2025年4月13日日曜日

「がんばれロバの子」(日曜日のお話の要約)

受難主日(四旬節第6主日)礼拝(2025年4月13日)(紫)

イザヤ書50章4―9a節(旧 1145)

フィリピ2章5―11節(新363)

ルカによる福音書 19章28―40節(新147)


 受難主日と呼ばれるこの日。これからの一週間はイエス様の復活を覚える時ですが、イエス様のお立場はジェットコースターのように、登ったかと思えば、急降下するのです。


 ローマの圧政や律法主義に偏った閉塞感の中で、イエス様は、この3年半の間、弟子を育て、病や障害に苦しむ人々を癒し、罪人と呼ばれる人の招きに応じご一緒に飲み食いをされました。イエス様の存在は、光であり、癒しであり、希望でもありました。もともとユダヤ教徒だと自負していた人々の多くが、イエス様と接することで信仰を持つ楽しさ、心強さ、喜び、平安を取り戻していきます。それは今までの信仰生活はなんだったのかと思うような事柄でした。


 イエス様を信じて神様の愛に触れ、イエス様こそイスラエルの新しい王様にふさわしいと信じるようにもなって行きます。


 この時、首都エルサレムはユダヤ教の三大祭りの一つに集まった人々でごった返していました。この祭りは、過越しの祭りと呼ばれ、多くの観光客も引き寄せました。簡単に言いますと、紀元前1200年代、エジプトで奴隷生活をしていたユダヤの民が、神様の導きによってモーセをリーダーとしてエジプトから脱出したことを感謝して祝う祭りです。


 しかし、イエス様の周りの人々は少し浮かれていたように見えます。人々は過越の祭りを通して神様に感謝するよりも、今、自分達を救ってくれる救い主・イエス様がエルサレムに来られたことにはしゃぎ、伝統的に語り伝えられてきた救い主のさまざまなイメージを重ね、大喜びし始めたのです。


 もしイエス様が民衆を先導してクーデターの一つも起こすおつもりだったならば、馬を調達してその栄光の姿を示し「俺についてこい」と格好の良いお姿を見せれば誰もがさらに熱狂し、それを機に動乱を起こすことも可能だったことでしょう。しかし、イエス様はそんなことはなさいませんでした。イエス様が弟子を通して用意された動物は何だったでしょうか。それは「子ロバ」だったのです。


 イエス様がロバに乗られた。この出来事は4つの福音書すべてに記されていますが、記録の仕方は少しずつ異なっています。興味深いのはマタイ福音書で、用意された子ロバがあまりにも幼く頼りないので、その「母ロバ」の方に乗ったのかも、と思わせるような書き方です。


 しかし他の福音書はすべて子ロバに乗ったことがわかるように書かれています。本日の聖書箇所にはこう書かれています。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだ誰も乗ったことのない子ロバの繋いであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし誰かが『なぜほどくのか』と尋ねたら『主がお入りようなのです』と言いなさい。


 ここからわかることは、イエス様ご自身が子ロバに乗ることを望まれたと言うことです。その場にいた民衆はイエス様が子ロバに乗って進んでいかれる道の上に絨毯代わりに自分の服を敷きます。


 旧約聖書に精通しているユダヤの人々はイエス様がロバに乗っていることに大きな意味を見出します。それはゼカリヤ書9章9節に書かれていることを思い出したからです。


 「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗ってくる/雌ろばの子であるロバに乗って」


 この当時人々にとってロバは日常的な運搬手段でした。高級車や軍事用の車ではなく、軽トラックのような馴染み深い存在だったかもしれません。そんな、どこにでもいるようなロバ、しかもまだ子どものロバに乗るイエス様のお姿に、一般の人々は「聖書の約束する王様とはこう言う方なのか、自分達を苦しめてきた権力者から解放してくださるのはまさにこのような方かもしれない」と感慨深いものがあったのでしょう。


 本来ロバは頑固な性質を持っていて、知らない人の言うことはなかなか聞きません。頭は良いけれど独立心が強く慎重で、気が向かないとどんなに引っ張っても動かない、とさえ言われます。しかし、この時は、イエス様に逆らう様子もありません。まるで自分のなすべきことを理解しているあのようです。


 普通の動物ならば知らない場所に連れてこられ、今まで会ったこともない人をのせ、周りからは大歓声をかけられる。立ちすくんでしまっても不思議ないのに、むしろ嬉しそうにイエス様をおのせして、神殿までの道のりを進んでいくのです。決して優雅ではなかったかもしれません。しかし、精一杯力を出して誇らしげに歩く様子は、まるで、幼稚園の卒園児が胸を張って入場するかのごとくです。


 私たち大人は、歳を重ねるごとに、謙遜になると言うよりも恥をかくことを恐れ、他人と比較して自分に自信なくすことも多いものです。そして心の内では成功している誰かを羨み、自分の人生をより一層つまらなくしてしまうのです。けれども、イエス様を乗せたロバは、唯一の主であるイエス様を乗せたことによって、キリストが語り伝えれれるところではどこでも、唯一無二のロバになれたのでした。


 民衆はロバなど見慣れていますから、イエス様を必死に運ぶ子ロバに全く目を止めない人もいたでしょう。しかし中には、子ロバの姿に自分の人生の励ましを見た人もいたかも知れません。そして、イエス様をおのせしているロバに応援の意味を込めて「ホサナ、ホサナ」とエールを送ったかもしれません。


 小さなろばにイエス様をおのせすることによって、まるで見違えるようなロバになる。そうなることが、神様の望みでもあり、人々が見つけることのできる平和の姿でもあるのです。それができるのは、他でもないキリスト教会のできることなのです。神様の思いを乗せていくという働きは必ず実を結び、豊かな祝福をもたらすのです。



受難主日に「ハッピーイースター」の画像を載せるのも

何か気まずいのですが

イースターの前日19日は土曜学校です

なにを制作するかあれこれ迷ったのですが

比較的簡単にできるリースを作ることにしました


5月の土曜学校で「一ヶ月遅れのイースター」と銘打って

恒例の玉子探しなどをやる予定です



卵型のパーツにいろんなペーパーを貼って
リースの形に組み立てます
糊や鋏を上手に使えるように
と言うのが隠れテーマです

2025年4月6日日曜日

「ナルドの香油」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・四旬節第5主日礼拝(2025年4月6日)(紫)

イザヤ書43章16―21節(旧 1131)

フィリピ3章4b―14節(新364)

ヨハネによる福音書 12章1―8節(新191)


 本日の聖書箇所「ベタニアで香油を注がれる」というエピソードは、マタイ福音書とマルコ福音書にしっかりと記されています。マタイは非常に高価な香油とだけ記していますがマルコとヨハネははっきりと「ナルドの香油」と記しており、本当に高価なものだったことがわかります。また、余談ですが、ルカ福音書には全く違う状況で一人の女性がイエス様の足に香油を塗る、という記述があります。


 ヨハネ福音書では「ナルドの香油」について詳しく書かれていて、量は1リトラ、今の単位に換算して326gだそうです。値段は安く見積もっても150万から300万円くらいの価値があったようです。女性の嫁入り道具の一つとして、親が娘に与えることが多く、いざという時に使うものであり、マルコ福音書に書かれているように香油の壷ごと壊して一気に使うということは、まずあり得ません。


 ですからマリアの使い方を見た人々は何事が起こったのかと驚いたのです。特にイエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが「どうして、そのような無駄にするのか」と怒る様子は「どの口が言うのか」とも思います。その上ユダは「なぜ、この香油を3百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という具体的な使い道を示したほどでした。


 ユダはイエス様の弟子集団の会計係をしていたらしく、ここには使い込みをしていた、とも書かれていますが、感謝の捧げ物以外に収入のなかった弟子集団が裕福だったとは思えませんので、ユダなりに苦労はしていたのでしょう。


 少し話は飛びますが、それはキリスト教が成立してからも同じことで、信仰の仲間同士、互いに持ち物を売り払って得た収入で貧しい者たちの生活を守り、殊に、戦争や病気等で、夫を失ったやもめやその家族を守るという働きが定着し、やがてそれは初代教会のキリスト教の事業として運営が始まりました。


 誰もが必要な働きだとは理解していましたが、運営が苦しければ揉め事も起き、お互いの信仰を非難しあったりして教会の秩序が保てなくなったほどです。


 お金というのは、時として、人の人格を変えてしまうことがあります。謙虚な人を傲慢にし、思いやりのある人を残酷な人間に変えてしまうことすらあることを、私たちは知っています。


 キリスト教の初期にも、そういった人々はいました。せっかく信仰によって救われたにもかかわらず、富があることで人を見下し、イエス様の教えを自分勝手にを解釈し、キリストに成り代わって、あなたたちを救ってやるんだという態度を取ろうとするのです。貧しい人に自分のふところが痛まない程度の適当な施しをして、自分の正しさを誇示するような程度の低いキリスト者に成り果ててしまうのです。ですからパウロの残した手紙やルカの記した使徒言行録にはキリスト教の分裂を防ぐ方法の一つとして、正しい富の用い方が何度も出てくるのです。


 話が後先になりましたが、この出来事の舞台となったベタニアの家とは、重い病気で一度死んだラザロがイエス様の奇跡によって蘇らせていただいた場所です。


 その家には、ラザロの姉妹であるマルタとマリアも共におりました。この二人の名前を聞けば多くの方が「ああ、あの家ね」と思うでしょう。ルカ福音書の10章だけに書かれているお話で、マルタが「私ばかり食事の支度をさせてマリアは座ってイエス様のお話を聞いている、不公平だ」と怒り、イエス様に教え諭される、と言う出来事です。


 ヨハネ福音書に記されているこの日もマルタは変わることなく給仕をしていました。おそらくこれが自分の役割と信じ、不平を言うことなく続けていたことでしょう。その時、姉妹であるマリアは給仕を手伝うのではなく、300万もする香油をイエス様に注いだのです。


 マリアはイエス様に対し、ラザロを蘇らせてくださったことで深い感謝と尊敬を抱いていました。一度死んだラザロが再び生きるようになったのは、イエス様がは命を与える力をお持ちの方、救い主だから、そう確信したマリアは、自分の持ち物の中で最も大切な香油を惜しげもなく注ぎ、この部屋に良き香りで満たされることで感謝と信仰を表したのでしょう。


 イエス様はマリアの奉仕には感謝の他に、それ以上の意味はないとわかっておられたでしょう。しかしすでに十字架で死ぬ覚悟を決めておられたイエス様にとって、これは特別な奉仕の業となりました。ご自分が罪人として裁かれ、遺体となって墓に横たわるとき、ユダヤの習慣に従って香油を塗ってくれる人などいないに違いない、とも思っておられたことでしょう。


 どれほど覚悟を決めたとはいえ、たとえ三日目に蘇るとわかっていても、それは非常に孤独なことでした。だからこそ大切な香油を惜しげなく注いでくれたマリアに深く感謝されたのです。同じ出来事を記したマタイ福音書では「世界中どこでも、この人のしたことも語り伝えられる」とまでおっしゃったのです。


 現代は、イエス様や聖書の御言葉を聞いて感動したり元気になったとしても、自分の最も大切なものを捧げて感謝する、といった「命の恩人」という思いには繋がりにくいようです。洗礼式に臨んでも「私はイエス様によって救われました」と告白する人も少なくなったように思います。


 世界の歴史では教育事業も社会福祉事業もキリスト教の精神によって発展していった多くのものが、今ではビジネス事業となり、儲からなければいつでも切り捨てられます。キリストの香りは、いつからか腐った油にも似た香りに飲みこまれるようにも思います。


 けれども、私達はそうであってはならないのです。キリストの香りを伝えるものとして、主の教えを愛し、この地上に凛として立ち続けてまいりましょう。神の思い、イエス様の思いに触れる礼拝から、部屋いっぱいにナルドの香油が香るような、教会と幼稚園でありますように、一人一人が励んでまいりましょう。


飯田のソメイヨシノもようやく咲き始めました

飯田市内には至る所にお寺があって

それぞれに一本桜が植えられています

その昔、飯田藩主が市内48の寺に桜を植えたことに由来する

名桜や古桜が多く残されているのだとか

今借りている家の近くには桜並木もあって

教会の周りを少し散歩するだけで

たくさんの桜に出会えます


飯田の一本桜の一つ
仮の礼拝堂の近くにあって
家並みの向こうからもよく見えるほど
大きな桜です

2025年3月30日日曜日

「父なる神よ」(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(2025年3月30日)(紫)

ヨシュア記5章9―12節(旧 345)

Ⅱコリント5章16―21節(新331)

ルカによる福音書 15章1-3節、11b―32(新138)


 本日のルカ福音書は「放蕩息子」の話です。聖書の話の中でも人気のある例え話です。「人情話」のように話す牧師先生も多いからでしょうか、クリスチャンになって何年も経っているにも関わらず、教会に来たり来なかったりすることの言い訳のように「私は今も放蕩息子です。」と言われる方がいます。私としては、悪ふざけにもほどがあると思ったりします。


 このたとえ話を正しく理解するには、いくつかポイントがあります。まず、舞台としては王宮のような家をイメージして頂きたいのです。素晴らしい、天国のようなところです。その家と土地だけで社会が出来あがっているほどです。


 その家には主である父親と生真面目な兄、そして兄とは全く性格が違う弟、そしてたくさんの使用人が住んでいます。弟は父の仕事を手伝っていますが、弟はもっと自分に合った人生を探そうと、その家から離れることを決意するのです。


 出て行くからには2度とこの家の敷居をまたぐまいと、財産を分けてもらうことを申し出る、その申し出に、父親はすんなり答え、弟の希望通りにするのです。出ていく弟と残る兄。そして弟は、話を聞いている人が思った通りの転落人生を歩むことになります。


 まず彼は、父から分けてもらった財産で欲望のままに過ごします。おそらくこの世で一番おいしい料理を食べ、うまい酒を飲み、彼の財産に群がる人々にそそのかされるままにどんどんお金を使ってしまいます。


 そしてとうとうお金を使い果たした愚かな彼に手を差し伸べる優しい人はいません。彼の振る舞いをあざ笑い、自業自得だと説教するだけです。その上その地方に飢饉が起きて、ますます窮地に追い込まれます。


 しかし、この弟の唯一とも言える長所は、生き抜くことに貪欲だったことです。彼は、ある人のところに行って「働かせてください」と身を寄せたのです。その人はユダヤ人ではなかったのでしょう。ユダヤ人が汚れた動物と嫌って決して食べない豚を飼っていました。しかし弟はそこで働くしかなく、ぎりぎりの生活の中で、豚の餌であるイナゴ豆でもいいから食べたいと思うようになります。


 プライドをかなぐり捨てて、生きるために頑張ってみたけれど、もはや絶体絶命、という状況に追い込まれたのです。イエス様はそこまで描写して、おっしゃいます。「そこで彼は我に返った」。


 これは「彼は悟った」と言う意味でしょう。彼は自分の置かれている状況を客観的に見つめました。そしてこのままここで過ごしていても事態はひどくなる一方で、自分にはもはや現状を打破する力などないことを思い知ったのです。今自分にできる最良のことは、父親の元に帰ることなのだ、と気がついたのです。


 そしてここも大きなポイントなのですが、ここで彼は大きなことをなんなくこなします。あまり気づかないところですが、彼は、父が優しいことを全く疑わなかったのです。心から悔い改めたことを告げれば、父は絶対に自分を突き放したりはしない。そう確信していたのです。絶対的な信頼です。


 ここで視点をちょっと変えまして、兄の方はどうだったでしょうか。兄は父親のことをケチだと思い込んでいます。何不自由ない暮らしをしていても、身近にいると有り難みは薄れるものです。父はケチだ、という思い込みはどんどん大きくなり、兄息子は父親に本心をさらけ出せないのです。


 人間関係も神様との関係も、近くにいれば自然と親しくなる訳ではありません。毎日顔を合わせ、会話をしていても、互いに腹を割って話せるようになるためには、何かしらきっかけが必要です。もし自分は間違っていない、悪いのは相手だ、と思っているなら、相手と打ち解けるのは難しいのです。


 弟は放蕩することによって父親の愛に気づけましたが、そこに至るまで父親の方は気が気でなかったことは、よくわかります。まだ遠く離れているのに、ボロボロになった男を一目見て息子だとわかったのは、今日は帰ってくるか明日は帰ってくるかと、一瞬も息子のことを忘れていなかったということです。


 ここにある「手に指輪をはめる」という行為は「相続人の権利回復の象徴」とされます。要するに「お前は使用人じゃない、私の息子だ、この場所に住む権利があるのだ」と父が言っているのです。


 このお話を聞いた人はつい現実に当てはめすぎて「父親が甘すぎる」とか「弟息子はまた同じことをするんじゃないか」とか「お兄さんがかわいそう」とか、イエス様がお話になりたかった以外のところに気を取られがちです。しだからこそこのお話を正しく理解する最大のポイントは「この話は罪人の悔い改めと、それを天国に受け入れる神の愛の話である」という視点が重要なのです。


 現実の教会生活において「私は今も放蕩息子です」と宣言し、教会に出たり入ったりする方が増えると、群れ全体が安定ません。地上の教会は神様が統治される天の国と似ていますが、そこまで豊かでも寛容でもないのです。新しく加わる方にも、積極的に宣教に加わってもらいたい、一緒に神の国を作っていきたい、そんなふうに思うのが正直なところです。


 教会における私たちの原動力は、神の豊かな愛に受け入れられ、生かされていることを知り、この神のために、イエス様のために、自分にできることをしたい、という思いです。これが信仰に生きる喜びであり、私達の日常の生活においても喜びになる。二重の喜びが存在し、与えられているのです。


 放蕩息子が我に帰った時のように、神様とは優しい父であることを信じて、もう2度と悲しませたくない、という思いを抱いて祈り、「天の父よ」と心の内を話せることを喜びとしたいと思います。神様が教会へと召し出した、迷える人々を受け入れ、共に生きることを喜びとして参りましょう。



なかなかアップすることのない
夜の礼拝堂です
街灯に照らされて屋根の十字架もくっきり見えます
幼稚園は立派な園舎が建ち、竣工式とお披露目を終えました
私たち教会員は、この会堂に耐震工事を施し
大切に用いて伝道していきます
この角度、ちょっと顔に見えて可愛らしくないですか?

2025年3月23日日曜日

「悔い改めの機会」(日曜日のお話の要約)

四旬節第三主日礼拝(2025年3月23日)(紫)

イザヤ書55章1~9節(旧 1152)

Ⅰコリント10章1節-31節(新 311)

ルカによる福音書 13章1-9節(新134)


 本日、読みました福音書は、神様の罰について考えさせられるところです。


 数人の人々がイエス様のところにやって来て「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生け贄にまぜた」と、告げます。彼らに対し、イエス様は「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われるのです。この流れで「悔い改めが必要だ」と言われた人々は、イエス様が何を言おうとしておられるのかピンと来なかったでしょう。


 もちろん彼らは「悔い改め」という言葉は知っていました。しかし彼らが思う悔い改めとは、後悔したり、反省したりすることで、イエス様の言われる悔い改めとは違っていました。イエス様の言われる悔い改めとは、神様の愛に気づき、自分の犯した罪から離れ、その導きに自分を委ねることだったのです。このイエス様のメッセージをもう少し詳しく聖書から聞いてみましょう。


 本日出てくる事件は、当時のエルサレムの人々が互いに話題にし、さまざまな憶測が飛び交うほどの出来事だったようです。


 まず「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた」という事件は、総督ピラトが自分の権威をユダヤ人に見せつける為に行った事件です。ガリラヤの人々は独立精神が強く、ローマ帝国に対して反抗的な態度をとる人々も多くいました。そこでピラトは、ユダヤの人々への見せしめや脅しとして「ガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜる」というショッキングな出来事を起こしたようです。


 神様のお膝元であるエルサレムの神殿に参拝に来て死んだガリラヤの人達について聞いた人々は、「きっと神様に対してひどく罪深いことをしたからあんな悲惨な目にあったのだ」と考え方たでしょう。


 イエス様にこのことを告げた人々は「私は神様に対してそれほどひどいことはしていないから、あんな悲惨な死に方はしないはずだ」と考えて自分を慰め、イエス様にもそう言ってもらって、安心しようとしたのかも知れません。


 しかしイエス様はそんな推測をキッパリと否定し、「あなた方も立場は同じだ」と言われ、「シロアムの塔が倒壊して18人が死んだ」と言う事故について言及されました。シロアムの池というのがエルサレムの南東の城壁の内側にあり、シロアムの塔は、このシロアムの池の近くにあったのでしょう。城壁の工事にともなう水道工事の際に事故が起きたと思われます。シロアムの塔が崩壊した事件はルカ福音書にしか記されていませんが、当時は誰もが知っていた事件だったようです。


 イエス様はシロアムの塔の事故で亡くなった人々のことを引き合いに出して、彼らは特別不信仰だったわけではない、と断言されます。そして二つの事件はどちらも根っこは同じで、「神様に対して悔い改めないなら同じように滅びる」と厳しい言葉を投げかけます。


 注目するのは「同じように滅びる」というお言葉です。「同じように死ぬ」ではないのです。私たちは誰でもいつかは死にます。信仰深い人でもひどい死に方をすることも珍しくありません。その度に私たちは神様はひどい、と思ったりもしますが、神様に対して悔い改めている人は、どのような死に方をしようと「滅びない」のです。つまり、その人は死んだ後、天の御国で永遠の命をいただけるのです。


 昔も今も、大きな事件や事故が起こるたび、人は心を掻き乱されます。災害や事故、事件に遭い、被害にあった方々を可哀そうに思いつつ、何でこんなことが起こったのかとあれこれ推測し、不条理さに怒りを燃やすこともあるでしょう。


 災害や事故、事件を耳にして、一般の人が神様の罰だと思ってしまうのは仕方のないことかも知れません。しかし私達キリスト者は、神様が人間である私たち一人一人の幸せを望んでいることを大前提として知っておかなければなりません。


 信仰のない人々と一緒になって「神様がいるならなぜこのようなことが起きるのか」と嘆くのではなく、周りからどれほど白い目で見られても、「それでも神はわたしたちを愛している」と告げ知らせ続けなければならないのです。


 そのためには、人々の噂に惑わされるのではなく、神様の愛にしっかりと向き直り、この世が悲しく辛くても、やがては永遠の命に導いてくださる方に感謝することをやめない、そんな生き方をすることが必要なのです。


 教会の中では能率主義や効率化を優先するようになり、「信仰的」に生活するはどんなことなのか、わからなくなっていきます。自分の心で謙虚にイエス様に向き合う時間を大切にし、祈りつつ御言葉に聞いていくという、悔い改めにもっとも有効な手段を手放してしまうからです。


 だからこそ私たちは単なる反省ではなく、イエス様の存在そのものを強く意識する必要があります。私たちは、イエス様を十字架に掛けてしまったことを繰り返し思い出さなければなりません。


 イエス様が十字架に掛かったのは、イエス様が世渡り下手で、運の悪い者だったからではありません。神様の罰が降ったからでもありません。私たちに己の罪深さを教え、神様に向き直るチャンスを与えるためにそうなさったのです。


 私たちの生きる世界はこれからもどんどん辛いことが多くなるかも知れません。しかしどれほどひどい時代になろうとも、神様に向き直り、悔い改め、御声を聴き続けましょう。神の子イエス様に感謝の心を抱き、悔い改めにふさわしい生き方を追い求めてまいりましょう。



昨日はルーテル幼稚園の卒園式でした

毎年礼拝堂で行って来ましたが

今年は工事が間に合わなかったこともあり

新築ほやほやの園舎の遊戯室で開催されました


工事は2期に分けるというお話でしたが

実際は3期に分かれたような感じです

1期は園舎本館(完成済)

2期は職員棟(数日前に完成、引っ越し完了)

3期が教会リノベーション(やっと本格的に着手)

といった感じです


リノベーションが終了すれば

幼稚園の玄関とは別に

礼拝堂専用の玄関ができます

車椅子でも楽に出入りできるように

緩やかなスロープもつけます

予定ではイースターにはリノベ終了の会堂で

お祝いできるはずでしたが

いろいろあって間に合わないのが残念です

焦っても仕方ないので

教会員一同、楽しみながら待つことにします



傾斜に対応できるよう階段をつけます

車椅子が上りやすいように緩やかなスロープも設置します

礼拝堂の中は、まだこんな感じ
集えるようになる日が待ち遠しいです