2023年6月18日日曜日

「弟子を派遣する」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2023年6月18日)
出エジプト19章2~8a節(124) 詩編100編全千夜(937)
ローマ書5章1~8節(279)マタイ福音書9章35~10章23節(17)


 聖書に登場する人物は、順調に成長する人は稀で、がむしゃらに何かを掴もうとする人もいる一方で、「難しい」を連発して逃げ腰になる人もいます。それが良く分かるのはなんと言っても出エジプト記ではないでしょうか。


 エジプトの兵隊に追われて絶体絶命の時、モーセは神様のお力をいただいて紅海を二つに割り、民衆は海の中の道を通って逃げのびるという、劇的な脱出劇をやってのけました。ところが脱出してから3ヶ月、彼らはお腹が空けばエジプトの食事はおいしかったと愚痴をこぼし、喉が渇けば「渇きで殺す気か!」とモーセに詰め寄り、その度にモーセは神様に祈り、食べものや水をいただきました。民衆はぐずって泣く幼な子のようで、モーセはヘトヘトになったことでしょう。


 しかし神様はモーセに対して「これからも契約を守るなら、あなたたちは私の宝であり続ける」と言われたのです。「宝」とはすごい言い方です。

 モーセが神様のお言葉を民の長老たちに告げると、彼らは「自分達は契約を守って神様の民になる覚悟がある」と答えます。モーセは彼らの誓いを信じて一人で山に登り、神様との契約の具体的な内容、つまり十戒を授かります。


 ところがモーセが40日40夜を山で過ごているうちに、民衆はモーセを待ちきれず、モーセの兄のアロンを脅し、目に見える拝む対象をよこせと迫ったのです。圧力に負けたアロンが金の雄牛の像を作ると、民衆は大喜びで「これこそ我々をエジプトの国から見に引き上った神様だ」と祭壇を築いて祭りを始めてしまいます。


 お怒りになった神様はモーセ以外の民を全部滅ぼすと言われますが、モーセの取りなしで神様は怒りをおさめられます。ただその後イスラエルの民は、約束の地に定住するまで40年という長い旅をすることになってしまいました。40年の間にエジプトを脱出した初代の人々は寿命を迎えて自然に世代交代しました。次の世代は旅の間に学び、神様への信仰を中心とした纏りある民に成長していったのです。


 旧約聖書はこんなふうに人間の欠点やダメっぷりを容赦なく記していますので、読むのが辛い時があります。しかし、神様の偉大さを知っているつもりでも、苦難が迫ってくると、目に見える確かなものを求めてドタバタしてしまうのは全ての人間が陥る過ちだと自覚しておく必要があります。


 さて、本日のマタイ福音書には、イエス様がご自分の足でガリラヤ湖周辺の町や村を回って人々を教え、癒しの奇跡を行ったことが記されています。イエス様が一つの村で働きを終え、次の町に足を踏み入れると、人々は飼い主のいない羊のように弱り果て、うちひしがれていました。当時のイスラエルは自分勝手な指導者やローマ帝国の圧力のせいで庶民は恐れや失望などを抱えながら生きていたのです。


 イエス様はそのような姿を見て深く憐れまれた、と書いてあります。「深く憐れむ」という言葉は「はらわたがねじれ、ちぎれるほどの苦しみ」を表す言葉だそうで、イエス様は彼らの様子を見て心が引き裂かれるほど苦しまれたのです。


 しかし、イエス様は肉体を持って人となっておられますから、同時に何箇所も周ることはできません。そこでご自分の弟子の集団の中から12人を選んで派遣することにされます。これが12弟子と呼ばれる人々です。


 特別に選ばれた12名とは言え、彼らはまだまだ学びの途中でした。イエス様から離れて宣教の旅に出れば、困難は山ほどあります。イエス様はそれを見越して非常に細かく注意を与えられました。


 外国人の家には行かず、同じ信仰のイスラエル人のところへ行くこと、お金や持ち物を余分に持っていかなこと、どんな町でも神様を敬う人を見つけ出し、その家を伝道の拠点とすること、などなど。10章の終わりまで延々と記されています。これらを読めば読むほどに、イエス様が弟子たちの身を案じていた様子が伝わってきます。

 とはいえ、イエス様はいずれ天に帰られ、宣教は弟子たちの役目となるご計画でしたから、ご自分がフォローできる今のうちに弟子たちにあれこれ体験をさせて、学ばせていくしかないこともわかっておられたのでした。


 結論から言うと、弟子たちの初めての宣教旅行はまずまずの成功を収めたことがマルコ福音書やルカ福音書に記されています。イエス様は無事に帰って来た彼らと再会して、どんなにか安堵されたことでしょう。


 イエス様はどんな時も、人間の弱さに心を痛める方です。神様を知らない人の悲惨な状況を見るとはらわたがちぎれそうなくらい悲しんで手を差し伸べられます。そしてご自分の代理として弟子を派遣するときにはお心を痛められつつ細やかな心配りをなさるのです。


 今日ご一緒に読んだ伝道の折の注意事項や心構えは、そのままそっくり現代に生きる私たちにも向けらています。イエス様の教えを告げ広める弟子にはとんでも無い苦難があるけれど、とんでもない喜びもある、と約束してくださっているのです。


 私たちはどれほどイエス様に愛され支えられているのでしょう。私たちが何をしたからこれほど神様に愛していただけるのでしょう。その理由は全く分かりません。わかっているのは旧約聖書の昔から、神様がわたしたちを気にかけてくださり、成長を望んで下さったこと。そしてあまりの物分かりの悪さに、ついには一人子イエス様を遣わしてくださった、ということだけです。


 「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」と、ローマ信徒の手紙に書いてある通りなのです。


 私たちもかつての弟子たちと同じように、イエス様の思いを学んでまいりましょう。私たちの周りには、神様や天の国の存在を受け入れられず、飼うもののない羊のように心細い人生を送っている人がたくさんいます。その人たちと出会ってあなたの心がズキズキと痛むなら、それはイエス様の「憐れみの心」が働いている証しなのです。イエス様に派遣されるままに、弟子としての役目を果たしてまいりましょう。そこに私たちの本当の喜びもあるのです。



今の時期、近所のお家の庭や道路沿いなどに
紫陽花がきれいに咲いているのを見かけます
この写真は知人の家の紫陽花です



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