2019年10月22日火曜日

やもめと裁判官のたとえ(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第19主日礼拝(緑) (2019年10月20日)
創世記32:23-31 Ⅱテモテ 3:14-4:5 ルカ18:1-18

 本日のイエス様の例え話に登場するやもめ(未亡人)は、裁判官の元を訪れ「相手をさばいて私を守ってください」と執拗に訴え続けます。初めのうち、ろくに礼ができそうもない彼女の訴えを、裁判官はまともに聞こうとしませんでした。しかし彼女はその諦めない姿勢でついに裁判官の思いを変えることに成功します。
 これ以上無視し続ければ、裁判官自身がノイローゼになりそうなくらい、彼女はしつこかったのです。損得勘定で考えた時、彼女のプラスになる裁判をしてやった方が、自分が楽になる。これが裁判官の導き出した結論でした。

 イエス様はおっしゃいます。この世を損得勘定でしか考えない「不正な裁判官」でさえ、ひたむきに訴え続ければ、それを無視することができなくなる。それならば、あなたを愛しておられる神様は正義に満ちた方なのだから、なおさらあなたの訴えを無視することはない。
 それは、例え話の最初の部分に「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と書かれている通りなのです。

 どうしようも無い不安の中にある時、私たちは神様に向かって、そしてイエス様に向かって、どれほど同じことを祈っても、決して恥ずかしくないのです。
 私たちが父と呼ぶ神は、祈る者から目を背ける方ではありません。本当に聞いてくださっているのかと不安になるときがあったとしても、落胆せずに、疑うことなく、絶えず祈るべきなのです。落胆し「どうせ神様は…」と愚痴を零しそうになる自分自身の心に打ち勝つためにも、絶えず祈り、昼も夜も叫び求めることが許されているのです。

 旧約聖書の時代にも ひたむきに願い祈る姿を神様に受け入れられた人物がいます。旧約聖書の日課に登場するヤコブは、神様から「イスラエル」と言う名前をいただき、それが国の名前ともなって、今日も使われています。
 ヤコブはかつて父イサクと兄エサウを騙して、長男にだけ与えられる神様の祝福をかすめとります。これが兄の激しい怒りを買い、実家から逃げ出します。
 しかしヤコブは、不正に手に入れた祝福であっても、神様は確かに自分と共におられると信じてきました。彼は試練を耐え抜き、豊かな財産や愛する家族を与えられました。
 明日は長い年月を経てついに兄弟が再開する日です。兄をなだめるためにたくさんの贈り物を用意し、準備できることは皆やりました。しかし和解できるのか、殺し合いに発展するのかわかりません。
 今のヤコブが持っている幸せの全ては、兄エサウを騙した結果として手に入れたものです。ここに来て、神様が全て取り上げてしまうのではないだろうか。しかしそうなっても自業自得と受け入れなければならないのだろうか。神様の御心がどこにあるのかわからないまま、ヤコブはヤボクの渡しと呼ばれる場所に一人残って悩苦しみ続けていました。

 その晩、不思議な出来事が起こりました。何者かがヤコブに襲いかかり、二人は夜明けまで格闘することになります。延々と格闘するうちにヤコブは相手が何者であるか気づきます。ヤコブは自分の不安を全てぶつけるように組み打ちを続けます。やがて腿の関節が外れると言うダメージを受けますが、ヤコブは戦いをやめません。
 やがて夜が明けかけるころ、格闘相手は「もう帰らせてくれ」と言いますが、ヤコブは相手が神ご自身であるとわかっていましたから、激しい痛みがあっても必死で祝福を願い、食い下がります。「祝福してくださるまで離しません。」
 神様は、これほどまでに神様ご自身から祝福してほしいと願うヤコブの姿に、「これからイスラエル、つまり神に勝つ者」と名乗りなさい、と告げ、祝福を与えてくださったのでした。
 (※余談ですが、再開した兄エサウは豊かな財産を持って幸せに暮らしており、弟ヤコブに恨み言を言うことはありませんでした)

 この出来事をクリスチャンが読む時、ヤコブの行動は単なる殴り合いではなく、必死で神様に食い下がる、信仰と魂の格闘である、と読み解くのです。

 私たちは、この夜のヤコブのように、自分の信仰の弱さを思い知らされる時があります。あまりに辛い時は、神様を、イエス様を信じ、頼り、委ね続けることに困難を覚えるのです。
 イエス様は、弟子たちに対して、信仰を失ない、妥協する人々が多くなることを危惧しておられます。失望や挫折が信仰を弱らせることをイエス様はご存知だったからです。その結果、神様の愛も、祈りへの応答も気づくことなく、ずっと不安や不満の中で過ごすことになってしまいます。

 この教会で、そしてこの園で行われる祝福は、全て神様からの贈り物です。その祝福を受けるものは「気を落とさず 絶えず祈る」ことで、神様と対話する特権が与えられているのです。
 私たち一人一人は神様に愛され、召し出されてキリストを知り、祈るものに変えられたのです。この原点に立ち返り、私たちのどんな訴えにも耳を傾けてくださる神と共に歩んでまいりましょう。

台風19号が通り過ぎた後
教会の駐車場の植え込みの中に
元気な姿を見せてくれた
カエルくん


0 件のコメント:

コメントを投稿