2023年5月22日月曜日

「主の昇天」(日曜日のお話の要約)

主の昇天礼拝(2023年5月21日)
 使徒言行録 1章1-11節(213) 
 エフェソの信徒への手紙 1章15-23節(352)
 ルカによる福音書 24章44-53節(161)


 イエス様は十字架にかけられ一度死なれますが、三日後に復活し、その後40日間、弟子達と共に過ごされました。ちなみにイエス様は宣教活動に入られる前にやはり荒野で40日40夜を過ごしておられます。

 この40という数字は、聖書に繰り返し登場する数字で、神様からの大事なメッセージが込めらていると受け止められてきました。例えば創世記の「ノアの箱舟」では神様が40日40夜地上に雨を降らせ、箱舟に入ったもの以外を地の面からぬぐいさられます。

 出エジプト記では、イスラエルの人々がモーセに導かれて約束の地に到着するまでが40年です。また、その旅の間にモーセが神様の掟である十戒を与えられた時、彼は40日40夜シナイ山にこもりました。列王記上では、力尽きた預言者エリヤが神様に励まされて再出発するまでの期間が40日40夜だったと記されています。

 このようにユダヤ教徒は子どもの頃から40という数字を印象深く頭に刻み、神様が何事かを成し遂げられる時の数字であると学んできたのです。これはイエス様の弟子たちも同様でした。ですからイエス様が天に帰られるのが復活なさってから40日後だと気づいた時、イエス様の地上での使命が完了し天国にお帰りになるのだ、と強く感じたのでしょう。

 天国を本気で信じないならば、死というものは永遠の別れでしかありません。しかし、イエス様の弟子達は、イエス様から、はっきりと天国というもの、神の国というものを示され、疑うことなどできないところまで行き着いたのです。

 弟子たちがイエス様と共に過ごした最後の40日間、彼らは非常に深く学んだことでしょう。この世になぜ苦しみがあるのか、なぜ人生は自分の思う通りにはならないのか、なぜ人は死ななければならないのか。それらの答えはすべてイエス様が持っておられたのです。彼らはこの後、自分の人生にどのようなことがあっても、イエス様が共にいて導いてくださることを堅く信じたのです。

 そんな彼らに対し、イエス様は力強い約束をしてくださいました。それが弟子たちに聖霊を送るというものでした。ヨハネ福音書に記された最後の晩餐の席上でイエス様は「まもなく自分は父の元に帰るが、あなたがたをみなしごにはしておかない」と語っておられます。

 イエス様が天に帰られた後は肉体の目ではイエス様を見ることはできなくなります。しかし父なる神様がイエス様の名によって遣わしてくださるが聖霊が弟子たちに全てのことを教え、イエス様が話したことを思い起こさせてくださる、と言われたのです。

 弟子たちはこの約束を聖書に書き記し、後の世に伝え続けました。今の私たちが遠い国でスタートしたキリスト教を自分の教えとして受け入れて信じ、信頼して、イエス様に祈り頼ることができるのもこの約束のおかげ、私たちのところに来てくださった聖霊の働きなのです。

 日本では第二次世界大戦後にキリスト教ブームが起こりましたが、その時導かれた人々の多くは次第に教会から離れていってしまいました。なぜなら、そこには気持ちの高ぶりやアメリカへの憧れはあっても、一人一人が教会に通い、コツコツと聖書を読み祈り学ぶことを尊ぶという姿勢が欠けていたからです。

 ムードに流されて信仰生活を始めてみても、そこにあるのは地味な世界だったでしょう。しかし残った人たちは自分に与えられた賜物を生かして教会を中心に共に生きる社会を作って今に至っています。しかしその方々もすでに高齢化しています。

 かつて日本にキリスト教を伝えた欧米諸国においても、キリスト教離れが進んでいると聞きます。このような時代になってしまったからこそ、諸外国のクリスチャンを批判する前に、自分自身が今一度聖書に立ち返ること、初代のクリスチャンの信仰生活に立ち返ることが、大切なことだと気づく必要があるのです。

 聖書が難しいという嘆きをよく聞きますもちろん日本以外の文化や習慣がてんこ盛りですから、そこに足を取られてしまいがちなのはわかります。しかし、飽きずに読み続ける秘訣もあります。それは聖書に書かれた出来事が、遠い出来事ではなく、自分の身に起こっているのと同じだ、と意識することだけなのです。

 ドイツの詩人にして劇作家のゲーテは「聖書は、理解が進んで、この自分と関わりがあると分かるにつれて、美しくなる」と言っています。聖書は自分に向けて書かれているメッセージだと気づくなら、聖書に捉えられている証拠なのです。

 聖書にはお祈りに関して「気を落とさずに絶えず祈ることの大切さ」が書かれていますが、どんなことでも100回祈ったら自分の祈りが叶う、というのではなく、自分が必死で祈っているその出来事について、神様のお考えを知ることができる、ということなのです。祈り手と神様の思いと重なる時、そこに絶大な力が働くのです。自分勝手な解釈をしないためにも、聖書をクリスチャンの仲間と共に学んでいくことは大切なことなのです。

 改めて世界を見回す時、私たちは世界の終わりに突入しているのではないかと気持ちが暗くなる時があります。ルターは「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える。」と語りました。私たちも神様に支られながら、聖霊の促しを受けながら神様の御心を行って参りましょう。世の人に「愚かだ」と言われても、ここに神の国、天の国を私たちの手で実現させてまいりましょう。


道沿いの集会案内の看板の下に
一昨年ノイバラの鉢を置きました
ルターの紋章に似た花形で、色はうっすらピンクです
植え付けた年はあまり花も咲きませんでしたが
今年はこんな感じの花房を
伸ばした枝の先にたくさんつけています
道行く方が看板共々目に留めてくださいますよう
祈りを込めて

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