2025年8月17日日曜日

「信仰の完成者」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第10主日礼拝(2025年8月17日)(緑)

エレミヤ書23章23―29節(旧 1221)

ヘブライ人への手紙11章29―12章2節(新416)

ルカによる福音書 12章49―56節(新133)


 夏といえば全国高校野球選手権大会。日本福音ルーテル教会の関係では、熊本の「九州学院」が野球の強豪校で、全国大会にも何度も出場しています。ミッションスクールあるあるで、生徒やその家族がクリスチャンとは限りませんが、応援歌や校歌の歌詞などが讃美歌的なことが多いので心を惹かれます。今回私が興味を持ったのは福島県の聖光学園と静岡県の聖隷クリストファー学園でした。


 聖光学園の校歌は「復活の主 仰ぎゆく 高き望みに 恵あれ」「復活の主 仰ぎゆく 高き望みに 恵みあれ」で、なかなかいい歌詞だな、キリスト教精神、信仰を良く表した歌詞だなと思いました。


 聖隷クリストファーの母体であるキリスト教事業体はかなり大きな団体です。「聖隷」という言葉はキリストに誠心誠意仕える「聖なる奴隷」という意味です。また、クリストファーはキリスト教初期の伝説的な男性の名前です。


 彼は少年に姿を変えたイエス様を、そうとは知らずに背負って濁流の中を運ぶのですが、この少年はありえないほど重く、大変な思いをします。ようやく川を渡りきったところで少年は正体を明かし、ご自分は全世界の人々の罪を背負っているために重いのだ、と告げられます。イエス様は彼を祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストファー(クリストフォロス)」と名乗るよう命じた、と言われています。



 ところで、「クリストフォロス」以外にも、キリスト教にはたくさんの伝説が生まれました。カトリックで聖人と呼ばれている人々の多くは、厳しい迫害に遭ってもキリストのために命を惜しまなかったとされています。キリスト教は迫害を受けつつ、それに耐えて発展していったのです。


 そもそもイエス様ご自身も、神様の力を使って一気にキリスト教を広めたわけではなく、辛く苦しい十字架の死と蘇りを経験されています。そしてその事実を受け入れた弟子たちが真の信仰を獲得していく過程を、私たちはよく知っています。


 それから1500年経って、やっと日本にキリスト教が伝わりますが、キリスト教が伝来して3年ほどで、人口の3%が洗礼を受けたという資料もあります。しかしキリスト教の基本的な考え方である「神はお一人だけ」という信仰や、キリストのためなら死を恐れない姿勢、さらにはその後ろ盾となっているヨーロッパ社会に脅威を感じた日本の為政者、豊臣秀吉は神父を追放し、徳川幕府もキリスト教を信じることを禁じました。


 為政者たちはキリスト教組織の弱点を探り、広がらないようにするためにキリスト教を研究したそうです。日本では世界に類を見ないほどの徹底した迫害が200年にわたって行われたのです。その時作られた制度は今も呪いのようにクリスチャンたちを苦しめていることが恐ろしくも感じます。


 そういった背景を持つ日本は、キリスト教が定着しにくい国と言われ続けていますが、なんとか細々とでも生き残り少数でも信徒たちがブレずに生きていられるのは、もちろん信徒の生き方の基準となる聖書が読み継がれて来たからです。


 聖書には単に道徳的な良い話が書かれているわけではありません。旧約聖書には、ドロドロの戦争の歴史が描かれると同時に、キリスト教の母体となったユダヤ教が、幾多の迫害の中、子どもたちをどうやって教育し、信仰を継承していったかが記されています。


 また新約聖書では、キリスト教が誕生した後、今度はユダヤ教徒の迫害を受け、悪者のように扱われながらも、イエス様をお手本として必死で生き、宣教を行っていった様が記されています。


 ただ粛々と良い子でいただけでは、キリスト教はとっくの昔に地上から消えていたでしょう。しかしそうではなく、イエス様を信じた人々は信仰において妥協しない頑固者と罵られ、周囲から苛立ちや迫害を呼ぶことを理解した上で、聖書に示された知恵も用いていきました。


 本日読みました福音書には、イエス様ご自身の言葉として「私が来たのは地上に火を投ずるため」と記されています。これは、イエス様はご自分の教えや存在によって、分裂や対立が引き起こされる可能性がある、という意味です。まるで悪者の開き直りのように聞こえかねませんが、これは真理を求めること、そして神様の御意志に従うことの難しさ、そしてそれによって周りと葛藤や価値観のズレがおき、争いの元になってしまうであろうことを表しています。


 世の中には、理解できない相手は、和解するより叩き潰してしまえ、という恐ろしい発想を持った人々もいまだにいます。しかしキリスト者の基準は「イエス様ならきっとこうするはず」です。そしてそれがその時その時の社会通念と対立するとしても、対立した相手と理解し合える日を信じ、神様の御心に沿って社会を変えていくために怯んではいけない、と教えられるのです。


 キリスト者には強い影響力を持った人々もいますが、多くのクリスチャンはそこまでの力はありません。ただ、本日読んでいただいた「ヘブライ人への手紙」にあるように、おびただしい数の無名のクリスチャンたちが、周りの価値観に揺れ動きながらも、復活の主が共にいてくださることを信じ、対立があっても絶望せず、必死で次の一歩を進めて来たからこそ今があるのです。イエス様はそうした信仰的な生き方を完全に私たちに示してくださるのです。


 ヘブライ人への手紙12章2節には「信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら」という御言葉が記されています。イエス様は私たちに信仰を与え、信仰を持って歩み続けられるよう聖霊を下さいました。そして、聖霊は、信仰だけでなく、礼拝を大切に守り、世の終わり、イエス様が再び来られるその時まで続けるように導いてくださいます。私たちも、礼拝を守り続ける姿勢が実はこの世の救いに繋がることを信じて、誠実な信仰と者として歩んで参りましょう。



第二次世界大戦の折、飯田市は空襲こそ受けませんでしたが
戦後間もない1947年4月20日に大火が発生します

Wikipediaには「焼損棟数は3,742棟、焼損面積は48万198m2
焼損面積の観点では戦後日本最大の市街地大火である」
と記されています

教会も幼稚園も燃えてしまったので
100年を超える歴史を持ちながら
教会には写真類などはほとんど残されていません

この写真は地域の行事に展示されているのを偶然見つけました
「戦前の仲之町」とキャプションが入っています
右上の三角屋根が当時の教会です
目を凝らせば、屋根の上に十字架が見えます(^^)

「戦前の仲之町」
(おそらく)地域の団体が保管しているのでしょう

でも飯田は挫けませんよ

市のシンボルでもある愛らしいりんご並木は

暑さの中も今年も健在です

下の写真は以前、9月に撮影したもの

今年ももうすぐこの姿が見られるはずです



市中心街に2本の防火帯の役割を果たす幅員の充分な道路を街の中心で交差させ、
町を4分割するように整備した。これにより、万が一の大火災時には
火災発生元の4分の1の町の焼失で喰い止め
それ以上の延焼を防げるようにした。
1953年から、この防火帯道路の緑地帯には
地元中学生によってりんごの木の植樹が開始され
飯田りんご並木として復興のシンボルとなった。(Wikipediaより)

2025年8月10日日曜日

「信仰で造る世界」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2025年8月10日)(緑)

創世記 15章1―6節(旧19)

ヘブライ人への手紙11章1―3節、8―16(新414)

ルカによる福音書 12章32―40節(新132)


 みなさんは「キリスト教会」と聞いて、どんなイメージを持たれるでしょうか。

一般的にはイタリアやフランスの大聖堂のように、荘厳な鐘の音やきらびやかなステンドグラス、パイプオルガンの調べなど、そこに入っただけで心身共に清められ、日頃の罪深さや心の醜さが吹き飛ぶように思える別世界のような場所、それこそが教会、というイメージを多くの人は持っています。


 しかしクリスチャンである私たちまでそうだと少し困ったことになります。豪華なカトリックの大聖堂に憧れるあまり、今自分達が集っている教会に足りない設備ばかり数えて、ここもまた神の宮・教会であることをすっかり忘れてしまうことがある、これはあるプロテスタントの牧師の手記に記されていました。


 プロテスタント教会にとって「教会」という言葉は建物だけを意味しません。神様への信仰を持つ一人一人が寄び集められた集まりを教会と呼ぶのです。集う人々によって、運営も形態も異なります。大きさも働きもそれぞれですが、ただ、キリストと共にある天国を生涯かけて証していく集団であると言うことは同じです。礼拝に集まり、聖書の言葉と説教、祈りと讃美に押し出されて神様が遣わしてくださる場所へと押し出されていくのです。


 プロテスタント教会の特徴の一つは、祈りと話し合いと御言葉の示しによって今の自分達のやり方を改めながら行動していくことにあります。ルターが宗教改革を行い、結果としてカトリック教会から分かれてプロテスタント教会が誕生した、そのスタイルを重んじるのです。


 ところが、私たちは結局過去に縛られてしまい、あの時はこうだったとか、あの時代は良かったとか、せっかく話し合いの時を持っても、声が大きく押しが強い人の意見ばかりが通って、結局先に進めないこともしばしばです。これが繰り返されると、せっかく教会に繋がっていながら、神様に与えられた目的意識を失い、信仰的成長とかどうでもいいわ、という諦めのような思いに囚われ、礼拝に来るのも惰性になって緊張感が失われ、聖書に記されている数々の教えも絵空事になり、ついには存在感のない形だけの薄っぺらいクリスチャンになってしまうのです。


これを踏まえて本日ご一緒に読みましたルカによる福音書を見てまいりましょう。ここには「小さな群れよ、恐るな」と言うイエス様のお言葉が記されています。当時、イエス様を慕う人々は、周りを圧倒的多数のユダヤ教徒に囲まれており、自分達がイエス様抜きには満足に世間に立ち向かうこともできない頼りない群れであると知っていました。


 とはいえ、彼らはイエス様がいてくれるから大丈夫、自分達はいずれ天下を取ることもできる、などととどこか楽観的に構えていたようです。しかしイエス様ご自身は、遠からず弟子たちの前で捉えられ、十字架にかからなければならないことをご存知でした。だからこそ限られた時間の中で彼らの教育に心血を注がれました。イエス様は弟子たちに「恐れるな小さな群れよ」と呼びかけられ、御言葉とその正しい解釈を教え、日常の生活にも取り入れるよう導かれたのです。


 こうした集まりには、貧しい者も裕福な者もいました。ローマの支配の中で政情は不安定で、いつ暴動や内戦が起きるか分からない状況でした。イエス様はそんな世界で生きる人々に、どれほど絶望が深くても、自暴自棄になることなく、神様の願っておられる平和な世界を作り出すために働いてほしいと望まれました。たとえ途中で命を落としても、この世界が終わりを迎える時が来ても、神様の愛に生きた人々は、神様ご自身が喜んで天の御国迎え入れてくださると教えられたのです。その御国にはもちろんイエス様もおられるのだと教えられました。


その御言葉を深く心に刻み、受け継いだ人々が世間の目立たないところからコツコツと世界を造っていく、それがこの小さな群れの特長でした。小さな群れはやたら人数を増やしたり権力を握ったりすることよりも、イエス様のように愛を持って教えあうことを大切にしたのです。


 ただイエス様の御言葉に従って実践し続けることは小さな群れにとって負担になることも多くあります。そこでイエス様は「目を覚ましている僕」のお話をなさいました。イエス様が見ていないからと言って手を抜いたり、やっているふりをするだけ、と言うのではいけない。「人の子は思いがけない時に来るからである」と締めくくっておられます。


 この御言葉はテサロニケの信徒への手紙一5:2やペトロの手紙二3:10にも登場します。「主の日は盗人のようにやって来ます。」と言うギョッとするような言葉が用いられています。これは天に帰られたイエス様が、誰一人として全く予期しない時、むしろ油断している時に地上に戻ってこられることを表しているのです。


 もちろん、自分に与えられた使命をいつもいつも全力投球でやり続けるのは難しいことです。だからこそ、たった一人で孤独にやり続けるのではなく、群全体が互いの働きを補い合い、誰かが疲れれば誰かが引き継ぐ、と言うふうにやっていくのです。そしてイエス様が見ていてくださることを信じ続けるのです。


 先ほど創世記から信仰の父アブラハムのエピソードを読んでいただきました。ここでも神様はアブラハムに「恐れるな」と語りかけておられます。アブラハムは自分の後を継ぐ子孫がおらず、それに関しては諦めの境地でした。しかし神様は「今はいないけれど、その数は星の数のようになる」と言われ、「アブラハムは主を信じた」と書かれています。目に見える証拠がなくても神様の言葉を信じる、それこそが信仰であるとヘブライ人の手紙にも書かれています。


 私たちは誰一人完璧ではありませんし、むしろ欠けの多い存在です。イエス様が誰よりもそれをご存知なのですから、神様の前で見栄を張ったり格好をつけたりする必要はありません。ただイエス様を信じ、御言葉に学び、イエス様ならどうなさるかを指針として取り組み続けましょう。私たち一人ひとりが教会を形作り、世界を造っていくのです。



8月の土曜学校はお休みです

暇を持て余しているお子さんもいると思うので

なんだか申し訳ないのですが

スタッフがいささか暑さでへばっておりますので

今月だけはお休みをいただきます

本当にごめんなさい


2025年8月3日日曜日

「御心に促され 分かち合う」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第8主日礼拝(2025年8月3日)(緑)

コヘレトの言葉 1章2節、12-14節、2章18-23節(旧1034)

コロサイの信徒への手紙3章6-11節(新371)

ルカによる福音書 12章13-21節(新131)


 本日読みましたルカ福音書ではイエス様のお話を聞くために大勢の人々が集まっているのですが、突然「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい」と、空気を読まないような発言が飛び出します。周りの人々も「今この流れでそれを言う?」という雰囲気になったことでしょう。


 当時のユダヤでは、親が亡くなった時、まず長男が財産を受け取り、その後で弟たちに分け与えることになっていました。ここに登場するこの人はおそらく弟の立場でしょう。兄が自分の正当な取り分を渡してくれず困ってしまったようです。


 こう言った揉め事の調停役は律法学者が担っていました。社会のルールやイスラエルの掟に精通した彼らは、財産問題なども律法に基づいて指導し、調停をしていたのです。そしてイエスもそう言った教師の一人と見られていましたから、相談のタイミングはともかく、兄弟で遺産を分け合えるよう、イエス様から口添えして欲しいと願った内容そのものは、非常識なことではなかったのです。


 しかしイエス様は直接彼の悩みに関わろうとはなさらず、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人にしたのか」と言い放ちます。とはいえ、これは「そんな俗っぽいことで私を煩わすな」という意味ではありません。イエス様はご自分が一般の律法学者のようにこの世のルールを教えるのではなく、神様のルールを教えるためにいるのだと言うことをお示しになったのです。


 そしてイエス様は彼にではなく、そこにいた一同に向かって言われました。「どんな貪欲にも注意を払いなさい。有り余るほどの者を持っていても、人の命はどうするものはできないからである」


 イエス様がここで「貪欲」と言われたのは、「自分の正当な取り分を越えて、あれもこれも欲しがること」を意味してはいません。「人の命は財産によってどうすることもできないのに、金さえあれば長く豊かに生きられると考えて、そればかりを求める、それこそが貪欲なのだ」とお話しなさいました。


 遺産問題に悩むこの人は揉め事のことで頭がいっぱいだったため、イエス様のお話が途切れたら相談しよう、とそればかり考えていましたから、イエス様のお話をすぐ近くで聞きながら、今の自分の状況に当てはめたり、抱えている問題を解決するための心構えに活かそうとは少しも思えなかったのです。ですから側から見ればおかしなタイミングでイエス様に質問することになってしまったのでしょう。


 そのようなわけで、イエス様は改めて神様の目から見た「貪欲」とは何なのか、皆が理解できるようお話ししようとお決めになり、お話に集中できない子どもを導くかのように、「愚かな金持ちのたとえ」と語られたのです。


 そのお話には一人の金持ちが登場します。彼の畑はその年素晴らしく豊作で、採れた作物をしまっておく場所がないほどでした。そこで彼は「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまうこと」を思いつきます。


 そして「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に向かってつぶやくのです。


 彼の心の声は、この世の権力者や暴君たちが望むようなことで、まるで神の声のように響きました。しかし、実際の神様のお考えは全く違っていました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」


 こうしてこの金持ちは死んでしまいます。ただ死ぬのではなく、神様に命を取り上げられるのです。イエス様は、私たちの命は神様によって与えられ、生かさているのだとを知りなさい、と仰るのです。


 イエス様は、自分のものだと思っていたものも、全ては神様の物だったことに気づくことが大切だ言われます。命も健康も豊かな財産も、全ては神様から人間に貸し与えられているに過ぎないのです。だからこそ、「自分のためだけに富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と締めくくっておられます。


 最後にイエス様が言われた「神の前に豊かになる」とは、一瞬理解しにくいように思えますが、神様との関係を豊かにすること、と理解することができます。


 神様のことを、自分勝手に人の命を取り上げる怖い方だと思ってしまえば豊かな関係は築けません。しかしイエス様のお話を通して、神様ほどわたしたちを愛してくださる方はいないと信じられるなら、もっともっと神様と豊かな関係を結びたいと思うようになるはずです。


 本日登場した人々は、イエス様の教えを聞きに集まっていても、ただ自分が聞きたいように都合の良いところだけ聞き、実践的に当てはめて考えるようなこともしませんでした。それどころかいっそ早くお話が終わったら自分の言いたいことが言えるのに、などと考えていました。


 これは、キリスト教会が今のような礼拝スタイルを取るようになってからも繰り返されました。讃美の歌が歌われ、聖書が読まれ、説教が行われ、祈りに促される。長い伝統の中で作り上げられてきた信仰の形、礼拝の形です。しかし他のことで心が占められ、神様との関係が薄れてしまったら、どんなにきっちりと礼拝がとり行われようと、それらは神様にも人間にも虚しいものになってしまうのです。


 神様はその人にはこの場所が必要だから、と教会に招かます。誰かの心が苦しみや悩みで上の空になったなら、互いに祈り、神様の愛を証しあうことで、互いに信仰を取り戻してまいりましょう。天の御国にたどり着くまで、寄り添い合い、ここにはいつも神様の豊かな祝福があると教えてくださるイエス様を信じて参りましょう。



毎日凄まじい暑さが続いています

飯田は午後の気温が体温越え

元々飯田市は海抜500メートルあるので

紫外線が強く、日中はサングラスなしでは歩けません


教会専用の玄関ができたお話は以前もしましたが

アピールのために道沿いのフェンスの内側に

お手製の立て看板を立てています

コンディションの良い時に撮影しようと思いながら

今日まで来てしまい

ものすごい紫外線の中で撮る羽目になってしまいました

別の意味で眩しいですね



花壇に植えたポーチュラカ
暑さにも乾燥にも強い花のはずなのですが
なんだかばてているようにも見えます

2025年7月27日日曜日

「祈りについて」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2025年7月27日)(緑)

創世記18章20―32節(旧 24)

コロサイの信徒への手紙2章6―15節(新370)

ルカによる福音書 11章1―13節(新127)


 本日は皆さんもよくご存知の「主の祈り」について聞いてまいります。聖書の中で、主の祈りはマタイ福音書とルカ福音書に記されていますが、本日はルカ福音書を中心に見て行きましょう。


 最初の部分は、イエス様の弟子たちが「祈りについて」尋ねる場面です。弟子たちはイエス様に「私たちにも祈りを教えて下さい」とお願いしています。


 私たちは皆、イエス様が神様の一人子であることを知っていますが、この時点で弟子たちはまだわかってはいません。イエス様に接した人々は、イエス様が嵐を沈め病を癒す大きな奇跡の力を持っていることや、障がい者や病の人を差別しない公平な方であることを知り、新しい王様になって欲しいとまで望みました。イスラエルを押さえつけているローマ帝国を追い出してもらって自由な国を作りたいと考えたのです。


 そこで、イエス様の素晴らしいお力や正しい判断の源は祈りにあるのかも、と考えた弟子の一人がイエス様に「ヨハネが弟子たちに教えたように祈りを教えて下さい」とお願いしています。


 ヨハネのメッセージは力強く強烈で、社会現象を引き起こしました。多くの人々がヨハネの元に群がり「悔い改めます」と宣言して洗礼を受けました。ヨハネは食べ物も着る物も一切の贅沢をせず、禁欲的な生活を送り、自分の弟子たちにも厳しく指導し、神様に忠実に生活し、祈る方法を教えていたようです。


 イエス様もたくさんの弟子を教えたり導いたりしながら質素な生活をしていましたが、ヨハネと違って、決して禁欲的とか、お堅い人物ではありませんでした。誰かから家に来てお話を聞かせてほしいと誘われれば、誘った相手が世の中の嫌われ者やはみ出しものであっても迷うことなく食事を共にし、酒を酌み交わしました。そんな気さくな方でしたが、ヨハネのように積極的に何かを教えてくださる様子がないのです。


 誰でも興味本位とか好奇心を満たすために誰かに質問したり尋ねたりします。しかし、そこに切実さがないと、その時は「なるほど」と思ってもすぐに忘れてしまい、身につくことがありません。イエス様は人間のそんな性質をよく知っておられましたから、弟子たちが強い学びの意欲を持ち始めるタイミングを待っていたと思われます。弟子の方から「ぜひ教えて下さい」と乞われるまで、イエス様は待っておられたのです。


 そしてその時まず教えられたのが「主の祈り」なのです。この祈りはご存知のように「神よ」ではなく「父よ」で始まります。しかも堅苦しい「父上」ではなくて、一般的な「お父さん」という言葉で呼びかけるよう教えられます。それはイエス様ご自身がそうであるように、全ての人が神様に信頼して語りかけるように祈ることを願われたからです。


 この祈りの後に続く言葉の一つ一つは、聖書研究等でお話するチャンスがあればと思うのですが、要は私たちが神様に守られながらのびのびと生きて行けますように、と言うお祈りです。


 ただ4節には、誰もが一瞬「うっ」となってしまう言葉があります。それは「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という言葉です。私たちが日々祈る主の祈りでは「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。


 この箇所は誤解を生みやすく、例えば自分や自分の身内が殺された場合や裏切られたという場合にも赦せというのか、私にはそんなことは出来ませんと、主の祈りの中でこの言葉だけ口をつぐんでしまう方までいます。


 ルカ福音書はただ一人の神を信じるユダヤ教徒だけでなく、様々な宗教を信じる環境で育った外国人が読むことを想定して書かれました。この時代、ユダヤ世界を取り巻く地中海諸国で信じられたいた神々は、信頼して心の中を打ち明けられるような存在ではありませんでした。ギリシャ神話をご存知の方はお分かりのように、非常に人間臭い神様が多く、神自身の感情に任せて、怒ったり裁いたりする存在でした。人間は神々の怒りを買わないように、たたられないように、なんとかお祈りを聞いてもらおうと捧げ物に工夫を凝らしたりしました。


 ルカ福音書はそんな宗教観を持つ読者を想定して書かれましたから、著者であるルカはイエス様が「『天の父は求める者に聖霊を与えてくださる』と言われた」と強調して記しています。


 つまりこういうことです。「神様に祈る時、あなたの欲しいあれやこれやが叶えられるかどうかを基準にするのではなく、まず神様と真剣に向き合いなさい。そうすれば神様がお考えになる『最も良いこと』が聖霊なる神を通してあなたに与えられる」という意味なのです。


 ですから「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という言葉も「あなたが神様に愛されるには、まずあなたが悪者を許さなければならない」という意味ではありません。神様は怒りに燃える人に向かって語りかけます。「誰かを赦さないで怒りを溜め込んで生きるのは苦しくないか?その怒りは私が引き受けるから聖霊が最も良いものを与えてくれるのを信じて待ちなさい」。


 本日ご一緒に読んだ中には「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言う言葉があります。私たちは主の祈りを通して「聖霊なる神の力を得るなら、不可能に思える扉が開かれていく」ことを心に刻んでまいりましょう。


 私たちは、人間の個人的な欲望によって引き起こされる争いの絶えない世界を、神様を中心とした慈しみあふれる世界に変えていくように召されています。私たちはイエス様の教えをもっと深く知るために聖書を学び、神様と隣人を愛し、奉仕に仕事にあたることができるのです。


猛烈に暑かった1日もようやく夕暮れ
茜色の雲、というのでしょうか
形がちょっと禍々しいので
美しいというより何やら不気味です



似たような色ですが
こちらは可愛らしいプルメリア
園庭に面した場所で
暑さにめげず元気に咲いています