2025年2月23日日曜日

「敵を愛しなさい」(日曜日のお話の要約)

顕現後第7主日礼拝(2025年2月23日)(緑)

創世記45章3~11節、15節(旧 81)

Ⅰコリント15章35-38節、42-50節(新 321)

ルカによる福音書 6章27-38節(新113)


 「敵を愛し、あなた方を憎むものに親切にしなさい」。この御言葉は、イエス様の教えの中で一番実行が難しい教えだと言われています。


 「敵を憎め」や「敵を無き者にしろ」というなら、言われるまでもなく人類は当たり前にやってきました。そしてその正反対の「敵を愛せよ」は、多くの人が「絶対無理」と言いつつも、心の底では「本当はそうありたい」と、求めている教えだと私は思うのです。


 最近は心の痛むニュースが多く、テレビや新聞にも悲しくてうんざりする情報が溢れています。未来への希望を失いそうになるそんな時代だからこそ、今一度イエス様のお言葉に耳を傾ける必要があります。


 神の子イエス様は、2000年前、イスラエル全体がローマの圧政に疲れ、指導者たちも保身に走り、社会的に弱い立場の人々がさらに苦しむ、そんな社会の真っ只中にお生まれになりました。ご自身も苦しみの多い中、そのご生涯は全くブレることなく、弱い立場の人々に寄り添い、癒しと生きる希望を与えられました。


 そして「敵を愛しなさい」「悪口を言う者に祝福を祈り」「あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい」といった教えを語られました。しかし今まで虐げられてきたは、この言葉を聞いても「結局弱い者は強い者にやられてばかりではないか」と納得できなかったかもしれません。確かに人が感じる痛みや恨みは簡単に捨てられるものではありません


 有名な哲学者であるニーチェは、そのあたりを鋭くついて、キリスト教徒の多くは、イエスに対する信仰を持った後も過去の屈辱や恨みから解放されず、せっかく新しい生き方を示されたにもかかわらず、過去を引きずってうじうしたまま生き、新しく生まれ変わろうとはしない」と指摘して「だからキリスト教は力がない」とまで言い放ちます。


 しかしイエス様は簡単には生まれ変われない人間の心を十分にご存じでした。その上で、「私に従いなさい」「私を信じなさい」「私を手本として、その業や言葉を発しなさい」と言われました。そしてさらには、私たちを天国へと導くことを約束して下さいました。


 クリスチャンは表面だけ見れば「やられっぱなし」に見えるかもしれない、しかしあなたは神様に招かれた神の民としてすでに天国にいるのだから、しっかり顔をあげなさい、と約束してくださっているのです


 イエス様ご自身は、イエス様から利益を貪ろうとする人々から「私たちの王になってください」と言われたのもつかの間、対立する指導者達の妬み、嫉妬、やっかみ等を受け、見せしめ死罪の十字架刑を受ける事となります。ほとんどの弟子たちも逃げ去り、誰一人イエス様を助けることも、救うことも出来なかったのです。


 それでもイエス様は、苦しみから今すぐ救われることを望まず、ご自分をひどい目に合わせた人々への復讐を祈ることもせず、3日後に神様が復活させてくださる、神様が再び命を与えてくださる、それこそが人々を信仰に導くために必要なことなのだ、と心から信じそれだけを待ち望んだのです。


 イエス様こそ、誰よりも敵を愛した方であり、憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈られた方だったのです。私たちはそのような方を神の御子と信じ、従いますと誓って洗礼を受け、それまでの生き方を変える歩みを始めたはずです。それなのに、いつの間にか、何かことが起これば言い訳し、神様の助けをもはや求めもせず、あてにもしない。信仰の所在がはっきりしない生き方になってはいないでしょうか。


 よく教会学校で読み聞かせをする絵本の中に、「ちいさなリース」という作品があります。実話をもとにした絵本で、ルーマニアでの出来事です。圧政によって両親を亡くした女の子が、両親の教えてくれた「あなたの敵を愛しなさい」という御言葉をひたすら守り、圧政の張本人である憎い将軍に草花で作ったリースを毎日贈り続け、将軍の心を溶かすお話しです。「敵だからこそ愛する」ことで世界の見え方が変わっていく、そんな逆説的な物語です。


 今、世界には再び「金と力を持つ者こそ正義」という時代が来ているようです。儲け第一主義で、弱者に寄り添うどころか弱者は積極的に切り捨てる。自分の主張が一番正しいと頑なに信じているので、「それはおかしい」と指摘しよう者なら、かえって喜んで馬鹿にする、そんな世の中になっていくようです。


 私たちキリスト者は、今がそうした時代であることを知った上で、神様からから与えられた命令、「あなたの敵を愛しなさい」を愚直に実践しながら生きていくのです。いつも上手に行動できるわけではありません。それでも世界を御心に沿った方向に変えるにはこの手段しかなく、この点は信仰者として譲ってはいけないのです。


 あなたの敵を愛しなさい。この御言葉を深く自分の刻むために、私たちは聖書を読み、イエス様の生き様を知り、導かれ、愚かだと言われても、損をしていると馬鹿にされても、礼拝を通して、主イエスの生き様や御心に触れてまいりましょう。些細なことでも毎日の生活の中で実践し、身近なところから赦しを学びつつ、この世を歩んでまいりましょう。



今月のトピックス(教会機関紙のようなもの?)に

リノベーション途中の教会の写真を1枚だけ載せました

4月半ばの完成まで少しずつ形になっていくのを見守るのは

楽しいものですね




2025年2月16日日曜日

「真の幸いと不幸」(日曜日のお話の要約)

顕現後第6主日礼拝(2025年2月16日)(緑)

エレミヤ書17章5~10節(旧 1208)

Ⅰコリント15章12-20節(新 320)

ルカによる福音書 6章17-26節(新112)


 飯田を訪れた宣教師の方々について調べてみますと、宣教の思いは筋金入りで、飯田幼稚園の園長だった宣教師のご子息は、帝政ロシアから独立したフィンランドで教育大臣になったそうで、その思想の根本は遊郭の近くに建てられた飯田教会で培われたと伝え聞きました。


 日本福音ルーテル教会は、他にアメリカから来られる宣教師の方もおられますが、私の感覚ですが、雰囲気が違うように思えます。


 どちらの国の宣教師の方々も、貧しき者に寄り添うために宣教にいそしみ、泣く者と共に泣くという、キリスト者としての生き方を日本人に指し示すことを喜びとしておられます。ところがこのタイプの違う二つの国の宣教師が日本で出会うと、それぞれ自分達のアプローチが日本のためになると信じ、互いのやり方を批判するのです。間に挟まった日本の牧師は、教会員やその家族に悪い影響が出るのではないかと、ヒヤヒヤしてしまいます。


 古い話ですが、日本にキリスト教が伝えられたのは1549年、織田信長や豊臣秀吉の時代です。ヨーロッパを出発したイエズス会とフランシスコ会は、海外宣教する土地を巡って縄張り争いをした挙句、日本にたどり着きます。対立する二つの宣教団体が信者獲得の為にさらに半目しあって、ついには京都で大暴れした、と言う嘘か本当かわからない記録があるそうです。


 仮にイエズス会とフランシスコ会の宣教師たちが日本人の救いのために協力して宣教したならば、歴史はずいぶん変わっていたのではないかと思うのです。ですから、フィンランドとアメリカでは宣教の方法が違うなあ、と思うたび、この歴史出来な出来事を思い出します。


 日本の牧師は学生時代に、キリスト教と「異端」と呼ばれる教えの違いを学びます。説明すれば長くなりますが、簡単に言えば、イエス様を唯一の神様の信じ、聖書66巻を神の言葉と信じて勝手に付け足したりしないこと、そういったことが基準となります。これを満たしていれば、どれだけ方法論が違っても、同じキリスト教徒として、ときには手を取り合って伝道する必要がある、と学びます。理想と現実は違いますが、忘れないでいたいと思うことの一つです。こう言った協調路線は日本人の得意なことなのかもしれません。


 さて、本日のルカ福音書ですが、本日読みましたところは、「平地の説教」と呼ばれるところで、マタイ福音書5章の「山上の説教」と同じ内容です。しかし注意して読むと強調点が異なっています。


 ルカ福音書の冒頭は「貧しい人々は、幸いである」で始まりますが、マタイ福音書は「心の貧しい人は」と「心が貧しい」という言い方で始まっています。ここからわかるように、マタイは精神性を強調しているとも言われています。


 一方ルカ福音書は、ずばり「貧しい人々は」です。イエス様は「目の前にいるあなたがたは貧しい者だ、しかし神の国はあなたがたのものである」と教え、伝えたのです。


 ここから読み取れることは、ルカ福音書を書いたルカの側には、本当にお金がなく、病になっても医者にもかかれず、苦しみに泣いている人々がたくさんおり、その人々が教会に集まって、イエス様のお言葉を聞いていた、ということです。


 ルカ福音書の著者であるルカがユダヤ人ではないことは何度かお話ししました。ルカはイエス様に一度もあったことはありませんが、回心したパウロに導かれてイエス様を信じ、地中海沿岸への宣教旅行に同行します。キリストの教えが、ユダヤ人だけの教えではなく、全ての民族に開かれていると確信し、教会を建てあげていった人物で、その苦労は使徒言行録や手紙に綴られていますす。


 その宣教の過程で、他の宗教を信じる人々に命を狙われるだけでなく、ユダヤ教を信じるユダヤ人からも迫害されます。信徒の派閥争いにも巻き込まれ、パウロと共に涙を流し続けました。


 一方、マタイ福音書の著者であるマタイは徴税人からイエス様の12弟子一人へと劇的転身を遂げた人物だと言われています。マタイ福音書は旧約聖書からの引用が多いことから、読者が旧約聖書を「なるほど」と読める知識を持ったユダヤ人であることを想定して書かれたようです。恐らくマタイにはキリスト教とユダヤ教を明確に分ける考えはあまりなく、イエス様の教えを尊重しながらユダヤ社会の中で生活し、他の民族と一体化することに少し抵抗を示すような場面もあったようです。


 ざっくり言ってしまえば、ルカたち異邦人クリスチャンがさまざまなトラブルに耐えて波乱万丈の宣教だったのに対し、マタイたちの生活はもう少し安定していたとも考えられます。もちろんそれは神様のご計画の中にあるので、マタイとルカのどちらが楽だったか、などと比較することに意味はありません。マタイは伝統に凝り固まったユダヤ人と日々接しながら理論的に伝道を続けたので、その教えは心の持ちようを強調することも多かったでしょう。


 つまりは、お金のない貧しい異邦人に伝道するルカと、経済的には安定していても頭の硬いユダヤ人に伝道するマタイの違いが、イエス様の教えの「貧しい人は幸い」という考え方の最初に「心の」を付けるか付けないかの違いを生み出したといえるのでしょう。


 牧師仲間で「心」が付いているのが好きとか嫌いとか言った雑談をすることもありますが、自分の好みに合わない記述でも、その御言葉を生み出した当時の背景が隠されており、ひいては神様のご計画が見えてくる、という結論に落ち着きます。


 さて、イースターの頃には、会堂の耐震補強も完成します。飯田の大火の後、ノアのはこぶねの三分の1スケールで作られたそうです。、間も無くそれを取り戻す私たちは、ここであらたな世界を創っていく勢いで、群れとして信仰形成をし、歩んで参りましょう。


昨日は土曜学校でした

幼稚園の遊戯室は都合でお借りできなかったので

日曜日に礼拝をしている「集会室リリー」で

試みに実施してみました

狭かったけど、お友達はそれなりに

楽しんでくれたのではないかと思います


いつものように作品を持って記念写真です













2025年2月9日日曜日

「キリストの弟子」(日曜日のお話の要約)

顕現後第5主日礼拝(2025年2月9日)(緑)

イザヤ書6章1~8節(旧 1069) 

Ⅰコリント 15章1-11節(新 320)

ルカによる福音書 5章1-11節(新109)


 聖書の世界には「先生」と訳せる言葉がいくつかあります。その中の代表的なものが今日の福音書でペトロがイエス様に呼びかけるのに使った「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」というところです。これは「ラビ」という単語に当たり、プロとして何かを教える人に普通に使われる言葉です。


 このエピソードはマタイ福音書とマルコ福音書にも記されています。比較してみますと、マタイとマルコはイエス様の「私についてきなさい、人間をとる漁師にしよう」という呼びかけに「すぐに従った」ことが強調されています。これに対してルカ福音書は、イエス様に従うまでのペトロの行動や心を詳しく記録しています。


 まず湖の朝、空しく網を洗うペトロの姿がありました。魚一匹も取れないのは、こういう仕事の中ではたまに起こることかもしれませんが、うんざりした感情を抱えていたことでしょう。イエス様はそんなペトロに既に目を止めておられるのですが、ペトロの方は全く気づいていないようです。イエス様からお話をを聞こうと押しかけてきた群衆の騒がしさにますます気持ちが苛立ったかもしれません。


 そんなペトロにイエス様が話しかけられます。「この人たちに話をするために、舟を少し漕ぎ出して欲しい」。ルカによる福音書では、イエス様とペトロはこの時が初対面ではありません。イエス様がガリラヤ地方で宣教を始めて少しずつ名前が知られるようになった頃、ペトロの姑が熱を出したことがあり、人々がお願いして癒していただいたことがあったのです。


 そんな経緯もありましたから、ペトロは頼まれた通りに舟を出します。ペトロはイエス様の言葉を一番近くで聞くこととなりました。しかし、先ほどまでの空しく過ごした時間が消えて無くなるわけではなく、イエス様のお話は彼の耳に入ってきません。イエス様がどれほど希望に満ちた、励ましの言葉を語られても、「俺には関係ない、俺には意味がない」とふてくされて、つぶやいていたかも知れません。


 やがてイエス様のお話は終わり、群衆は心満たされて去っていきました。それとは対照的に、イエス様の話を聞き終えたペトロの心には何一つ残るものはありませんでした。しかしイエス様はそんなことは関係ない、と言わんばかりに「さらに沖に漕ぎ出し、漁をするように」と命じられます。これはペトロにとって、意外な命令でした。網の手入れは終わっていますし、また空しさを重ねることには抵抗がありました。自分より年下に見えるこの人物は、どう見ても湖での漁の経験などありそうもなかったのです。しかしイエス様には逆らいきれない威厳がありました。


 ですから、ペトロは「先生」と話しかけます。この「先生」という言葉の意味は、師弟関係を強く打ち出した言葉で、あなたの指示に従います、という思いが込められています。イエス様がシモンの姑を癒したとき、感謝はしているけれど、「イエス様は神の子だ」という信仰を抱くにはまだまだ遠いところにいたのです。


 しかし、イエス様に従って舟をこぎ出し、教えられたところで網を降ろしたペトロは思わぬことを体験します。網を引き上げようとすると、今まで感じたことのない異様な手応えと共に大漁の魚が引き上げられてきて、網が破れそうになったのです。彼は大慌てで仲間を呼び、舟はかつてなかったほど魚でいっぱいになります。


 漁師の性と言いますか、大漁に胸躍らせたペトロでしたが、我に帰るとあり得ない出来事に恐れ慄きます。こんなことができるのは人ではない。そう思った瞬間ペトロはイエス様に「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と叫んで平伏していたのです。ペトロがイエス様を「主よ」と呼んだのです。一般的な「先生」という言葉を使っていない。彼の意識が大きく変わったのです。


 この「主よ」とは、ずばり「神よ」と呼びかけているのと同じです。ペトロは、イエス様が神そのものであることが分かってしまったのです。そのような方に自分はなんという失礼な言動をとってしまったのだろう、私はなんという罪人だろう。これはただではすむまい。と死ぬことまで覚悟したのです。ところがイエス様は恐れ慄くペトロに向かってまず「恐れることはない」とおっしゃったのです。


 ペトロは今まで漁師としての誇りを持ち、家族を養って生きてきました。しかしそれと同時に、社会においては、紛争や政治的なぶつかりなど、ローマの支配の中であらゆるものがギスギスしていることに怒りを感じ、血の気の多いガリラヤの人間としては、自分の無力さに苛立っていたとも言えるでしょう。


 そんな矛盾を抱えたペトロに向かってイエス様は「恐れることはない」と言われた後、「今からのち、あなたは人間をとる漁師になる」と断言されました。


 この後、ペトロの他に、奇跡の漁に加わったアンデレ、ヤコブ、ヨハネを加えた4人は、舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った、と書かれています。「舟を陸に引き上げ」という言葉はここにだけしか出てこない言葉のようで、「退路をたつ」「後戻りしないよう自分の心に釘を刺す」といった意味になるでしょう。イエス様についていくことへの「不安」や「思い煩い」を陸に引き上げて、もうあれこれ心配しない、という意味なのです。


 洗礼を受けた私たち一人ひとりにはこの時のペトロのように「イエス様についていく」と心に決めた日があったはずです。毎日生きるのに精一杯だった自分に、神様が「ついてきなさい」とおっしゃった。その時、本気でこの世の思い煩いを捨てる決意をしたかどうか、もう一度振り返ってみたいのです。


 私たちは、かつてのわたしたちと同じようにあくせくして自分を見失っている人々にイエス様の救いを伝え、イエス様のもとに導く「人間を取る漁師」の役割が与えられています。人間が人間らしく生きるために、あらゆる人々をイエス様の元に集めることを使命として生きる、ペトロに、そして時を超えて私たちに与えられたのです。このことをもう一度深く胸に刻んで参りましょう。




2月の第3土曜学校は幼稚園の都合で遊戯室が使えず

思い切って集会室リリーで実施することにしました

ちょっと狭いですが、みんなでワイワイ楽しみたいと思います

このページをご覧になって参加を希望される方は

場所をお教えしますので、お問合せください






2025年2月2日日曜日

「キリストを見る心」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・顕現後第4主日礼拝(2025年2月2日)(緑)

エレミヤ書1章4~10節(旧 1172) 

Ⅰコリント 13章1-13節(新 317)

ルカによる福音書 4章21-30節(新 108)


 本日の福音書は、先週の総会礼拝で取り上げたお話の続きです。舞台となったナザレの町は、イエス様が子ども時代から慣れ親しんだ場所でした。宣教活動の合間に戻ってこられたようです。そして安息日には、ごく自然に、ユダヤ教の教育と礼拝のための施設、シナゴークに行かれました。今日ご一緒に読みますのは、その時引き起こされた悲劇的なエピソードなのです。


 イエス様がそこに集まる故郷の人々に向かって、信仰の徳を高める為にお話をなさった時、人々は確かにその恵み深い言葉に感動しました。けれども、途中でなぜか妙な屁理屈をこねだして、イエス様の育ての父であるヨセフのことまで引き合いに出し、見下すようなことを言い始め、イエス様を町から追い出そうとし、ついにはイエス様を崖から突き落とそうとした、とまで書かれています。


 それでもイエス様は彼らの心をいつかは取り戻すことを望まれます。その一つが、「医者よ、自分自身を治せ」という御言葉です例えば、お医者さんから生活習慣病を防ぐために、少しは痩せるようにとか、運動をするように、と指導されることがあります。そのお医者さんがいかにも健康そうな人なら説得力がありますが、もし太り過ぎに見えたり、不健康な顔色をしている人だったりすると、そのアドバイスは素直に聞けないものです。せっかく正しい知識があるにもかかわらず、その知識を正しく理解し、謙虚に実行しようとはせず、自分が優位に立つ事だけに用いようとするのはいかがな者でしょう。


 聖書の正しい解き明かしについても、自分の方が知識があると思い込み、厳しい指摘をされると自分を否定されていると感じ、反発する。イエス様がここで仰る「医者よ、自分自身を治せ」というお言葉は、そのようなイメージなのでしょう。


 ここに登場する人々は恵みを感じた次の瞬間、激しい怒りで攻撃的になります。そんなことがあるだろうか、と思われるかもしれませんが、聖書は良いお話ばかりではなく、人の身勝手さや罪深さ、心の闇について詳しく書かれている書物でもあります。


 イエス様がここで引用されている預言者エリヤとエリシャの物語は、ユダヤ人にとっては非常に馴染みのあるもので旧約聖書の列王記上にかなりのページを割いて記録されていています。


 この日シナゴーグに集まった人々も、子どもの頃から知っている話でした。よくわかっているつもりだったのに、思いもかけない切り口でお話を聞かされ、自分達が都合よく聞き流していた部分を、この部分こそ本質なのだ、と言われ、非常にプライドが傷ついたと考えられます。


 イエス様のお話への理解を深めるために、イエス様が引用されたエリヤとエリシャについて、少し見ておきたいと思います。まず、イエス様がエリヤについて言及されたのは列王記・上17章の出来事です。イスラエルの多くの人が飢餓で苦しんでいる時、預言者エリヤは神様から、ユダヤ人ではない貧しい未亡人とその息子のもとに行くよう示されます。そこでエリヤはシドン地方のサレプタに住むその未亡人のところに居候しながら神様のお力で彼女たちの生活を支え、ついにはその親子に信仰の心を起こさせました。


 もう一人のエリシャはエリヤの弟子で、この出来事は列王記・下の5章に書かれています。ここでもユダヤ人以外の人物人が登場します。ナアマンというシリア人の身分の高い軍人が重い皮膚病にかかり、噂で聞いたエリシャの元にやってきます。いっそ騙されたつもりになってエリシャの治療法に従ったところ、すっかり癒やされ、彼もまた信仰心を抱くようになったエピソードです。


 サレプタの未亡人とナアマン将軍のお話しを通してイエス様が強調されたのは、神様の救いの御業はユダヤ人だけの限定的な業でなく、神様の一方的な恵みであり、神の業と言葉を感謝して信じ、素直に受ける信仰があれば、異邦人にも与えられる、ということでした。


 神様との繋がりは、神様の前で謙虚になることによって得られるものであり、自分は何々だからということからも解放されて、神様の救いの業の中に私も含まれている、その感謝を思ってそこに留まるようにイエス様はお教えになったのです。


 ここに登場するユダヤの人々は非常に差別的で、異邦人が神様に救われたのは、神様がお力を示すための気まぐれに過ぎず、エリヤの話もエリシャの話も、本筋から外れた蛇足的なエピソードだと思っていたのでしょう。


 ところがそれを、イエス様が「ユダヤ人に足りない非常に大事なことを異邦人が持っていた」とお語りになったのです。それで人々は憤慨し、総立ちになって、イエス様を町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたのです。

 ちなみにこの崖は「突き落としの崖」といった物騒な名前で呼ばれ、ナザレに観光に行くとガイドさんが案内してくれるそうです。


 それはともかく、ナザレの人々は自分達は神様に救われて当然、という傲慢さに陥っていたため、神様の聖なる言葉を受け入れられない状態だったのです。彼らの態度を見てイエス様は「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と嘆きの言葉を残されました。


 それでもイエス様は、それから後も、神様が導かれる限り、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、救いの業を行われました。


 私たちは、自分自身のことを平凡な存在と思っているかもしれません。しかしユダヤから遠く離れた日本の地で、イエス様を信じたということは、神様の奇跡がなければ起こりえないことなのです。私たち一人一人は神様の奇跡によって存在している。そのような思いでキリストを見る心をいつも大切にしてまいりましょう。



建物の正門横にある教会と幼稚園の共通の掲示板に

毎月頭に牧師が組み立てたレゴの作品を入れています

園児には割とウケが良く

楽しみにしてくださっている保護者も

おられますが

今は工事中で正門からは出入りできないので

掲示板の前を通る人も少なく

熱量がちょっと下がっています


この作品は明日掲示板に入れる予定で組み立てましたが

レゴではなく、(おそらく)韓国で作られたパズルです


「イエス様とマリアさん」

…に、見えますでしょうか?