2024年11月3日日曜日

「真の神の子達の使命」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・全聖徒主日礼拝(2024年11月3日)(赤)

ヨハネの黙示録 7章9-17節(460) 

ヨハネの手紙Ⅰ 3章1-3節(433)

マタイによる福音書 5章1-12節(6)


 今の若い方たちは、心のうちに孤独を抱えながらも、教会がそれを癒してくれるところとはあまり考えません。自分を見つめる時間とか、自分が社会にどう役立つ人間になるかということは、学校のカリキュラムの中で一通り学べますし、学校が休みの日曜の朝テレビやYouTubeを見たりゲームをしたりすること1、2時間を費やし、無駄なことをしたとは思わないようです。その1時間半あれば礼拝の最初から最後まで出席できるのですが、そういう発想にはなかなかなってくれないようです。教会のやることは、もうないのかもと思われがちです。


 社会が目まぐるしく変化する中で、教会は時代遅れの組織のようにさえ見られます。社会の変化に何の対応策も講じないままに、「神様が導いてくださる」という祈りを繰り返し繰り返し語り、もちろんそれは真理なのですが、それがいつの間にか形骸化してもどうすることもできない、今の状態が引き起こされたと言っても過言ではありません。今一度私たちは神様から、何をどう期待されているのかを、教会が辿ってきた足跡を通して確認する必要があるのです。


 キリスト教が誕生し定着していく時代、それはとても過酷な時代でした。イスラエルに住むクリスチャン達はローマ帝国の圧政の中、ユダヤ人からもローマ人からも迫害されました。神様の召し出しに従って集まったからといって、経済的に楽になるわけでも高い地位につけるわけでもなく、ただイエス様の教えに従って新しい神の国を作っていくことが神様が喜ばれることであり、苦労はあっても究極的には幸せになれるのだ、そういう強い思いをもった人々が集まってきたのです。


 始まりは、イエス様から直接教えを受けたユダヤ人の弟子達が主なメンバーでした。彼らは先祖から受け継いだ律法の教えに縛られていましたが、イエス様は「律法とは神を愛し、隣人を自分のように愛することに集約できる」と教えられました。その教えを通して神様が自分達をどれほど愛しておられるか、人間同士が手を取り合うことをどれほど望んでおられるかに気づいていきます。


 ただ、イエス様の教えに素直に従える人々は思いのほか少なかったのです。今の生活に満足し変化を好まない人は、批判されているように感じて反発さえ覚えます。それはイエス様の教えを推し進めていけば、自分の立場が危うくなるかも知れないと思ったからです。


 私たちは、聖書の「ある金持ちが『全財産を捧げて私に従いなさい』とイエス様に誘われ、悲しみながら立ち去った」というエピソードを知っています。神の国を作っていくという大事な使命を与えられても、自分に損害があると思えた時、受け入れることができず、極端な場合は迫害する側に回るのです。この迫害を承知の上で、黙々と教えに従うこと、それがキリスト教会に集まる者の宿命なのです。


 本日読みましたヨハネの手紙第一の3章は「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで…」と書き出されています。2節以降には、わたしたちはいずれキリストに似たものになれるとも記されています。


 私たちが自分の思い込みでジタバタし、見当外れな努力をして苦しむのではなく、神様はどんな時でも私達を見守ってくださり、私達が何者であっても、真の神の子である、と宣言されています。そして神の子である以上、イエス様と同じように、この世でなすべき使命が与えられているのです。


 正真正銘神の子であるイエス様は地上に来られた時、弱々しい赤ん坊としてお生まれになりました。ですから、私たちが神の子である、と言っても、天使のような羽が生えるわけでもなければ、超能力が使えるわけでもありません。ただ、神様の御言葉が心に迫ってきて、難しいと思い込んでいた聖書が、まるで父親からの大切な手紙を読むように、理解できるようになってくるのです。


 マタイによる福音書5章の「山上の垂訓」には「こころの貧しき者たちは幸いである」とあります。何度も何度も聞いたことのある言葉ですが、この言葉を旧約聖書の約束の言葉と照らし合わせると、イザヤ書57章15節と対応していることがわかります。イザヤ書には「わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊と人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」とあります。


 山上の垂訓で「心が貧しい」という表現が使われているのは、金銭的な裕福さとの対比ではなく、貧しいゆえに、私たちは誰かを頼らなければならないこと、霊的なことにおいても精神的なことにおいても、決して一人では、満たされない、そこを神様が満たしてくださることを信じるのです。


 キリストを知り、キリストなしに生きることのできない者は、この世で貧乏籤を引いて本当に貧しくなることもあるかもしれませんが、この世の命を終えた後キリストのおられる天国に永遠に住むことができるのです。それを信じ抜くことこそが、最も強い宣教の力となるのです。


 今の時代にあって私たちは様々な情報に翻弄され、信仰がぐらつきます。私たちは「心の貧しき者」であり、共に信仰を紡いできた兄弟姉妹なしに力強く生きることは難しいことを知っておきましょう。それは決して恥ずかしいことではなく、そのように生きなさい、と神様がる仲間のもとに招いてくださったのです。


 主に選ばれた、真の神の子の使命、私たちの使命は、神こそが自分達の欠けを満たしてくださると確信し、愚直に神様から与えられた使命に忠実に宣教に励んで参りましょう。


教会と幼稚園の共通の掲示板は正門の横にありますが

今は工事中でそこからは工事の方以外出入りしないので

掲示板の中をじっくり見てくださる方は

あまりいないかもしれません


でも説教題と教会学校のお知らせ

それに朝比奈牧師のレゴは

更新を続けています


11月はラーメン屋さんです

2枚目の写真は10月の作品で

羊の毛刈りをするおじさんでした





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