2020年10月21日水曜日

神のものは神に(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第20主日礼拝(2020年10月18日)

イザヤ書45:5-7 Ⅰテサロニケ1:1-10 マタイ福音書22:15-22


 本日の福音書では、ファリサイ派とヘロデ派人々が慇懃無礼な態度で、「イエス様あなたは神の道を教えておられます」と語りかけます。


 ファリサイ人たちは、旧約聖書の昔から律法を守って来た、国粋主義者と言って良い人々です。しかし、いつの間にか教えを自分たちに都合よく解釈し、特権階級の上にあぐらをかいて生きていました。

 一方、ヘロデ派という人々は、ローマの後ろ盾を得ながらヘロデ王がユダヤで政治を続けることを望む、よく言えば国際派の政治色の強い人々の集まりでした。

 伝統を重んじるファリサイ派と、ローマに迎合して平和を保とうとするヘロデ派の人々の仲は良くありません。しかし彼らにとって当面の共通の敵はイエス様でした。彼らはこの日手を組んでイエス様の失脚を謀ったのです。

 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」これはもちろん言葉の罠です。イエス様が「納めなさい」と言えば、ヘロデ派は「イエス様は皇帝が怖いんだ」と嘲笑い、ファリサイ派は「ローマに税金を納めるのが正しいとは民族の裏切り者め」と攻撃するでしょう。周囲の群衆もローマの高い税金に苦しめられていましたから、イエス様が「納めなさい」と言われたら、失望するでしょう。

 もしイエス様が「納める必要はない」と答えたなら、ヘロデ派は「ローマ皇帝に逆らう反逆者め」と攻撃し、ファリサイ派は「イエス大先生は税金納めなくても良いとおっしゃったぜ」と嘲笑うでしょう。

 この問いかけは「納めなさい」と答えても「納める必要はない」と答えてもダメなのです。しかし、イエス様はすべてお見通しでした。


 イエス様は彼らに「税金に収めるお金を見せなさい」とおっしゃいました。挑発者たちは言われるままにデナリオン銀貨をイエス様に見せます。それにはローマ皇帝の肖像画が刻まれていました。実はユダヤの様なローマの属国は独自で銀貨を作ることが許されず、ローマ皇帝の肖像入りのローマ銀貨を使うしかありませんでした。

 しかしユダヤ教では神様の像を作ったり絵に描いたりすることを禁じていおり、ここから派生して、一般的な肖像画も描かれなかったようです。そんな彼らですから皇帝のコインは嫌で仕方なかったでしょうが、使うしかありませんでした。

 さて、イエス様の問いかけの真意を見抜けないファリサイ人たちは、イエス様が「これは誰の肖像と銘か」と尋ねられると、あっさりと「皇帝のものです」と答えます。するとイエス様は「では、皇帝のものは皇帝に返しなさい」とおっしゃったのです。


 わかりやすく説明するならば、ユダヤ人は、ローマ貨幣を使用し、ローマ帝国から社会的恩恵を受けているのだから、納税という形で返すのは、当然であるとされたのです。しかし、もちろんそれだけではありません。イエス様は続けて「神のものは神に返しなさい」と言われたのです。

 当時、エルサレム神殿に献金をする際、神殿サイドから「肖像画の刻まれている異民族の通貨は神様が喜ばないから、特別な両替商で献金用のコインに交換しなさい」と指示されました。神殿御用達の両替商は手数料を取って儲け、利益の一部を祭司達に納めていました。

 つまり祭司達は神殿に仕える人々でありながら、献金の一部を自分たちの懐に入れていたのです。これは周知の事実で、ユダヤ社会全体が「神のものを神に返していない」いませんでした。しかし多くの人々がそれを見て見ぬ振りをしていたのです。

 イエス様に議論を挑んだ人々は、先に、イエス様に問われるままに「この銀貨は皇帝のものです」などと答えてしまっていますから、今さら「皇帝のものってなんですか?神のものってなんですか?」などという幼稚な問いかけはできません。また、宗教の中心である神殿ですら「神のものを神に返していない」ことも知っています。ですからそれ以上議論を続けられなくなってしまったのです。

  

 この議論は「さすがイエス様」というだけでなく、大切なメッセージが含まれています。それは「私たち人間は神のものである」という事です。

 ファリサイ派もヘロデ派も、心の中では今の社会が正常であるとは思っていなかったことでしょう。しかしローマの支配下にあって、自分の社会的地位を守る事で必死だったでしょうし、危うい均衡を保ちつつその状態を維持していくことも社会の上層部にいる彼らの大切な仕事でした。ただ、そこにある矛盾を、イエス様から強く指摘されたのです。

 この世では何をするにしても先立つものが気になるところですが、「神の国と、神の義を求めるところに、全ては与えられる」と信じることが、私たちクリスチャンが、経済活動最優先の社会の中で生かされている意味でもあるのです。


 「神のものは神に返す。」素直な心を持って神様を第一に愛してまいりましょう。




先日教会員の持ち山に
キノコ狩りに連れて行ってもらいました

探せば松茸も採れる山だそうですが
この日は見つけられませんでした
キノコのことは全く分からず
「え!?これ食べられるの?」の連続です


持って帰っておっかなびっくり
吸い物にしたり
フライパンで焼き付けたり
無事美味しく食べ終わりました
それにしても山国の方はすごい!
と心から思います

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