2020年5月18日月曜日

弁護者キリスト(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2020年5月17日)
ヨハネによる福音書 14:15-21

 キリスト教主義の様々な施設で大切にしている心構えとして、「愛の精神」があります。これは言うまでもなくイエス様が弟子たちに教えてくださった心構えです。しかし「愛の精神」を持って生きるというのは、自動的に出来るようになるものではありません。イエス・キリストは生まれつきの人間は決してできないからこそ、あえて掟として与え、教えられたのでしょう。
 出来ないことをするのは、とても難しいことです。どんな天才も努力しないで何かを身につけることはできません。「愛」というものも、神様から教わった通りに試みて、失敗して、また学び直す。心が折れそうになっても繰り返し学んでいく。そんな謙虚な姿勢が必要なようです。

 イエス様は最後の晩餐の席上で弟子達をご覧になって「今のままの彼らでは、本当に愛の掟に生きることは難しい」と思っておられました。そこで、「私が天に帰った後、別の弁護者を遣わす」と言われたのです。
 これは「あなたがたは愛の実践なんてできない」と言う意味ではなく、「あなたたちだけでは続かない」という意味なのです。「自分の力だけでは続かないのが愛の実戦だ」そのように教えてくださったのです。
 イエス様の弟子達は、イエス様が生きている時に「愛の業を行いなさい」と命じられた時にはちゃんとできたのです。ヨハネ以外の福音書の話になりますが、イエス様から二人ずつ組になって宣教に行くよう促された時、彼らは素晴らしい働きをし、達成感を得て喜びながら戻ってきたことが記されています。
 この時彼らがうまくいったのは、イエス様が傍らにおられることが分かっていたからです。たとえ宣教に失敗しても、ピンチに陥っても、何があってもイエス様が彼らを受け入れ、待っていてくださると分かっていたから大胆に行動できたのかもしれません。
 ところがイエス様がそばにいてくださらないと、途端に自信を失います。「神様が見ておられますよ」と言われても、目に見えない方を信じて行動するのは難しいのです。かつてイエス様がそばにいてくださった時には自然にできたことが、イエス様が十字架にかかってしまうと、できなくなってしまう。かつての自分の心や行動は何処かに行ってしまい、勇気もやる気も失われてしまう。そしてイエス様を知る前の自分に戻ってしまって、世の大多数の人と同じような考え方になってしまうのです。

 しかし、この世から愛の精神、愛の業や言葉が失われて良いはずはありません 神様は、人々に愛の心をもう一度取り戻させるために、愛の精神をもう一度学び直させるために、イエス様をこの世に遣わしました。そして、イエス様に学び、信じるよう示してくださり、その生き方の中に一人一人を招き入れてくださったのです。

 私たちは他の誰かの痛みを理解しようと心を配り、イエス様に倣って誰かに手を差し伸べようとします。それは時にはうまくいき、時には失敗します。人々に誤解され、嫌われ、絶望的な気持ちになることすらあります。しかし弁護者であるキリストは、失敗した私たちを裁くために存在するのではありません。私たちを力づけ、素晴らしいコーチのとして、「発想は良かった、やり方を変えてもう一度やってみよう」と励ましてくださいます。
 ひどく失敗して、他の誰かから罵られても、すべてわかった上で受け入れてくださり、変わらずにそばにいてくださるのです。イエス様が私たちに愛想をつかすことなどないのです。
 私たちは安心して、諦めることなく間違いを正しつつ、時には、大きな悔い改めをもって、生き直すことも必要です。そのような時間と場が、この世には必要なのです。

 私たちは十字架の主イエスを見つめながら、自分の欠けたところをイエス様が満たしてくださることを信じましょう。
 そうした生き方を選び取る時、主イエスがどんなときも共におられ、見守り、弁護してくださることを思い出し、常に感謝しましょう。そして神の見守りの内に導かれるままに歩んで参りましょう。



5月15日(金)はサツマイモの植え付けでした
例年なら、園児、保護者、先生たちがワイワイと
賑やかに作業をするのですが
今年は三密を避けなければなりません



広々とした畑の中で
限られた先生と…


耕運機を持って駆けつけてくださった保護者の方
そして、そのお子さんだけで作業をしました
畝は半分ほど残して
別の日に園児たちに植え付けしてもらいます



密を避けて、と言いつつも
「棒を斜めに差し込んで苗も斜めに」なんて
おしゃべりをしているうちに
ついつい接近してしまいます(^_^;)

秋のお芋掘りの頃にはもっと自由に
作業ができますように!

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