2019年2月21日木曜日

説教「師のように整えられるなら」(ルカ福音書6:37-49)


2019217日、顕現節第7主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第71-7節、コリントの信徒への手紙第1512-20節、ルカによる福音書第637-49節、讃美
62/1(詩編621-8

説教「師のように整えられるなら」(ルカ福音書637-49

 「平地の説教」と呼ばれる部分の最終回を、顕現節第7主日の今日、迎えています。ルカ福音書第6章37節から49節を、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

まず、主イエスは「裁くな、そうして、あなた方が裁かれないためである」。「罪に定めるな、そうして、あなた方が罪に定められないためである」と言われ、続いて、肯定的に、「赦免してやりなさい、そうすれば、あなた方も赦免される。」「与えよ、そうすれば、あなた方も与えられる。人々は、押し下げられている、揺すぶられている、溢れさせられている量りに対して、量りで、あなた方の懐へと与えてくれるであろう。あなた方の量る量りで量り返されるからである」と言っておられます。人々が、私どもの量る量りで、もっと豊かに量り返してくれるというのですが、これらのことは、いずれも、神が十分に報いてくださると、主イエスは約束してくださっているのであります。

 そして、そこから、新しい段落へ、新しく展開されるテーマへと移り、主イエスは、以下のような譬えを言われるのであります。
 
盲人、目の不自由な人が、目の不自由な人を案内することができようか、二人とも穴に落ちてしまうのではないかと。そして、弟子は、その師以上の者ではない。で、十分に訓練されれば、すべての者は、師のようになるであろうと。
 これは、主イエス御自身と、その弟子たちのことを言っているのであります。主イエス以外を師として持つことは、両方とも穴に陥ることになるが、主イエスに従っていくとき、間違いはありません。
 
そして、私どもは、修行を十分に積めば、だれもが師のようになるであろうと訳されていますが、これは、十分に整えられ、備えられ、あるいは、漁師たちが網の手入れをするように、繕われ、補われれば、という意味であります。
 主御自身が、あなた方が従ってきて、整えられるなら、私のようになるだろうという驚くべき言葉であります。
 
もちろん、僕は、主人にまさるものではなく、主人に似た者になれば、十分としなければなりません。そして、この言葉は、ペトロや12使徒に対してだけ、言われているのではなく、この言葉を聞いている私ども、弟子のすべてに言われているのであります。
 
それから、次の言葉に移ります。あなたは、自分の兄弟の眼における小さなおが屑を見て、なぜ自分の眼にある丸太、あるいは梁を認めないのかと言われるのであります。幼少の頃、近くの山の生えている樫の木などの葉っぱを取って来て、その小さな葉の付け根の枝の木片を、自分の眼の上下に、曲げて付けて、仲間同士で互いに顔を見合わせて面白がった経験を思い出します。
 
相手の付けている小さなその木片はおかしくて吹き出すのですが、自分の姿には気が付きません。主イエスは、あなたの眼には、丸太があるのに、なぜあなたが、そのことを考えないのかと言われます。そして、偽善者よ、自分の眼の中にある丸太は見ないでおいて、どうして兄弟よ、あなたの眼の中にあるおが屑、あるいは塵を取り除かせてくれと言えるのか。
 
まず、あなたの眼の中の丸太を取り除け。そうすれば、よく見えるようになって、兄弟の眼からも、塵を取り除けようと言われます。
 私どもは、自分の短所、欠点あるいは落ち度は認めようとしないで、厚かましくも、相手の落ち度、足りないところを改善してあげようと言う。それは、神の考えられる思いとは反しており、私たちの本来あるべき姿にも反している偽善者であると、主イエスは鋭く指摘なさるのであります。
 
そして、訳されてはいませんが、もとの文では、「なぜならば」と続きます。良い木が悪い実、品質の悪い実をつけることはなく、悪い木が見事な実をつけることもないと言われます。
 
そして、茨から、人々はいちじくを、また、ばらの中からぶどうを収穫するだろうか。そのもたらす実から、その人が善い人かどうかはわかるのであり、まずは、良い木になること、信仰を与えられねばならず、そこから、否が応でも、良い行為が出て来るのであるというのです。
 
私たちが師である主イエスに従って、まず悔い改め、主イエスのように整えられねば、兄弟の眼にあるおが屑を考え、自分の眼にある丸太を見ないという生き方を変えることはできないと、主は言われるのであります。
 そして、さらに、善い人は、心の良い倉から、良いものを取り出し、悪い人は、心の悪いところから悪いものを取り出す。そして、なぜなら、心の溢れるところから、彼の口はしゃべるからであると言われます。
 
私どもの言葉は、心の中で思っていることをついて出てくるものであります。良い言葉を吐き、悪い言葉が口から出ないようになるためには、心の良い倉を持たなければなりません。
 
そして、良い行いと良い言葉が、自然に伴ってくるためには、まず、自分の眼の中にある丸太に気づくことがまずなければならず、それを、主イエスが自らの十字架の丸太によって取り除いてくださったことを、私どもは知らなければならないのではないでしょうか。
 
そして、いよいよ、最後の譬えの段落へと進みます。
 
あなた方は、私を主よ、主よと呼びながら、どうして私が語る言葉を行わないのかと、主は、私ども聞いているすべての者に問いかけられます。
 
ペトロは、大量の魚の捕獲があった主からの召命の時に、「主よ、私から離れてください、私は罪深い者ですから」と告白し、また、ルカによる福音書においては、その直後に、重い皮膚病の人も、「主よ、み心ならば、私を清くすることがおできになります」と訴えました。

しかし、私どもは、主イエスを「主よ、主よ」と呼ぶのみならず、主のみ言葉を行う者とならなければなりません。
 
そして、主は、主のみ言葉を聞き、それらを行う者と、聞くのみで行わない者とを、次の譬えで教えてくださいました。

前者は、地面を掘り、さらに深く進んで行って岩の上に基礎を置いて家を建てた人に似ている。洪水が起こり、その家に突然川が現れたが、それを揺るがすことはできなかった、見事にそれは建ててあったからだと。
 
私どもの人生には悩みの洪水が襲いかかります。しかし、そのような信仰の上に堅く建てられた家は、動揺することがありません。思わぬ時に、困難や悩みの嵐が吹きつけることは避けられませんが、イエス・キリストという土台の上に建てられ、主のみ言葉を行う人は、心配するには及ばないと主は家われるのです。
 
それと反対に、私の言葉を聞くだけで、それらを行わない人は、地面の上に、基礎もなく家を建てた人に似ていると、主は言われます。突然川が現れると、その家はバラバラになって倒れた。そしてその崩れ方は大きく起こった。それは、骨の継ぎ目がはずれて、体が立ち行かなくなったという意味の言葉が使われています。この家を建てる人の譬えで、平地の説教は終わっているのであります。
 
私どもは、人を裁かず、そしてまた、自分の眼にある丸太を、主イエスによって取り除かれ、主のお言葉を一つ一つ聞き、それらを生活の中で実践していくときに、主によって、備えられ、補われ、整えられて、死である主イエスのように、すべての弟子が成長できるのであります。
 
そして、あらゆる人生の洪水、嵐を乗り越えて歩んでいくことができるのであります。
 
祈りましょう。

 天の父なる神さま。私どもは、人を裁きやすく、また、おのれの眼にある丸太には気が付きにくいものであります。主は、しかし、そのような私どものために、私どもの眼にある丸太に代わって、十字架の丸太に架かってくださいました。また、主は、私どもが、悩みや苦しみの洪水に出会っても、揺るがぬ岩の上に建てられた家となって下さいました。
 そして、良き行いがもたらされるためには、良い信仰がまず与えられなければならないことを教えてくださいました。そして、そのうえで、主イエスのお言葉に聞くのみならず、そのお言葉を行うように命じておられます。そして、主は、十分に私どもが整えられるなら、師である主イエスのようになれると、絶望せず、み言葉に聞き続け、礼拝につながり続けるように教えておられます。
  主イエスのもとに、とどまり続けるように、どうぞ、弱い私どもの一人一人を憐れんでください。主の御名によって祈ります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


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