2023年5月14日日曜日

「聖霊の約束」(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2023年5月14日)
使徒言行録17章22-31節(248) Ⅰペトロ3章13-22節(432)
ヨハネ福音書14章15-21節(197)


 ヨハネ福音書14章は、イエス様が最後の晩餐の席上で、主だった弟子たちに語られたお言葉です。聖霊降臨祭を再来週に控えてイエス様が真理の霊、聖霊なる神の到来を弟子たちに予告してくださる大切な場面です。

 この弟子の中に「熱心党」と呼ばれる組織の一員がおりました。福音書の12弟子の紹介の箇所で、彼は必ず「熱心党のシモン」と紹介されています。この「熱心党」とは、ユダヤ人の宗教的政治集団で、ユダヤ人以外の人々が自分達の国を統治することを拒み、ローマへの反乱をおこした人々です。

 彼らは、信仰の面ではファリサイ派のように熱心に律法を守るのですが、ファリサイ派の人びとが政治的な動きにかかわりなく暮らす立場をとったのに対し、自分たちの手で神の国を実現するために、血を流して戦いました。ファリサイ人たちがローマとの妥協点を見出しながら信仰生活をやりくりしていたのに対し、「熱心党」は非常に攻撃的になって異邦人を排除しようとしたのです。

 本日読みました第一ペトロ3章13節には、「もし、良いことに熱心であるなら、誰があなたがたに害を加えるでしょう」と記されています。ここで使われている「熱心」という言には「熱心党」を指すのと同じ「ゼロテ」というギリシア語が使われています。

 ペトロの手紙は、イエス様が天国に戻られた後、キリスト教会が一つの組織として纏まり始めていた、まだまだ初期の頃に記されたもので、何に熱心であるのが良いことなのか、活発に議論されたようです。

 12弟子の中に熱心党員がいたくらいですから、初期のキリスト教会の中に、熱心党と同じ考えを持つ過激な人々は何人もいたことでしょう。熱心党に入っていなくても、ユダヤの成人男性は熱くなりやすい気質を持ち合わせており、その上議論好きでした。そんな彼らが自分の思い込みで「これこそ良いことである」と考え、教会の意志を無視して自分の判断で情熱を注いでしまったら、まだまだ組織として始まったばかりの教会はまとまりが失われ、バラバラになってしまいます。

 指導者がその危険性を指摘して、熱くなりすぎないで心を合わせるよう促しても「私は良いことを熱心におこなっているのだから、私を批判したり、無理やり止めようと害を加える者は、仲間ではない」とムキになって反論したかもしれません。

 だからこそ指導者であるペトロは、その手紙の中でキリスト者であるならば、自分の正しさを証明しようと仲間同士で言い争ったりしないよう忠告しています。「あなたが熱心にしようとしていることについてはいつでもちゃんと説明できるように、ただし聞いてくる人には穏やかに、敬意を持って、正しい良心で説明できるように」と諭したのです。

 このような謙遜で真剣な姿勢をとって、あきらめずに自分の熱心さを周囲に知らしめることが神様が喜ばれることであり、キリスト者として神様を証しすることができる態度なのだ、と教えたのです。ただ、この言葉を記したペトロが最初から温和で謙虚な人物ではありませんでした。彼はイエス様の復活後少しずつ変えられてゆき、使徒言行録を読めばわかるように、聖霊なる神の導きによって真の指導者として立てられて行きます。

 しかしイエス様に見出された頃のペトロは一本気でイエス様のためなら火の中水の中、というくらい熱くなりやすい人物で、少々早とちりなところもあるけれど、仲間をまとめ上げる親分肌でもあったことが、福音書から見て取れます。

 このペトロも他の弟子たち同様、イエス様が王様や支配者になれば、自分も救われ、世の中は救われると心を躍らせました。しかしイエス様の教えは、人間が築き上げた制度や身分、社会的モラルや秩序への挑戦となってしまいました。

 イエス様はひたすら神様と人間が正しい関係に戻るために働いておられるのですが、時の政府にとってはイエス様の宣教は「新しい独立運動の一派が誕生した」としか思えなかったのです。結局イスラエルの上層部は、イエス様の活動はイスラエルにとって害にしかならないと考え、ローマの法に基づいて十字架にかけることを望み、実行したのです。

 イエス様は神の愛を説くために一歩も下がらず、妥協もせず、親しい弟子たちに理解されなくても、真っ直ぐに歩まれました。その結果として、酷い仕打ちを受けられたけれど、それは予想しておられました。そしてその上で、イエス様を十字架にかけたすべての人々の罪もあらかじめ赦しておられました。

 イエス様がこの世に来られたのがなぜ 2000年前のイスラエルだったのか、どうしてこのタイミングでなければならなかったのか、私たちにはわかりません。しかしこの時を逃しては、神の愛を示すことは出来ない、というのが神様のご計画でした。あの2000年前のイスラエルで起きた小さな出来事は、教会を通して世界に広がり、私たちもその恵みに預かっているのです。

 私たちは日本においては、イエス様の時代の最初のクリスチャン達と同じく、人数も少なく、理解者も少数です。しかし私たちの生きる世界とその万物を造られたのはイエス様の父なる神様であり、御子であるイエス様はそれを伝えるために命さえ惜しまなかったことを私たちは知っています。

 聖書を自分の人生の基準として神様に忠実に生き、御霊の促しに忠実にある時、その熱心さを神様は喜ばれます。ここに集う人達に信仰が与えられ、霊的に生きることを優先する時、物資もまた、神様が満たしてくださると信じてまいりましょう。

少し車を走らせると中央アルプスが見えてきます
まだ雪を被っています
雄大な風景です

教会の駐車場植え込みではオダマキが
そろそろ終わりを迎えています
これは「ノラバロー」という品種だそうで
タネをいただいてから2年目
小さな花がかわいらしく咲いています


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