2016年11月10日木曜日

「み言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1:19-27)

ヤコブ12220161107、園合同礼拝

ヤコブの手紙第119-27

 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しあkし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。


説教「み言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ119-27

 ヤコブの手紙という聖書には、「み言葉を行う人になりなさい」と書かれています。み言葉は、人を真実に生まれ変えさせる力がありますが、それを聞くだけで、行わない人もいます。
 しかし、今日のみ言葉を書いたヤコブという人は、み言葉を聞くだけの人に終わらず、それを行う人になりなさいというのです。そして、み言葉を行うとは、聞くのに速く、話すのに遅く、怒るのに遅いことであるというのです。
 私どもはしばしば、その逆になりがちであります。しかし、それでは、神の義は進まないと、ヤコブは言います。
 そして、み言葉を聞くだけで、行いにまで行かない人は、自分の顔を、鏡の中におぼろに眺めて、そこから出て行くとすぐに、自分の顔がどうであったのかを、忘れてしまう人のようだと言います。言わば、み言葉は、練習をして、それを覚えるよう実行していくことが、不可欠であると、ヤコブは言っているようです。
 そして、完全な、自由を与える律法を、見つめて、それにとどまる人は、ただ聞いて、すぐに忘れてしまう人ではなくて、ふるまいにおいて行う人であり、その人は、その行いにおいて、祝福されるであろうと、言っています。キリストの教えという、まことの律法にとどまる人、そして、聞いてすぐ忘れる人にならないで、その教えを行う人はだれでも、どのような人でも、必ず幸せになれると、この手紙の著者、ヤコブは、私ども一人一人を残らず、絶望することもないように、励まし招いているのであります。
 確かに信仰は、私どもが耳にたこができるほど、聞かされているように、み言葉を、聞き、信じゆだねることがなければなりません。しかし、み言葉は、それを行うことをも生み出す力があるものであります。み言葉を聞いて、それを行わないということは、鏡で自分の顔を見て、そのあとすぐ、それを忘れてしまう人のように、自分を欺いているのだと、ヤコブは言うのです。
 そして、最後に、礼拝とは、自分の口にくつわをかけることができ、そして、自分の心をそのおもむくままにはさせないものであるとまで、ヤコブは、み言葉を行うという意味を具体化して言っています。
 そして、それを、さらに推し進めて、清い、汚れのない真の礼拝とは、悩みの中にある孤児と寡婦を助け、訪問し、この世界から、自分を一点のしみもなく守ることであると、私どもに奨めているのです。
 「み言葉を行う人になりなさい」と、ヤコブは奨めています。聞くだけの人に終わるのではなく、私たちの心に植え付けられた、私たちの魂を救う力のあるみ言葉を、へりくだった心で受け入れ、そして、あらゆる下品と過度の悪を、脱ぎ捨て去って、キリストを着る者とさせていただきましょう。アーメン。


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