2024年11月10日日曜日

「レプトン銅貨2枚」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第25主日礼拝(2024年11月10日)(緑)

列王記上 17章8-16節(561) 

ヘブライ人への手紙 9章24-28節(412)

マルコによる福音書 12章38-44節(6)


 献金について、求道者の方から相談を受けることがあります。「相場として、献金というのは、一回の礼拝につきどれくらいで、ひと月にどれくらい捧げるものなのですか」と聞かれることもしばしばです。


 「基本的には、マラキ書にはっきり書かれているように、収入の十分の一です」とお答えすると、「そんなに取るのか」と驚かれてしまいます。大抵は牧師の言っていることが無理難題に思えたり、もっと自由に信じたいと言ってみたり、キリスト教の指導者というのは、お金に執着してはいけないでしょう?と逆に説教をされてしまうこともあります。


 長くその地域に根を下ろしている教会は、その地域の福祉や精神衛生の潤滑剤というような働きや奉仕ができるはずなのですが、教会員になると日曜日が潰れる、という思いや、多額の献金を巻き上げられる、といった誤解のため、働きに加わる方々が少ないのが現状です。安い運営費でなんとか貢献しても、いざ信仰や宗教性を全面に出そうとすると胡散臭く危ない、と敬遠されてしまいがちです。


 しかし、今の日本社会には深い闇があります。社会性を見失った人々が、闇バイトに取り込まれて凶悪犯罪に手を染めたり、自分の価値を見失った人が、無差別な殺傷事件を引き起こし「誰でもいいから殺して自分も死刑になりたかった」などと発言するのを聞くと、怒りや悲しさで言葉を失ってしまいます。


 「人が生きる意味」ということは、本来宗教でしか答えを出すことができないのに、伝統的な宗教を無視したり軽んじたりした結果、悩む人々は怪しげな宗教に囚われてしまい、不幸も闇ももっともっと深いところに落ちていってしまいます。


 色々と暗いお話をしましたが、改めて今日のマルコによる福音書を見て参りましょう。イエス様が、貧しい未亡人の献金する姿をご覧になり、それについてお話をなさったのは、エルサレム神殿の献金コーナーでのことでした。献金箱は投入口がラッパのような形をしており、コインを投入すると派手な音が鳴る仕組みで、金持ちたちの自尊心をくすぐり、競い合って献金しました。


 しかし神ご自身は、心の奥の奥まで見通す眼差しでそこを訪れる人々を見つめておられたことでしょう。その厳しい眼差しは、神の御子であるイエス様も当然お持ちだったのです。神殿に仕える祭司たちや、経済的に成功した金持ちは、ローマ帝国にへつらうことで得た特権や、庶民から巻き上げて作り出した利益、不正や差別の心があることをそっくり見通しておられたのです。


 悲しいことに、彼らの誇りであるこの神殿は、神様のご計画によりこれより数十年後にはローマ帝国によって破壊し尽くされることになっていました。権力者たちがどれほどローマに擦り寄ろうとも、それらの試みは空しく、彼らはやがては消えてなくなる神殿に頼り、歪んだ情熱を注いでいたのです。


 さて、改めてこの未亡人の行動に目を注いでみましょう。普通ならば、金持ちたちがこれ見よがしに献金箱にコインを投げ込み、派手な音を鳴らしている姿を見て、自分がこれから捧げようとしている金額に惨めさを覚えたでしょう。しかし、彼女は、他人がいくら捧げるかなど、どうでも良いことだったようです。


 彼女にとっては、自分と神様の関係の方が最も重要だったのです。はた目には、夫に先立たれた貧しい彼女が、神様に愛され、恵まれているようにはとても見えなかったことでしょう。しかし彼女は神様が自分の為に、どれほど心を砕いてくださるか感じ続けてきたのです。神様は最も親しい友であり、夫亡き後唯一の頼れる存在であり、尊敬してやまない父親でもありました。


 おそらく、ろくな働き口もなかった彼女の捧げられる金額が、レプトン銅貨2枚、今のお金に換算すればおおよそ100円くらいだったとしても、「これっぽち」と自分を卑下したり、捧げても捧げなくても同じ、と引っ込めてしまうのでもなく、自分と神様との関係において捧げる姿勢を貫いたのです。


 一方この時、イエス様は十字架に掛かるためにエルサレムに来ておられ、数日後にその日が迫っていたのです。そのような時に、この女性の全き信頼に基づいた行動を目にしたのです。イエス様の喜びは非常に大きかったことでしょう。


 遡ること3年半前、イエス様が活動を始めた時、サタンはイエス様を堕落させようとしました。神様を利用して飢えから救ってもらえ、神様を利用して死なない体にしてもらえ。そして、神様を捨てて悪魔を拝み、この世の権力の全てを手に入れろ、と誘惑したのです。しかしイエス様はそんな誘惑には乗りませんでした。


 ただ、イエス様は人間の弱さを知りぬいておられましたから、ご自分を信じる人々が、どんな時も完全に神様に委ね、完璧に誘惑を跳ね除けることはできない、とわかっておられました。しかし、だからこそ、どんな小さいことでも良いから、誘惑に晒された時「神様は私がそんな誘惑に乗ることを望んではいない」と心の中で決心してほしい、神様はきっと自分を守ってくださるのだから、と、その信頼から始めていってほしいと願われたのです。そのために、ご自分は神様に信頼して命を捨てるのだ、とお伝えになったのです。


 イエス様は私たちが一人ぼっちで孤独に信仰を貫いていけ、とはおっしゃいません。教会に招かれ、集う場が与えられ、共に信仰を紡いでいくのです。その場所に感謝し、教会を通して、信仰の証、神の国の実現を果たして参りましょう。


幼稚園舎の新築と礼拝堂の改築は順調に進んでいます

…と言いたいところなのですが、折りからの物価高騰で

建築担当の方から不穏な申し出(><)

礼拝堂のリノベーションは当初の予算を大幅に超える見込みとのこと

全国の皆様から募金をいただいて予定金額に達し

一安心したところでこのお話

それはないよ!と泣き出しそうですが

途中で止めるわけにもいきません

完成が御心だと信じて

もう一息、頑張ります


ご近所にある古民家も改修中

工程を公開するとのことで行ってみましたら

この町の昔の写真に混ざって礼拝堂の写真も展示されていました

まさにこの建物をリノベするのです

どうぞ応援してくださいね




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