2020年4月27日月曜日

エマオのキリスト(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(2020年4月26日)
ルカによる福音書 24:13-21

 「こんな時代が来るなんて」。誰もがそう思いながら毎日を過ごしていることとと思います。もちろん飯田教会だけでなく、日本中、そして世界中に、「新型コロナウィルス」の影響が広まっています。
 安定していると思い込んでいた社会が、実は不安定だったと気づく時、人間は、何か確かなもの、変わらないものを求めようとします。そして宗教に助けを求めるものなのかもしれません。

 本日与えられました聖書箇所は「エマオのキリスト」と呼ばれる出来事です。
 イエス様が十字架にかかる直前まで、弟子たちは「イエス様がイスラエルの指導者になる」という夢を抱いていました。
 ここに登場する、クレオパという弟子、12弟子には属していませんが、同じようにイエス様の将来に絶大な期待をかけていたと思われます。ローマ帝国に支配されて属国となっているイスラエルを再び独立国家とし、ローマの国から自由にしてくれる、そんなリーダーを求め、その人物こそイエス様だと強く支持していたのです。
 イエス様がホサナの歓声に迎えられてエルサレムに入城した時、クレオパはどれほど喜んだことでしょう。ところがその方がユダヤ民族の指導者たちによって捉えられ、ローマ帝国の権力者に引き渡され、十字架につけられてあっけなく殺されてしまったのです。彼らが天地がひっくり返るほどの衝撃と失望を味わったのは当然のことだったでしょう。

 その時、ペトロをはじめとする中心的な弟子たちはイエス様を捨てて逃げ去りました。三日目に、勇気を振り絞ってイエス様の墓に行った女性の弟子達から、イエス様は復活したと伝言されても信じられず、部屋に閉じこもり続けるという有様だったのです。
 クレオパたちの口ぶりから、彼らもまた女性の弟子から直接復活の知らせを聞いたと思われます。しかし、やはりそれを信じることはできず、そっと隠れ家から立ち去り、エマオという村への道を歩いていたのです。
 エマオへは、エルサレムから60スタディオンの場所、と書かれています。エルサレムからおおよそ11キロ離れた村です。ここに彼らの住まいがあったのかも知れません。

 イエス様はすごい人だ、自分はその人の弟子になって、でっかいことをやるんだ、そんな風に故郷の人々に話していたかもしれません。それなのに、なんとも惨めな姿で自分の故郷に帰ることになってしましました。
 エマオの家族や友人に何をどう話そうか。イエス様という方の失敗だろうか。弟子たちの失敗だろうか。いやいや、自分達にもっとできることはなかったのだろうか。歩く道すがら、二人で論じ合う言葉はどんどん言い訳っぽくなり、そこには解決も救いもありませんでした。

 そのような二人に、復活したイエス様が近づいて一緒に歩き始めます。しかし、どうしたことか彼らはイエス様を認識できません。目が遮られていてイエスとは分からなかった、というのです。イエス様の十字架での無残なお姿があまりにも強烈で、心と頭に焼き付いて他のことが見えなくなったのかもしれません。彼らはイエス様がここにおられるなどとは想像することもできなかったのです。
 しかしイエス様はお構いなく、二人に、「今話している出来事はなんのことですか」と語りかけます。彼らは素直にイエス様のことや、自分たちが体験したことを話します。するとイエス様は「ああ、なんて物分かりが悪いんだ」とおっしゃって、旧約聖書の出来事を語り始めたのです。

 エマオへの距離から考えて、歩きながらイエス様が語られたのは、1時間か2時間ほどだったでしょう。旧約聖書は長い書物ですが、よく知っている人がテーマを凝縮して語ると、かなり短くすることもできます。
 それは、どんな苦難の中にあっても、どんな試練の時であっても、神様は共にいて救ってくださる、導いてくださる。ということに尽きます。
 神様の姿はいつも変わらず、変わるのは人間の罪の姿なのです。旧約聖書の人々は、ある時は神様を信じず、ある時は神様を軽んじ、ありとあらゆる罪を犯します。神様の御手を振りほどこうとして、むしろ苦難に陥った時も、神様は再び手を差し伸べてくださいます。旧約聖書には人間の罪深さと、それを見捨てられない神の愛が、歴史を通して描かれているのです。

 しかし、死という一点において、人間は神様を見失うのかも知れません。神様に従った結果として死が迫る時、どれほど強い信仰の持ち主でも、死んだら終わりじゃないか、本当に神はいるのか、と疑うのです。
 だからこそ、イエス様は十字架の上で死なれることによって、人間は死によって終わるのではなく、見捨てられたように見えたとしても、むしろ神の懐に入るのだということを証明されたのです。
 イエス様はそのようなことを一つ一つ、旧約聖書から引用してクレオパ達に解き明かしていかれたのでしょう。それは目の開かれるような経験だったに違いありません。彼らはイエス様とわからないまま、この謎の人物と離れがたくなり、もっと話をして欲しいと願ったのです。

 本日の福音書の終わりの部分で、「道で話しておられるとき、また聖書の説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか」という言葉を発して、クレオパ達はエマオからエルサレムに引き返します。時間も遅く、暗闇の中を、彼らはイエス様に灯していただいた信仰のあかりを失うことなく、感激と喜びを抱いて苦難の待つエルサレムへと、信仰の故郷へと戻って行ったのでした。

 聖書は、この世が終わるのではないかと思えるほどの出来事があったとしても、神の言葉は人々を励まし続けることを教えてくれます。たとえ本当にこの世の終わりが来たとしても、キリスト者はイエス様に迎え入れられるという確かな慰めがあるのです。
 主イエスは確かに復活し、神は生きて共におられる、とエマオの道で弟子達に教えられました。私たちも今、困難の途上の中にあっても、信仰を堅く保ち、この苦難の時を過ごして参りましょう。


園庭にある大きな銀杏の木と
牧師館の物干し台の間に綱を渡し
鯉のぼりを泳がせるのが
ルーテル飯田幼稚園流
風の強い土地なので
千切れんばかりに勢いよく泳いでいます

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