2023年7月9日日曜日

「この世では愚か者と言われても」(日曜のお話の短縮)

聖餐式・聖霊降臨後第6主日礼拝(2023年7月9日)
ゼカリヤ書 9章9-12節(1489) 
ローマの信徒への手紙 7章15-25a節(283)
マタイによる福音書 11章16-19、25-30節(20)


 本日の福音書の個所には「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。」と記されています。祭りの時に笛を吹いて盛り上げるのはよくありますが、イスラエルの葬式には「泣き女」という人々が登場して、お金をもらって大声で嘆き悲しんでみせ、葬式を盛り上げたそうです。それを子どもたちがごっこ遊びとして取り入れた様子で、特に珍しいものでもなかったようです。

 
 「笛吹けど踊らず」という諺がありますが、それの語源となったのがこの箇所です。「お膳立てをし、いくらすすめ誘っても、人がこれに応じて動き出さない。」といった意味で使われます。あれこれと手を尽くして準備をしても、それに応じようとする人がいなくて、気持ちがすれ違ってしまう様子は、イエス様と、イエス様を取り巻く人々の思いの違いを表しているのでしょう。


 イエス様はいつも堂々としておられましたが、尊大な雰囲気や近寄り難い雰囲気はなく、物腰柔らかく振る舞われました。ですから小さい子どもや母親も安心して近寄ってきましたし、貧しき者、渇き切ったものもイエス様にすがろうとして集まってきました。時にイエス様の周囲はごった返して、弟子達が困惑するほどでした。


 しかしイエス様には、神様を示すというはっきりとした目的がありました。神様はイエス様と合わせたいと計画なさった人々をイエス様のもとに導かれました。イエス様もそれがお分かりになるので、やってきた人々に救いの手を差し伸べられるのです。


 それでも周囲の人々は「もっと人を選んで奇跡を行い、コネ作りをすれば社会的な力を得られるのに」と思ったことでしょう。そうしたら、さらにたくさんの人々が神様を信じることができるのに、と思う弟子がいたとしても不思議はありません。弟子たちはイエス様がイスラエル社会を改革しようとしていると思っていましたから、もっと派手にやったほうがいいんじゃないかな、ヤキモキしていたかもしれません。


 けれども、イエス様はそのようなことを望んではおられません。ただひたすら、神様に導かれてイエス様の元に来る人々と、誠実に、心と心で対話なさいました。そしてご自分を通して神様を知ってもらえることを一番の喜びとなさったのです。


 ここには続けて「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という有名な御言葉も記されています。疲れた者、重荷を負う者とは、社会の中で色々に振り回され、休むことができず、疲れ切った人のことです、当時のイスラエル社会においては、律法の規則が事細かに決められ、この律法を守らないからダメだとか、この規則をちゃんとしないからダメだと、だめだめとばかり言われ、疲れ切った人にもたくさんいたのです。


 そんな人々に対して、イエス様は「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われるのです。


 「休ませてあげよう」の「休む」は、「安息」という意味があり、エレミヤ書6章16節の「どれが幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ」という御言葉と繋がっています。


 今に生きる私たちは律法にがんじがらめになることはありませんが、複雑な社会の中で、大人も子どもも毎日のようにあれかこれかと悩みながら生きています。時に進むこともできず立ち尽くし、止まったままで疲れてしまうことすらあります。


 そんな人々にイエス様は「これがあなたの進むべき道、幸いに至る道ですよ」と示してくださるのです。その道は「こっちに行けば絶対楽しそう」というよりは、寂しい道に見えるかもしれませんし、凸凹していたり、暗かったりするかもしれません。しかしどのように見えても、あなたのためにイエス様が備えてくださった道であり、イエス様ご自身があなたに歩調を合わせて共に歩いてくださるのです。


 それを示すために「くびき」という言葉が出てきます。「くびき」とは牛や馬の首の後ろにかけて車や農機具を引っ張らせるための器具です。首が挟まれているので、同じくびきにつけられた2頭の牛は同じ方向に行くしかありません。ですから「くびき」という言葉は、「自由を束縛するもの」という意味で使われてきました。しかしイエス様はあえて良くないイメージのある「くびき」という言葉を用いて「私はどんな時もあなたと共に歩く」と言ってくださるのです。


 強制的に歩まされているようで嫌で仕方がないと思っていた道を、イエス様が「私とあなたは運命共同体だ。これが行くべき道だから。」と言わんばかりに共に歩んでくださっている、それを知った時、その軛はおのずと負いやすくなり、自分のこと、自分のなすべきことを、神様から与えられた役割として、肩ひじはらず、虚勢もはらずに、粛々(しゅくしゅく)と行えるようになっていくのです。


飯田教会の礼拝堂にはエアコンがありません
数年前までは窓を開ければ良かったそうですが
近年の温暖化で耐え難い暑さになります
私が赴任してきてからは真夏は
空調のある保育室を借りるようになりました
しかし、セッティングもそれなりに大変ですし
何より、園児の中に重度の小麦アレルギーのお子さんがいて
保育室で聖餐式のパンを扱うことができなくなりました

昨年天に召されたTさんのお宅は
教会から歩いて2〜3分の一軒家
現在は空き家で、隣接した児童養護施設が管理しています
ご遺族とその施設長さんのご厚意で
新しく教会を立て直すまでの2年半
家丸ごと集会室としてお借りできるようになりました
本当に感謝です!
快適な環境で教会員の顔にも笑みが溢れていました

ただし、9時30分からの日曜学校は
楽器を扱うのでここではできません
10時15分に終わって子どもたちを送り出したら
牧師夫人が戸締りをして
ダッシュで駆けつけることにしました(^^;)


Tさんのお名前をとって
「集会室リリー」と命名
出席者12〜15名の飯田教会の礼拝には
十分な広さです

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