えます。イエス様はこれが単なる言い訳だと見抜かれました。そこで「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言葉をかけられます。「死んでいる者」とは「霊的な意味で死んでいる人」という意味で、あなたの本当の父は天におられる神様なのに、そのお方を優先させない人生は死んでいるのも同然だ、と言われたのでしょう。


 3人目の人物は、イエス様に声をかけられると「主よ、あなたに従います」と言いつつ、「まず家族にいとまごいに行かせてください」と答えます。イエス様はこの答えにも失望なさいました。


 イエス様はこの人も中途半端であると見抜き、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われます。どんな理由があろうとも、やりかけたことを早々に放り出す人は弟子にふさわしくない、そう言われたのです。


 この福音書の箇所では、サマリヤの人々を含めて、多くの人たちが「神の国にふさわしくない」と言われています。もし私たちが「ただの人」としてこの箇所を読むなら、イエス様とはずいぶん厳しいと感じるかもしれません。弟子志願者を自分のもとに縛り付け、自由を奪い、好き勝手な方向に行くことを許さない。「なんと傲慢な先生なのだろう」と思うかもしれません。


 しかしイエス様は全てを見通される神の御子です。そしてご自分の力の全てをご自分の元に来る人々に向け、命を捨てても良いほどに愛される方です。イエス様が「そちらへ行ってはいけない」と言われる方向は、人生を堕落させる方向です。「やってはいけない」ということは、人としての破滅の道です。


 ですから、もし私たちが「気が向いた時だけイエス様に従います」とか「クリスチャンと言っても、無理だと思うことは最初からしません」などと自分の都合ばかりを優先させるならば、大きく道を踏み外してしまうことになるのです。


 イエス様は私たちの自由を奪い取るように見えて、実は強い愛の力で守り、導き、真の自由をくださるのです。御言葉を通してイエス様の思いを学び続けるなら、イエス様の導いてくださる方向と、自分の心が喜ぶ方向は一致していきます。そして2度と「不自由に縛り付けられている」などとは感じなくなるのです。


 私たちはイエス様に導かれ、キリスト者として、イエス様の弟子として、ガラテヤ書の記す「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を一生涯かけて身につけていきます。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」にはならず、イエス様から与えられる自由と喜びを感じつつ、共に歩んでまいりましょう。



7月の土曜学校は12日に行います。

本来なら第3週、19日に実施するのですが、この日が幼稚園のお泊まり保育の二日目にあたっており、牧師の手が塞がっているので、一週繰り上げた次第です。

工作はフィギュアの金魚をガラス瓶に閉じ込めて、涼しそうな「瓶詰め(?)」を作ります。

やぶれにくいポイを購入して、金魚掬いをやってもいいかなと思っています

いつもに比べて準備時間が少ないのですが、子どもたちが楽しく安全に集えるよう手は抜けません(^^;)







2025年6月22日日曜日

「キリストを着る者として」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第2主日礼拝(2025年6月22日)(緑)

イザヤ書65章1―9節(旧 1167)

ガラテヤの信徒への手紙3章23―29節(新346)

ルカによる福音書 8章26―39節(新119)


 本日はルカ福音書から聞いて参りますが、何やらおどろ恐ろしい言葉がたくさん記されています。「悪霊」とか「墓場」とか「レギオン」とか「たくさんの豚が崖から落ちる」とか、まるで怪談話です。


 イエス様がわざわざユダヤの地を離れ、人々から疎んじられた、どうしようもない状況に置かれた男性を救いに行かれたのです。このゲラサ人の地方とは、諸説ありますが、ガリラヤの反対側のデカポリス地方にある都市の名前です。ユダヤ人が飼わない豚を大量に飼っていたところから、異邦人の住む街であったことはまちがいありません。そこでは異教の神々が拝まれていたのです。


 ここに到着するまでは非常に困難な出来事がありました。湖を渡っている時に突風に襲われ、船が水を被ってしまったのです。溺れそうになった弟子たちはすっかり怯えてしまいますが、イエス様が風と波を叱って嵐を静め、一行はようやく向こう岸に到着することができました。


 イエス様たちが陸に上がるとすぐ、一人の男がやって来ます。これこそイエス様が癒したいと思っていた人物なのですが、彼は衣服も身につけず、ひと目でまともな状態でないことがわかりました。鎖で繋がれても、足枷をはめられてもそれを引きちぎってしまうとのことでした。


 彼はイエス様の前にひれ伏し「いと高き神の子イエス」と呼びかけます。しかし「癒してください」とは言わず、「自分にかまわないでくれ」と叫ぶのです。行動と言葉がチグハグなのです。


 繰り返しになりますが「彼は裸だった」のです。創世記には、禁断の木の実を食べた人間は神様の前で裸であることが恥ずかしくなって隠れた、と書いてあります。つまり裸でいるのが恥ずかしいのは罪の結果と言えますが、恥ずかしいと思う心さえ麻痺してしまったら、人としてもう手に負えません。


 その上、彼は「墓場」を住処としていました。当時は「墓場」とは非常に汚れた場所と考えられていました。悪霊はそんな場所を好むようこの人を縛り付けたのです。誰もが関わりを持つことを躊躇するようなこの男に向かって、イエス様は「名はなんというのか」とお尋ねになります。すると彼は自分の本来の名前ではなく「レギオン」と答えます。「レギオン」とは、通常5000~6000人から成るローマ軍隊の部隊の名前です。悪霊がこの男に「レギオン」と言わせたのです。


 ローマ軍は多くの都市を占領し、初めのうちは「パックスロマーナ」「ローマの平和」という理想を掲げました。しかし結局はそこに暮らす人たちの思いを踏み躙り、力で押さえつけます。「レギオン」によって占領されたこの人も、悪霊の力によって自分の思いが制圧され、抑圧されてしまっていたのです。


 悪霊は自分たちはどんなに数が多くても、結局はイエス様にかなわないことを知っていました。悪霊たちは「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」と主イエスに願い、「その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた」ので、せめてその豚の中に入ることをイエスに願います。


 イエス様がそれをお許しになると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだのです。マルコ福音書にはこの豚の数は2千匹ほど、と書いてあります。それは凄まじい光景だったことでしょう。


 しかし、この出来事によって、この町の人々を恐怖に陥れていた男が正気に戻ったのです。レギオンに支配されていた時の面影はなく、きちんと服を着てイエス様の足元に座っています。これは、彼が神様から罪を赦されて人としてもう一度やり直しを始めたことを表しています。


 不思議な顛末ですが、これでこの異邦の地を支配していた悪霊がいなくなり、「神の平和」と「神の平安」が実現する場所となれたはずでした。しかし、今度はここの住民達が、イエス様がここに滞在することを拒んだのです。


 ゲラサの人たちは、悪霊に取りつかれていた男が救われたことに関してはイエス様に感謝を覚えたでしょう。しかし豚飼いたちにとって、豚の群れを失うことは軽い出来事ではありません。経済的なことを重んじるあまり、一人の人間の救いをどうでも良いことと感じてしまったのでしょう。そして、長い間、悪霊に取りつかれいた人が、自分たちの社会に戻ってくることも恐れたかもしれません。結局彼らは、主イエスをゲラサから追い出すことにしたのです。


 さてレギオンから解放され、正気に戻った男はイエス様について行くことを願いました。イエス様に離れ難いほど感謝していただけでなく、隣近所の人々の冷たい目を感じていたからです。しかし、イエス様は「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」とおっしゃいます。


 イエス様が彼に与えた使命は、イエス様と舟に乗ることではなく、ゲラサに留まって自分の家に帰り、神様が自分にしてくださったことを語ることでした。彼はイエス様に命じられた通り、イエス様が自分にしてくださったことを町中に言い広めます。彼はイエス様によって宣べ伝える者、証しする者となったのです。


 ガラテヤ書には「キリストを着る」という信仰的な言葉が記されています。ゲラサの男のように、人間性を失い、素っ裸になっても恥を恥じとも思わない者が、イエス様に救われ「キリストを着る」ものに変わったのです。「キリストを着る」とは、生まれ変わってイエス様の使命を果たすために生きる、ということなのです。


 私たちは今、いつ大戦争が始まるともしれない危うい世界で生きています。日本は民主主義と言いつつも、正々堂々と異議を申し立て、平和社会を取り戻すほどの力は私たち自身にはないかもしれません。


 けれども、私たちには、キリストが与えられています。この場所から平和を作り出す者へと一人一人が召されているのです。この喜ばしき信仰を、共にキリストを着る者として喜び、平和の場所を作り出してまいりましょう。



昨日は土曜学校でした

リノベーションの終わった会堂での

初めての土曜学校です

土曜学校の常連さんには

見慣れたはずの教会礼拝堂なのに

1年ぶりだからかそわそわウロウロ

初めてこの建物に入る新一年生の方が

落ち着いた感じでしたww

改修のため、少し残響が強くなったようで

工作しながらふざけ合う子どもたちの声が

ワンワン響いて、指導する方は大変でした

次回は落ち着いてくれるといいのですが(涙)


遠方から久しぶりに来てくれた

Kちゃんご一家、ありがとうございます

チャンスがあったらまた来てくださいね




Kちゃん、遠いところから来てくれてありがとう
また会えたらいいな



礼拝堂の後ろで工作
ベンチを前の方に少し寄せれば
15人くらいの参加者は十分座れることがわかりました
冷房もよく効きますし、次回もここで行います




2025年6月15日日曜日

「父、御子、聖霊の神」(日曜日のお話の要約)

三位一体主日礼拝(2025年6月15日)(白)

箴言8章1―4節、22―31(旧 1000)

ローマの信徒への手紙5章1―5節(新279)

ヨハネによる福音書 16章12―15節(新200)


 昔も今も、私達は教会のあり方や自分の信仰について悩むことがあります。先ほど読んでいただいた旧約聖書の箴言や、パウロが書いた様々な手紙は難しいと言われがちですが、自分自身の信仰的な悩みに向き合いながら読む時、神のメッセージを聞き取ることができます。そしてまた同じように教会全体にも信仰的な課題が与えられますから、共に祈り乗り越える道を探ることで、神の祝福が与えられるのです。


 本日は、福音書を紐解く前に、ローマによる信徒への手紙から聞いてまいりましょう。ローマというと、その中心にはあのバチカンがあります。世界で最も小さい国家でありながら、カトリックの中心として世界に大きなな影響を与える場所です。


 ローマはかつて皇帝を神と崇め、キリスト教を否定し信徒を迫害していたのは有名な話です。そんな辛い環境でも、イエス様を信じる人々はローマで集会を行なっていました。伝道者パウロはそんな信徒たちに向けて、遠く離れたコリントから信仰の慰めや励ましや導きの手紙を書き送ったのです。


 パウロはローマで殉教したと言われています。パウロ本人もいずれ自分がローマで殉教するであろうことを知っていました。それでも、彼は福音を恥とすることなく、イエス・キリストが示された愛は世界の全ての人々を救う原動力になると確信していました。その為に自分が天国を信じ、死を恐れず殉教することが必要ならばそのように導かれるだろうと信じたのです。


 パウロは元々このような強いキリスト教信仰を持っていたわけではありません。むしろその逆で、ファリサイ派の一員としてキリスト者を神の敵と信じ込み、牢に送り込み殺害するという見当違いの罪を犯したのです。しかしイエス様に天から直接語りかけられ、自分自身の間違いを示され悔い改めます。パウロは、自分が途中で倒れても、救いと平和の神を伝える人々が現れて自分の働きを引き継いでくれるとわかっていました。


 改めてローマ書の5章2節を見てみましょう。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。」難しい表現ですが、思いっきりわかりやすく解釈するならば「イエス様を信じる信仰は豊かな恵みを与えてくれて、神様にも愛される、と胸を張って言える」と理解することができるでしょう。


 イエス様によって生まれ変わったパウロは、自分に才能があるとか、財産を持っているとか、社会的地位があるとか、そう言った個人的なことを誇ることは無駄だと思い知りました。それどころかそのようなものを「ちりあくた」だと言いました。自分自身に誇れるものは何一つなく、ただ素晴らしい神の子、主イエスを知り、主イエスが共に歩んでくださっているということだけを誇る、つまり「主を誇れ」と示したのでした。


 私たちはこの世では悩みや困難、苦労や苦しみがあります。これらをまとめて「艱難辛苦」などと呼び、「艱難辛苦なんじを玉とす」という言葉もあります。「困難や苦労は、あなたを磨いて素晴らしいものにしてくれる」という意味ですが、艱難辛苦の真っ只中で、自分の信念だけを支えにでそんなふうに行動し続けるのはよほど精神力の強い人だけでしょう。


 世の人々の妙な誤解や、間違った思い込みに晒されながら、上手くいけば妬みから足を引っ張られたり嫌味を言われたり。うまくいかず落ち込んでいる時には、傷口に塩を塗られるような屈辱を受ける。それでも必死で耐えて、無責任な外野のようなことだけ言っている人にも救いが訪れるといいなと希望を持つ。この世の基準で言えばお人好しの大馬鹿者、ということになるでしょう。


 しかし私達に与えられている聖霊なる神はそれを望むのです。神の愛が私たちの心に注がれていることを実感し、委ねていく。自力でやろうとするのではなく、神様が何を望んでおられるのか心を研ぎ澄ませながら耐え、その先にはきっと希望があると信じ続ける。それが「苦難をも誇りとする」ことであり、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉の意味なのです。この希望が今、私達にはこの教会によって与えられているのです。


 さて、最後に本日の福音書であるヨハネ福音書についても耳を傾けましょう。ヨハネ福音書は4つの福音書の中で最後に書かれたもので、地中海世界にキリスト教が大きく広がっていった頃にまとめられました。キリスト教が成立していく過程で、ユダヤ教や、ギリシャ哲学を信じる人々と渡り合い、論争を繰り返し、迫害を受けながら、前進していきました。


 そのような中、信徒自身も何が正しいのか混乱することもしばしばでした。それでもさまざまな思想や教えに教えに取り囲まれながらでも、自分自身に神の愛が注がれていることを信じ、祈り続けていくならばおのずと自分はどう生き何を選ぶべきかさえも分かってくる、それが聖霊の働きであり、神様ご自身が私たちの中心にいらっしゃることが見えてくる。初めの信徒たちはそうやって忍耐することで人として洗練されてゆき、希望を失わない信仰を獲得していったのです。


 「父、御子、聖霊の神」という表現は、教会の始まりに、初代教会の人々が、間違った教えに陥らない為に、教会の神様とはどなたなのかを示す為に、三位一体という考え方を打ち出しました。


 難しい考え方に発展するのですが、ようは神様は、あなたの優しいお父さんと呼んでもらいたいということと、友達として心配する神様であり、教会は同じ愛の思いをもって、あなた自身に注入する神ご自身であることが、この「父、御子、聖霊の神」によって示されているのです。



エル・グレコ「聖三位一体」
油彩/1577-1579年

2025年6月8日日曜日

「ひとりぼっちに させないから」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨祭・聖餐式(赤) (2025年6月8日)

ローマの信徒への手紙8:14 ヨハネ福音書14:16~18


 今日は聖霊降臨祭、ペンテコステです。この日は聖霊という名前の神様がイエス様と交代して私たちのところに来てくださったことをお祝いするのです。今日はもう一度イースターまで戻ってみましょう。イースターからペンテコステまでは、ひとつながりの出来事だからです。


 イエス様は十字架にかかる前の日、弟子たちと一緒に晩御飯を食べた後「私は明日十字架にかかって死にます」とお話しされました。イエス様は自分が三日後に蘇ることを知っていましたが、弟子たちがショックを受けないよう、こんなふうに言われました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あたながたのところに戻って来る。」


 それからこうも言いました。「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方に全てのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」イエス様は復活したら、天国に帰ることが決まっていたのですが、その代わりイエス様と同じ力を持った聖霊という神様が来て、弟子たちを見守り、助けてくださると約束されたのです。


 ところが、イエス様が一生懸命お話ししているのに、弟子たちは全然意味が分かりません。「死んでも三日目に蘇る」とか「聖霊」とか、なんのことだ?と思っていたのです。ですからイエス様が逮捕されて嘘の罪で本当に十字架にかかったときには、自分達も死刑になるかもしれない、と怖くなって隠れてしまいます。でも三日目にイエス様が蘇って帰ってきてくださったので、弟子たちは「これが復活ということか!」とやっとわかりました。ここまでがイースターのお話ですね。


 復活から40日経った時、イエス様はついに天国に帰ることになります。イエス様はみんなの見ている前でゆっくりと天に昇って行かれました。弟子たちはイエス様が雲に隠れて見えなくなっても、いつまでも天を見つめていました。


 聖霊様はいつ来てくださるのか分かりません。でも仲間と励ましあいながら毎日一緒に集まってお祈りをしました。するとイエス様が天に帰られてから10日が過ぎて、ついにその時が来たのです。聖書にはこう書いてあります。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」この方こそ、聖霊という神様だったのです。


 降ってきた聖霊様はそこにいた一人一人の心の中にすうっと入ってくださいました。すると弟子たちは今まで「イエス様のお話は難しいなあ」と思っていたのに、意味がわかるようになってきたのです。


 聖霊様は目には見えないけれど、自分達が勇気を持って生きるためにそばにいてくださるのだとわかりました。弟子たちはイエス様と一緒にいた時と同じくらい元気が出て来ました。自分もイエス様がしたように誰かを助けることができるぞ、と思いました。そして弟子たちは誰から命令されなくても、この神様のことをたくさんお人に伝えたい、と言う気持ちがどんどん湧いて来たのです。それを聞いた人も仲間になって、仲間がどんどん増えて一番初めの教会ができたのでした。


 今日はリーベクワイヤの皆さん、ルーテルキッズバンドの皆さんが特別賛美をしてくださいました。リーベの皆さんが時々「讃美歌」以外の美しい曲を演奏してくださるように、キッズバンドもメンバーや先生の希望で、讃美歌ではない曲を練習することがあります。さっきの「プレゼント」はメンバーが選んだ曲です。


 最初にこの歌詞を読んだ時「イエス様のメッセージと似たところがあるなあ」と思いました。繰り返し出てくる「ひとりぼっちにさせないから」という言葉は、なんだかイエス様が語りかけてくださるようにも思えたのです。それでペンテコステの日にキッズバンドのみんなでやってみようと考えました。


 私たちは一人一人顔が違うように性格も違います。明るく積極的な人もいれば、みんなとワイワイやるのが苦手な人もいます。なんでもパパッとやる人もいればじっくり考えて行動する人もいますが、どんな人でも失敗することはあります。一生懸命やってるのに、周りから「ああしろ、こうしろ」と言われると「何にも知らないくせに」と腹が立つこともあります。自分だけが悪いみたいに言われると、しんどくなって、何もかも嫌だ、と叫びたくなることもあるかもしれません。


 でも、イエス様は「あなたのことが大好きだから、誰もわかってくれないと言わないでほしい」と、聖霊なる神様を送ってくださったのです。


 寂しい時、辛い時、いつでもどこでも、泣きながらでもいいから祈れば、味方になってくれる力強い神様がそばにいることがわかります。もし「何にも感じない」と思うなら、教会に来て祈ってみてください。礼拝堂で静かに祈る時が一番わかりやすいと思うのです。


 神様のお告げとかがはっきり聞こえるわけではないけれど、じんわり心が温かくなって、悪い方に悪い方に考えるのが止められるのがわかるはずです。私がちゃんと鍵を開けますから、どうぞ来てください。もちろん、何かがうまくいって神様にお礼を言いたい時も大歓迎です。


 最後にもう一つだけ。聖書にはこう書いてあります。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」これは、教会で讃美歌を歌ったり、聖書のお話を聞いたりするのが好きな人は、誰でも神様の子どもです、という意味です。


 今日、私たちは自分では気づかなくても、聖霊様に呼ばれてここに来たのです。だからここにいるみんなは神様に愛されている子どもだと信じましょう。そして神様が与えてくださったこの礼拝堂をこれからも大切にして礼拝し、自信を持って、歌って、演奏して、そして何より神様に感謝のお祈りを捧げながら共に過ごしていきましょう。


本日は聖霊降臨祭、ペンテコステでした

リノベーションの終わった礼拝堂で

ハンドベルのリーベクワイヤさんと、ルーテルキッズバンドが

特別賛美の奉仕をしました


元々響の良い会堂なのですが

補強のため鉄骨(?)を入れたので

さらに響きが強くなったように感じます

耳の良い方はちょっと気になるかもしれませんね

馴染んでいければと思います


今回リーベクワイヤさんの写真を撮り忘れ(><)

申し訳ありません

キッズバンドはご家族の方に写真を送っていただきました



手話を交えて「十字架我が力」を賛美
「グローリハレルヤ!」



古いわりに写真写りの良い会堂だったのですが
壁も天井も張り替えてもらってピカピカです
白さが眩しいです

礼拝を終えて皆で食卓を囲みます
「別室」は無いので、会堂の椅子を並び替えて
長机を置きます
これからも無理のない範囲で愛餐を楽しんで
いけますように