2026年1月11日日曜日

「洗礼の恵み」(日曜日のお話の要約)

降誕後第3主日礼拝(2026年1月4日(日)(白))

イザヤ書42章1―9節(旧)  使徒言行録 10章34-43節

マタイによる福音書 3章13―17節(新)


 本日の福音書では、イエス様が洗礼者ヨハネの元を訪れ、洗礼を「正しいこと」と言い、ご自身も受けられる姿がはっきりと記されてます。又、先ほどの使徒言行録には、ユダヤ人以外の異邦人が真剣にキリスト教を学ぶ姿勢に心打たれたペトロが、彼らに洗礼を授けています。


 私たちはキリスト教は誰でもその気になれば洗礼が受けられる、と考えていますが、信仰を持ち、洗礼を受けるということは神様から厳しく問いかけられていることなのだと、もう一度聖書から学ぶ必要があります。


 世界にはさまざまな宗教があって、長い学びや修行の期間を必要とするものもありますし、入信の資格を得るために、試験がある場合も少なくありません。それに比べればキリスト教の洗礼というのは、宗教の入信儀式としては簡素な方です。


 とはいえ、教会、教派によっては洗礼に至るまでに準備講座が何週間にもわたって行われ、礼拝出席や献金についても指導を受け、最後に教会の主だった人々の前で証を求められることもあります。「厳しいなあ」と感じる人もいるでしょうが、それでもなお、洗礼を受けたいという思いが消えないのは、その人が神様に招かれ、聖霊に導かれていると堅く信じているからであり、「今までの自分を悔い改め、新しい生き方を始める」ことを渇望するからです。


 ルーテル教会では事前準備は比較的あっさりしていますが、洗礼を受けようとする想いについては確認させていただきます。一般的には人生の目標は名声や富を得ることです。キリスト者はそれを否定こそしませんが「それらは決してキリストには代えられない」と明言します。この考え方が多くの人々には異質なのです。


 日本のように古来からの宗教が強い土地では、キリスト教の教えは理解されにくいもので、辛い思いをすることもあります。ただ日曜礼拝を優先しようとするだけで異質なものを見る目で見られることも多いのです。


 周囲の目に負けて隠れキリシタンになるのではなく、堂々と証しをしつつ切り抜けていくには、過去のクリスチャンたちが、さまざまな宗教を信じる人々と相対しながらどうやって伝道を行ったか、聖書から学び続け知恵をいただこうとする強い意志が必要です。


 使徒言行録5章には、イエス様の一番弟子であるペトロたちの伝道が大きく前進した様子が記されています。ガマリエルという有名な律法教師に「キリスト者は只者ではない」と思わせたのです。


 ガマリエルはファリサイ人としてユダヤの民衆から尊敬されており、人格的にも優れた人物でした。ガマリエルはペトロや他の弟子たちがイエス様の教えを大胆に伝えたことを咎められて取り調べられた時、裁判の場でペトロたちを庇ってこう言いました。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」


 ガマリエルは冷静にペトロたちの言動を観察していたのでしょう。もしかしたら心の中ではすでに、キリスト教信仰を肯定していたのかもしれません。


 しかしガマリエルの弟子であるパウロは、キリスト教は神様を冒涜する教えだと頑なに信じ、ガマリエルの判断を無視してキリスト教の大迫害を実行に移します。男女を問わず縛り上げ、牢に放り込むという許可を大祭司から得たのです。


 ところがキリスト者迫害の旅のさなか、イエス様から直接お叱りを受けて、悔い改めに導かれます。その後パウロは自分の特性を生かして、ペトロたちとは違う方法で異邦人に伝道していくこととなりました。ペトロとパウロは時にぶつかり合い、意見を戦わせながらも、イエス様を神の子と信じる人々を導いていきます。


 キリスト教を信じるということは、人によってそのスタイルが違い、お互いに切磋琢磨してちょこちょこと軌道修正をしていくことが必要で、本質をしっかり押さえているならば、互いの違いを受け入れる心が大切であることを使徒言行録の出来事は教えてくれます。


 さて、もう一度本日の福音書に戻りましょう。イエス様が洗礼を授けているヨハネの元に来た時、ヨハネは「私の方こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と大いにためらい、思いとどまらせようとします。しかしイエス様はヨハネに向かって「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と語りかけます。


 正しいことを成し遂げるのは私たちしかいない、という意味に取れるのです。これから先、世の人々からあざけられ、馬鹿にされようとも、神様から与えられた正しさは世の中を救い、世の中を変えていく基となる。そのためには罪人と呼ばれる人との関わりや、そう言った人々に愛を注ぐ働きも待っているが、それこそが神様のご計画であり、その決意を示すことが公の洗礼なのだとイエス様は言われます。


 洗礼の恵みを思う時、大前提として、私は私たちは罪人だったということを思い出す必要があるのです。私たちは愛することも愛されることも不器用な人に、神様から頂いた愛を分かち合い、注いでいく必要について、またその具体的な方法について、常に心備えしておく必要があります。苦手なところはお互いに補い合いながら、本当に良い社会、神の国を作っていくために、本当に良くしたいことを、ちゃんと言葉にし、意見を交わし、ちゃんと参加することが大切なのです。


 「せっかく洗礼を受けたのに何もいいことがない」と口にする人がいます。しかし洗礼の恵みはぼんやり待っているのではなく、一歩進んで手を伸ばす時、与えられたと実感することができるのです。一人一人が積極的に恵みに預かり、その恵みが恵みとして分かるまで、私たちは与えられた使命や生涯を、先人に見習って、歩んで参りましょう。


 恵みをいただき恵みを注ぐ、そのために私たちは神様に招かれ、キリストの名の元に洗礼を受けたのです。



みんなの聖書・絵本シリーズ「少年イエスと洗礼者ヨハネ」より
洗礼者ヨハネから受洗の順番を待つ人々の列の後ろに
イエス様が立っておられます

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