2022年6月1日水曜日

神の愛に生きる 主の弟子達(日曜日のお話の要約)

復活節第7主日礼拝(2022年5月29日)
詩編97編10-12節 ヨハネによる福音書17章20-26節


 本日のヨハネ福音書17章は、イエス様が十字架にかかる前の夜、最後の晩餐を終えてゲツセマネの園に赴く直前のイエス様の祈りのお言葉です。


 ゲツセマネに行けばユダに率いられた兵士や祭司長、ファリサイ派の人々などがご自分を逮捕するために来る。そしてその先に待っているのは不当な裁判や鞭打ち、ついには十字架にかけられて命を落とすのです。しかしイエス様は全てをご存知の上で受け入れられました。


 このような状況においても、イエス様は父なる神様に向かって何度も何度も「愛」というお言葉を用いて弟子達のために祈られます。読み飛ばしてしまいそうになりますが、20節に「彼らの言葉によって私を信じる人々のためにもお願いします」というイエス様のお言葉があります。「弟子たちの言葉によって主イエスを信じた人々」とは、全ての信仰者のことであり、ここにいる私たち全員のことです。信仰者である私たちが一つとなってご自分の元にいられるよう、主イエスは父なる神に本当に熱心に祈られたのです。


 イエス様はさらには、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われています。父なる神と独り子主イエスとは、お互いがお互いの内にいると言えるほどに一つの存在です。それと同じように、主イエスを信じる信仰者たち、つまり私たちも、切り離すことのできない強い絆でイエス様と父なる神様とに結ばれるようになるように、と主イエスは祈り願われたのです。 


 なぜそれほどまでに熱心に祈られたのかといえば、むしろ人間というものが、神様を信じていると言いながら、些細なことで歪みあったりバラバラになったりする性質を持っていることをイエス様は知っておられたからです。

 神様は地上に最初の人間アダムをお作りになった時から、人間が一人では生きていけない弱いものであることを知っておられました。そのためパートナーであるエバをお与えになったのですが、二人は知恵の実を巡ってあっという間に夫婦喧嘩を始めてしまいます。聖書は創世記の初めから「人とはこう言うもの」と教えているようです。

 良きにつけつけ悪しきにつけ、私たちには意見の違いというものがあります。小さい事なら誰かが我慢すれば済むかもしれませんが、大きい出来事に立ち向かっていくときには、そうはいきません。神様の力をいただいて、心を一つにする努力を積み重ねていかなければならないのです。そしてイエス様と神様が一つであるようにイエス様ご自身と私たちが一つでいられるように、という強い願いがそこに込められているのです。


 二人いれば必ず意見の相違が生まれ、意地を張り合ってなかなか折り合うことができない。神様は私たちのそんな弱さを知っておられたからこそ、イエス様を地上に遣わされて私たちを集め、私たちに教会というものをお与えになりました。

 「教会」と訳されている言葉は、元々のギリシャ語では「エクレシア」と言います。これは本来「国のために召集された集会」いう意味でしたが、キリスト者の集まりが「神様の呼びかけで人が集まる」という意味に用いるようになりました。教会というのは、神様によって集められたものが、恵みだけでなく、悲しみも喜びも、知恵も知識も力も財産も、全てを分け合う場所である、ということなのです。人々がそう意識し合うことが神様にとって喜びなのです。


 私たちが目指す世界は、イエス様の祈りにあるように、神様の国がここに実現することです。イエス様が私たちに求めておられる世界は、どんな人間もお互いに尊重しながら共に生きる世界です。社会全体、国全体、世界全体に、キリストの教えによって光を輝かせ、間違った生き方をしている人に悔い改めの思いを与え、新しく生き直せる、そんな世界です。

 新約聖書に納められている数々の書簡を読むとき、手紙の書き手であるパウロやペトロやヨハネが、しばしば厳しい言葉で教会員を諫めていることに気がつくと思います。

 どうして仲良くできないのか、どうしてもっとキリストの教えを学んで実践しようとしないのか、どうして他の教えに心惹かれて教会の中に混乱を持ち込むのか。言葉こそ違いますが何度も何度もそんな叱責が出てきます。これは教会が誕生した直後から、クリスチャンたちが同じような問題で悩んできたことを表しています。


 しかしいくら愚かな間違いが繰り返されても、神様の言葉の前に素直に悔い改めるなら、もう一度やり直し、一つとなることがことができるのが神の民なのです。なぜなら私たちが聖書に生かされ悔い改めつつ前進するキリスト者になるために、イエス様ご自身が祈ってくださったからです。


 飯田教会はこれから会堂を新しく建築するという試練に向かって参ります。イエス様に祈られ、導き出された私たちは、心を一つにして神に従うことのできる者達なのです。共に喜び祝える時を待ち望みながら、与えられた試練に取り組んでまいりましょう。



写真中央の薄茶色の塊はモリアオガエルの卵塊です
飯田教会から4キロほどの野底山森林公園で
モリアオガエルが産卵すると聞いていましたが
今年、ようやく見に行くことができました
時期が来るとオタマジャクシが
下の池に
ポトンポトンと落ちるそうです
本当に不思議な生態です

モリアオガエルのモーリーくんが
この場所のゆるキャラ(?)です

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